第9話 静江の指先

久世静江から連絡が来たのは、地下保管庫から戻った翌日の午前だった。

携帯電話の画面に表示された名前を見たとき、私はすぐには応答しなかった。由子の机の上には、地下から持ち出した地図の片割れと、封緘記録の複写、真壁が回収した荷札の写真が並んでいた。資料はすべて角を揃えてある。だが、その整った形の下で、昨夜から胸の内側だけが濡れたままだった。

「橘透真様でいらっしゃいますね」

電話の向こうの声は、低く、よく整っていた。

「はい」

「久世静江です。突然で申し訳ありません。少し、お話しできる時間をいただけないでしょうか」

「何の話ですか」

「古い倉庫と、亡くなられた叔父様のことです」

問い返すと、静江は一拍置いた。

「お会いしてからのほうが、誤解が少ないと思います」

「誤解ではなく、事実を確認したいだけです」

「その言い方は、叔父様に似ていますね」

通話の向こうで、紙をめくるような音がした。

「再開発組合の会議室へお越しください。港から離れた場所ですので、少しは落ち着いてお話しできるかと思います」

私は電話を切ったあと、由子へ視線を向けた。

彼女は地図に薄紙を重ね、裂け目の角を細い竹べらで押さえていた。私の顔を見ずに、静江からの連絡だと分かったらしい。

「行くんですね」

「行きます」

「何を持っていきますか」

「地図、南京錠、封緘記録。叔父の手帳も」

由子は竹べらを置いた。

「全部は持っていかないほうがいいと思います」

「返せと言われる可能性があります」

「だからです。返せる物と、返せない物を分けておく必要があります」

「静江が何か知っている」

「知っているでしょう。問題は、どこまで知っているかではありません。何を知っているように見せるかです」

由子は机の端に置いた複写紙を一枚、私のほうへ滑らせた。

「会話は記録してください」

「録音するんですか」

「あなたの記憶だけに置かないためです。人の言葉は、その場では強くても、あとから形を変えます」

「静江は、記録に残ることを嫌がるでしょう」

「嫌がる人は、嫌がっているように見せません」

由子はそこでようやく私を見た。

「だから、あなたは相手の手元を見てください」

再開発組合の事務所は、港を見下ろす高台に建っていた。

旧市街から坂を上るにつれ、道の端から水たまりが消えていった。古い商家の軒先にはまだ湿った木材の匂いが残っていたが、組合の建物に近づくと、空気は乾いたコンクリートと新しい塗料の匂いに変わった。

玄関脇のガラス壁には、完成後の港の模型写真が掲げられている。白い歩道。海へ向かって開かれた広場。倉庫街のあった場所には、樹木とベンチが配置されていた。

写真の中の海は青く、霧も錆もなかった。

私は受付で名前を告げ、会議室へ案内された。

部屋の中央には、木目の長い机が置かれていた。表面には傷ひとつなく、椅子の位置も左右対称に揃えられている。窓の外には、旧倉庫街が見えた。遠くから見ると、壊される予定の建物はただの低い影にしか見えない。

久世静江は、窓を背にして立っていた。

濃い色の服の襟元を整え、私が入ると小さく頭を下げた。五十代後半に見える顔には、疲れも驚きも浮かんでいない。

「お時間をいただいて、ありがとうございます」

「こちらこそ、呼んでいただいて助かります。聞きたいことがあります」

「ええ。そうでしょうね」

静江は椅子を示した。

「紅茶を用意しています。お飲みになりますか」

「結構です」

「そうおっしゃると思いました。ただ、温度が下がる前に召し上がっていただいたほうが、香りはよいのですが」

「叔父が殺された場所の地下から、あなたの写真が見つかりました」

静江は椅子へ腰を下ろした。背筋はまっすぐで、両手は膝の上に静かに置かれている。

「写真、ですか」

「二十年前の倉庫街の写真です。若いあなたが、橘誠一と一緒に写っていた」

「古い写真に、私が写っていてはいけませんか」

「あなたは、葵丸事件の夜にあの場所にいた」

「その言葉を、あなたはもう事実として扱っているのですね」

「写真と記録があります」

「写真は場所と時間を正確には語りません。記録も、すでに改変されている。そう教えてくれたのは、あなたが信頼している司書の方ではありませんか」

静江は卓上の紅茶へ手を伸ばした。カップを持つ指先は細く、爪は短く整えられている。右手の人差し指の側面に、薄い傷があった。乾いた裂傷のように見える。浅いが、古いものではない。

