第10話 朝の招集

朝の競技場は、まだ夜の続きを抱えていた。
空は薄い灰色で、雨は止んでいる。けれど、トラックの外側には水たまりが残り、白いレーンの一部は泥の色を映していた。父の車を降りると、冷えた空気が喉へ入り込んできた。
「靴は」
父は運転席から聞いた。
「持ってる」
「見せろ」
私は鞄を開け、古い練習靴を取り出した。父はそれを受け取り、靴底をひっくり返す。減り具合を親指でなぞり、紐の結び目を確かめる。
「まだ使える」
「そう」
「ただし、雨のあとのタータンは滑る。最初から飛ばすな」
「分かってる」
「分かっていない顔だ」
父は靴を返した。
「お前は走りたいと思うと、足元より先に前を見る」
責める声ではなかった。だから、返す言葉が見つからなかった。
父はハンドルへ手を戻した。競技場の入口には、すでに何台かの車が停まり、選手たちが荷物を抱えて歩いている。西陵学園のジャージも見えた。
「見ている」
父が言った。
「何を?」
「お前が、どこまで自分で考えるか」
それだけ言うと、父は車を発進させた。窓が閉まる直前、私は呼び止めようとした。けれど、口から出たのは別の言葉だった。
「行ってきます」
父は振り返らなかった。ただ、ブレーキランプが一度だけ赤く明滅した。
部室へ入ると、昨日とは違う匂いがした。雨に濡れた布と、朝の冷たい空気。それに、誰かが淹れたインスタントコーヒーの苦い香りが混ざっている。
松原先輩のロッカーには、白い決勝用ユニフォームが戻っていた。
昨日まで空いていた棚に、きちんと畳まれて置かれている。胸元の校章も、泥の跡もない。けれど、袖口の内側には薄い茶色の線が残っていた。完全には落ちきらなかった土の跡だ。
「見つかったんですね」
私が言うと、松原先輩は頷いた。
「黒川先生が、倉庫の備品袋から見つけた。昨日、雨具と一緒に移動させたらしい」
「誰が?」
「俺が頼んだ」
先輩はユニフォームから目を逸らした。
「決勝用だから、濡らしたくなかった。けど、置き場所を変えたことを誰にも言わなかった。周りが勝手に探し始めて、余計にごちゃごちゃした」
「主将が自分で?」
「主将だから、黙っていれば収まると思った」
その言葉を聞いたとき、綾瀬の顔が浮かんだ。勝つための顔を崩さない人。誰かに心配される前に、姿勢を整えてしまう人。
松原先輩は、ユニフォームの端を握った。
「悪かった。神崎にも、みんなにも」
「謝るなら、今日の走りで」
蒼が横から言った。
先輩が顔を上げる。
「お前は、朝から生意気だな」
「いつもです」
「知ってる」
短いやり取りのあと、二人とも少しだけ笑った。疑いが消えたわけではない。ただ、疑いを置いていた場所へ、別の言葉が置かれたのだと思った。
そのとき、黒川先生が入ってきた。
「松原。ユニフォームは自分で管理しなさい」
「はい」
「神崎。補給表を」
「はい」
「高坂。アップへ行け。口を動かす前に脚を動かせ」
「先生、俺はいつも脚を動かしながら口も――」
「行け」
「はい」
蒼が笑いながら外へ出ていく。私も補給表を抱えて後を追おうとしたが、黒川先生に呼び止められた。
「神崎」
「はい」
「今日、四継の第三走者を変更する」
手の中の紙が、わずかに震えた。
「変更……ですか」
「朝倉が右ふくらはぎに張りを訴えた。走らせない」
「代わりは」
「あなた」
言葉が、音にならずに喉の奥へ落ちた。
先生は私の顔を見たまま、続けた。
「無理に走れとは言わない。補欠として待機するか、第三走者として準備するか。決めなさい」
「私が走っても、チームに迷惑をかけるかもしれません」
「かもしれない」
「記録も、朝倉くんのほうが速いです」
「知っている」
「それでも?」
「それでも、今ここで走れるのはあなた」
先生は、答えを押しつけるようには言わなかった。だからこそ、逃げ道がなかった。
私は窓の外を見た。蒼がトラックの内側で、足先を何度も鳴らしている。こちらに気づくと、片手を上げた。急かすでもなく、ただ見ている。
私は鞄から古い練習靴を出した。
「準備します」
声は思ったより普通だった。
黒川先生は頷いた。
「体の状態を言葉にしなさい。痛み、違和感、怖さ。隠すな」
「怖さも、ですか」
「怖さを隠すと、足元が遅れる」
父と同じようなことを言われた気がした。けれど、先生の言葉は私を止めるためではなく、立つ場所を確かめるためにあった。
外へ出ると、空気が少し明るくなっていた。
蒼が駆け寄ってくる。
「何だって?」
「第三走者になる」
一瞬、蒼の表情から冗談が消えた。
「マジか」
「うん」
「怖い?」
「怖い」
「ちゃんと言うじゃん」
「先生に言われたから」
「じゃあ、俺が聞いたからじゃねえのかよ」
「蒼には言いたくなかった」
「なんで」
「笑うから」
「笑わねえよ」
蒼は少しだけ間を置いた。
「……たぶん」
「ほら」
「いや、でも、そういう怖さなら悪くないだろ」
「どういう意味?」
「走りたくない奴は、そんな顔しねえよ」
私は返事をしなかった。代わりに靴紐を結び直した。父に確かめられた結び目をほどき、自分の手で、もう一度締める。
強すぎないように。緩すぎないように。
スタンドの端に、父の姿が見えた。腕を組み、こちらを見ている。応援するでもなく、手を振るでもない。ただ、足元を見ていた。
向こうのレーンでは、綾瀬が一人でストレッチをしていた。彼は私に気づくと、ほんの少しだけ姿勢を止めた。
私は近づいた。
「昨日のこと、誰にも言っていません」
「……ありがとう」
「でも、隠したままにする必要もないと思います」
綾瀬は目を伏せた。白いリストバンドが、朝の光の中で濡れたように見えた。
「今日、走るのか」
「たぶん」
「たぶん?」
「走る準備をしています。走れるかどうかは、これから決めます」
綾瀬は初めて、わずかに口元を緩めた。
「それでいいと思う」
「綾瀬さんも、誰かに決めてもらわないでください」
言ってから、余計なことだったかもしれないと思った。けれど、彼は怒らなかった。
「努力する」
その返事は、昨日より少しだけ弱く、だからこそ本当らしかった。
招集を知らせるアナウンスが競技場へ流れた。濡れたトラックに、選手たちのスパイク音が重なっていく。
私はスタートラインの手前で立ち止まり、息を吸った。
怖い。足が重い。失敗するかもしれない。
それでも、今日は誰かに決めてもらうために、ここへ来たのではない。
私はラインの内側へ足を置いた。湿ったタータンが、靴底を静かに受け止めた。
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