私はその傷から目を離さなかった。

「あなたは、地下保管庫の場所を知っていましたね」

「地下保管庫という言い方を、私はしていません」

「今、しました」

静江の指が、カップの取っ手で止まった。

「あなたが先に言ったのです」

「私は、保管庫としか言っていません。地下とは言っていない」

静江は私を見た。

「なるほど。よく確認なさるのですね。誠一さんも、そういうところがありました。人の顔を見ず、物の置き方ばかり見ている。誰かが書類を一枚ずらしただけで、何時間でもそこに立っていられる人でした」

「あなたは、叔父をよく知っている」

「港で働いていた人間なら、知っていて当然です」

「乾さんも同じことを言いました。仕事上の関係だと」

「仕事上の関係では、不十分ですか」

「叔父はあなたたちの記録を守るために、二十年間黙っていた」

「守った、と決めつけないでください」

静江は紅茶を一口飲んだ。唇を離してから、カップを受け皿の中央へ戻す。置く位置に迷いがない。

「沈黙には、いくつもの理由があります。恐怖、利害、罪悪感、愛情。本人でさえ、どれが一番大きかったのか分からないことがある」

「あなたは分かっているんですか」

「私は、分からないものを分からないまま扱う訓練をしてきました。街をつくる仕事では、そのほうが人を救うことがあります」

「記録を消すことが?」

静江の表情は変わらなかった。

「古い記録が残っていることで、現在の人間が傷つくことがあります。二十年前の荷物の流れを追えば、当時の会社だけでなく、いま働いている人間の家族まで巻き込まれる。誰かの父親が密輸を手伝った。誰かの母親が帳簿を書き換えた。そういう名前を表へ出せば、過去の責任が現在の生活へ移る」

「だから、過去を消した」

「消したのではありません。役目を終えた記録を、別の場所へ移したのです」

「地下へ?」

「あなたは、ずいぶん地下にこだわるのですね」

「あなたが知っているからです」

「知っていることと、関わったことは違います」

「では、あなたはあの夜、何をしていたんですか」

静江は答えなかった。

窓の外で、建設用の重機が動いた。低い振動が壁を伝わり、机の上の紙がわずかに震える。私は鞄の中の携帯電話へ触れた。録音は始まっている。由子の言葉が、指先の奥に残っていた。

紙は嘘をつかない。人は紙を使って嘘をつく。

「私は、後始末をしていました」

静江が言った。

「何の後始末ですか」

「港では、荷物が届けば誰かが受け取り、誰かが運び、誰かが帳簿へ書きます。問題が起きたときには、逆の順序で片づける必要がある。荷物を消し、記録を整え、関係した人間に口を閉じさせる。そうしなければ、港全体が止まる」

「密輸の後始末ですか」

「その言葉は、あなたが選んだものです」

「否定しない」

「否定する必要がありません。あなたが欲しいのは、私の否定ではなく、あなたの推理に合う返事でしょう」

「あなたは、人が死んでも港が止まらなければいいと思っている」

静江は初めて、わずかに眉を動かした。

「人が死ぬことを望んだわけではありません」

「でも、誰かが消えた」

「消えたのは一人ではありません。事件のあと、仕事を辞めた人、町を出た人、名前を変えた人。すべてを同じ形で語ることはできない」

「葵丸事件の失踪者は誰です」

静江は視線を落とした。

「あなたが知る必要はありません」

「また、その言葉です」

「必要かどうかを決めるのは、あなたではない」

その言い方は、真壁のものとは違っていた。真壁が壊れない場所を探すために線を引くのに対し、静江は相手を線の外へ置くために同じ言葉を使っている。

「私の記憶を封じたのも、あなたですか」

静江の指が、カップの縁に触れた。

指先の傷が、白い陶器の上で細く見えた。

視界が揺れた。

濡れた床。古い荷札。鉄扉の脇に置かれた白いコート。誰かが紙を切っている。金属の輪が引かれ、短い音がする。

私の肩を抱く腕。

「叔父さん、見てはいけない」

声は、誠一のものだった。

その声が低く震えている。私を叱っているのではない。私の目を、何かから逸らそうとしている。

「透真さん?」

静江の声で、私は会議室へ戻った。

椅子の背に手を置いていた。指先が冷たい。窓の外の重機は止まり、今度は換気扇の音だけが聞こえている。

「大丈夫です」

「顔色がよくありません」

「子どもの頃、あなたを見た」

静江は黙った。

「白いコートを着て、保管庫の前にいた。あなたは紙を切っていた。叔父は私の口を塞いで、倉庫の奥へ押し戻した」

「記憶は、思い出すたびに形を変えます」

「では、なぜあなたの指にその傷がある」

「紙で切っただけです」

「紙を切る仕事をしていた」

「誰でも紙で指を切ります」

「あなたは、二十年前の記録を切り取り、叔父の名義を消し、私を見た」

静江の声が、わずかに低くなった。

「見たからといって、覚えているとは限りません」

「あなたは、私を覚えている」

「覚えていません」

「なら、なぜ私を会議室へ呼んだ」

「あなたが記録を持っているからです」

「地図と南京錠を?」

「それだけではありません」

静江は卓上の封筒へ目を向けた。私は持ってきていない。だが、彼女はそこにあるものを正確に知っているようだった。

「誠一さんは、最後に何かを残したのでしょう。あの人は、誰かに渡すべきものを渡さないまま、長く持ちすぎました」

「叔父が何を持っていたか知っている」

「知っていた、というほうが正しいでしょう」

「南京錠のことも」

「橘誠一の名義が刻まれた封緘具。保管庫を開けた責任を、形にして残す道具です」

その言葉を聞いた瞬間、部屋の空気が薄くなった。

南京錠の用途を知っているのは、由子と真壁、それから私だけのはずだった。静江はそれを、正式な名称まで含めて口にした。

「あなたが、あの南京錠を使った」

「私は使っていません」

「では、誰が」

「誠一さんです」

静江はカップを置いた。

「彼は、あの夜、保管庫を開けました。そして、見てはいけないものを見た。見たあとで、口を閉ざした。あなたを守るためです」

「私を?」

「あなたは迷子になったのではありません。あなたは、叔父様について倉庫街へ入り込んだ。大人が子どもを連れていく場所ではなかった。それでも、あなたは見てしまった」

「何を」

「白いコートの私と、乾さんと、港の男たち。荷物を海側の回収口へ移しているところです。葵丸という船から降ろされたものを、帳簿に残さず倉庫へ入れていた」

「失踪した人間は」

静江の目が、初めて私の顔に止まった。

「あなたは、そこまで思い出していない」

「誰が消えたんですか」

「名前を聞けば、あなたはまた別の物語をつくるでしょう。被害者、加害者、共犯者。人間をそういう箱に入れることが、あなたの得意な整理です」

「あなたは、箱に入れる代わりに、名前を消した」

「名前を残すことで、救われない人間もいます」

「それは、消す側の理屈です」

「ええ。消す側の理屈です」

静江は否定しなかった。

その素直さが、かえって不気味だった。

「私は、街を守るために、誰かの人生を切り捨てました。誠一さんも、乾さんも、あの夜にいた人間は皆、何かを失った。あなたの叔父様は、あなたの記憶を封じることで、少なくともあなたをこの町から遠ざけようとした」

「叔父は、私に何も説明しなかった」

「説明すれば、あなたは戻ってくるからです」

「それでも、私が戻った」

「だから困っているのです」

静江の声は静かだった。

怒っているわけでも、脅しているわけでもない。けれど、その一言の底に、長く管理してきたものが崩れ始めた人間の焦りがあった。

私は鞄から半分に裂けた地図を取り出した。由子が包んだ薄紙を外し、机の上へ置く。

静江の目が地図へ落ちた。

「もう半分は、保管庫にありました」

「そうですか」

「明日、四番倉庫の背面が壊される。あなたは、その前に証拠を回収したい」

「回収という言い方は適切ではありません。証拠は、誰かの所有物ではありませんから」

「きれいな言葉ですね」

「あなたが使う未来という言葉よりは、意味が限定されています」

静江は薄く笑った。

「あなたは、叔父様のようにまっすぐですね。まっすぐな人間は、折れたときに戻りません」

「脅しているんですか」

「忠告です。記録を公にすれば、乾さんの会社は終わるでしょう。真壁さんも、過去の捜査を問われる。あなたのお母様が施設にいることも、調べればすぐに分かる。港の人間は、家族を使って口を閉じさせるほど卑怯ではないつもりですが、結果として誰かの生活が壊れることはあります」

「あなたが壊す」

「いいえ。あなたが開けば、壊れるのです」

「閉じれば、誰かが消えたままになる」

「消えた人間は、記録が戻れば帰ってくるのですか」

「帰ってこない」

「では、何を取り戻すのです」

私は答えを探した。

机の上に置かれた南京錠は、持ってきていない。だが、ポケットの中には、叔父の万年筆がある。由子の言葉を書き留めたノート。真壁が保全した荷札。地下保管庫の写真。乾の名刺。どれも死者を帰すものではない。

それでも、なかったことにしないための形だった。

「名前です」

私は言った。

「戻らない人間を戻すためではなく、消えたことまで消さないために。誰が何をしたのか、誰が黙ったのか、誰が守ろうとして、誰を置き去りにしたのか。その全部を、誰かの都合で一つにまとめないためです」

静江の右手が、机の上へ置かれた。

指先の傷が、白い紙の上に触れる。

「あなたは、何も知らない」

「だから知るんです」

「知れば、叔父様を許せなくなるかもしれません」

「最初から、許すつもりで調べていません」

「あなた自身も、あの夜にそこにいた。あなたが見たものを、あなたが忘れた。その忘却を守ったのは、叔父様だけではありません。あなた自身も、見ないことで生き延びた」

その言葉は、鋭かった。

私は反論できなかった。

私が潮見坂を出てから、港の話を避けたこと。叔父との最後の口論を、ただの些細な不和として処理したこと。二つの湯呑みを見ても、誰のためかを尋ねなかったこと。私は長いあいだ、沈黙を選んだ。

叔父だけの責任ではなかった。

その事実が、静かな怒りより深く私の中へ沈んだ。

「その通りです」

私は言った。

「私は見ないことで生きてきた。だから、今度は見ます」

静江は、指先を一度だけ握った。

その仕草で、初めて彼女の手に力が入ったことが分かった。

「あなたは、開けた扉を閉じられなくなる」

「閉じるための錠前ではないのでしょう」

私は机の上の地図を指した。

「これは、開けたことを残す道具です。あなたも知っている。叔父が開けた。あなたが閉じようとした。けれど、開けられた扉は、誰かが記録を持っている限り、完全には閉じない」

静江はしばらく黙っていた。

窓の外で、霧が港から高台へ上がってくる。白い空気がガラスへ触れ、旧倉庫街の影を少しずつぼかしていく。

やがて静江は、机の引き出しから一枚の封筒を取り出した。

封筒の角は擦れている。表面には、古い油染みがひとつあった。

「これは、誠一さんが私に渡すはずだったものです」

「何ですか」

「あなたに渡すはずだったもの、と言うべきかもしれません」

静江は封筒を私の前へ置いた。

「ただし、ここで開けないでください」

「理由は」

「中には、あなたがまだ思い出していない夜の写真があります。見れば、記憶は戻るかもしれない。けれど、戻った記憶が真実だとは限りません。恐怖の中で見た子どもの視界は、必ずどこかが欠けている」

「それでも開けます」

「そうでしょうね」

静江は封筒から手を離した。

「あなたは、見落としたものを拾い直さずにはいられない」

叔父の癖を、私の名前で言い当てられた気がした。

「あなたは、私を止めたいんですか」

「止めたいのではありません。あなたが、自分で退く余地を残しているだけです」

「私が退いたら、あなたはこの記録を消す」

「記録は、すでに消えかけています」

「あなたが消したからです」

「ええ」

静江は淡々と認めた。

「私が消しました。私が切り取り、移し、別の名前を与えた。必要なことだったと、今でも思っています」

「叔父を殺したのも、あなたですか」

静江は初めて、すぐには答えなかった。

指先の傷が、机の上でわずかに震えた。

「誠一さんは、死ぬ前に私へ会いに来ました。記録を返せと言った。あなたへ渡すつもりだとも言いました」

「だから殺した」

「私は、会う前に手を回しました」

「手を回した?」

「保管庫を確認し、乾さんへ連絡し、誠一さんが何を持ち出したかを調べた。けれど、あの人は最後まで、私の前で記録の場所を言いませんでした」

「あなたは、叔父を殺した」

「私は、誠一さんを殺していません」

静江はそう言った。

「ですが、死ぬ場所へ追い込みました。彼が誰にも頼れないようにし、昔の仲間が口を閉ざすように仕向け、倉庫街へ戻らざるを得ない状況をつくった。そこで何が起きるかを、私は予測できた。予測して、止めなかった」

それは自白に近かった。

それでも、彼女の声には罪を告白する人間の震えがなかった。罪を、工程のひとつとして説明している。だからこそ、私はその言葉の冷たさに触れた。

「あなたは、誰かが死ぬことを、段取りの結果として扱う」

「あなたは、誰かが死んだあとに、すべてを正しい物語へ戻そうとする」

「物語ではありません。記録です」

「記録もまた、残す人間によって形が変わります」

「だから、ひとつだけを残すんじゃない。地図も帳簿も証言も、全部を並べる」

静江は私を見つめた。

その目の奥で、初めて、過去の港の湿った匂いが動いた気がした。

「あなたは、本当にあの夜を思い出したいのですか」

「思い出したくない」

私は答えた。

「でも、思い出したくないことを理由に、なかったことにはできない」

会議室には、長い沈黙が落ちた。

静江は封筒を私のほうへ押し出した。紙が木目の上を滑り、微かな音を立てる。

「では、持っていきなさい」

「これは証拠ですか」

「あなたがそう思うなら」

「あなたは、また意味をこちらへ渡す」

「意味は、持つ人間が決めるものです」

その言葉に、由子の声が重なった。

物は、持ち主の意図までは証言しない。

私は封筒を受け取った。紙は乾いていたが、角には港の湿気が染みたような柔らかさが残っている。表には何も書かれていない。

「明日、四番倉庫の背面を壊します」

静江が言った。

「あなたが何を持っていても、現場はなくなる。記録だけでは、人が立っていた場所を証明できないこともある」

「だから、今夜また行きます」

「一人で?」

「一人ではありません」

由子の顔と、真壁の疲れた目が浮かんだ。

静江はそれを見透かしたように、ほんの少し笑った。

「そうですか。では、潮が満ちる前に戻ってきてください」

「あなたは、私が戻れないと思っている」

「戻ってほしいのです」

「なぜ」

「誠一さんが、あなたにそう願っていたからです」

その一言だけが、静江の声からわずかに温度を持っていた。

叔父は、私が戻ることを望んでいたのかもしれない。過去へではなく、こちら側へ。何も知らないままの生活へではなく、知ったあとも歩ける場所へ。

会議室を出ると、裏口のガラスに私の姿が映った。

窓の外では、霧が高台まで上がっている。再開発区画の白い建物はまだ明るく、旧倉庫街は輪郭を失い始めていた。

私はガラスに映った自分の顔を見た。

そこには、葬儀の夜から変わらない疲れた男がいる。けれど、その奥に、濡れた階段で口を塞がれていた子どもの顔が重なっていた。

私は、あの夜にいた。

叔父は私を売らなかった。沈黙の中へ押し込み、見えない場所へ隠した。守ろうとしたのだと思う。

だが、守るために隠された記憶は、私のものではなくなった。

静江は、守ることと消すことを同じ手つきで行った。叔父は、守ることと黙ることを同じ沈黙で行った。私はその違いを、今まで見分けられなかった。

手の中の封筒が重い。

紙の中身をまだ知らないのに、そこには二十年分の時間が詰まっているように感じられた。

私はポケットの中身を確かめた。万年筆。携帯電話。小さな方位磁石。叔父の家の鍵。

それから、空いている手で、見えない南京錠の輪郭をなぞった。

閉じるための錠前ではない。

開けたことを、誰かの名と一緒に残すための封印具。

私は会議室の外へ出た。

高台から見る港は、霧の下で音だけを返していた。潮騒、重機の遠い唸り、どこかで鎖が触れ合う音。海霧が頬に触れ、建物の乾いた空気を少しずつ奪っていく。

私は坂を下り始めた。

歩くたび、濡れた路面が靴底へまとわりついた。だが、もう足元だけを見てはいなかった。

前方には、旧倉庫街の低い影がある。

その下に、叔父が開けた扉がある。

私が見て、忘れ、今ふたたび見ようとしている場所がある。

潮は、また引く。

その時間に合わせて、私は港へ戻ることにした。

← 横にスクロールして読み進められます

静江の指先 - 潮路の記憶 - 誰でも作家life