第8話 封印保管庫

真壁から連絡が来たのは、由子の机で復元された数字を何度も書き写していた午後だった。

携帯電話の画面に表示された名前を見て、私は一度、指を止めた。真壁から電話がかかってくることは、これまで一度もなかった。現場で会ったときでさえ、彼は必要なことを聞き、必要なことだけを記録し、こちらへ余計な余白を渡さなかった。

「橘さんか」

開口一番、真壁はそう言った。背後で、誰かが書類をめくる音がする。

「はい」

「いま、どこにいる」

「図書館です」

「来られるか。署に来いとは言わない。話をするだけだ」

「封印記録の件ですか」

電話の向こうで、短い沈黙があった。

「それ以外に、俺があんたを呼ぶ理由があると思うか」

私は由子へ視線を向けた。彼女は机の上の紙片を年代順に並べていたが、こちらを見ずに手を止めた。

「行きます」

「一人で来い」

「資料を持っていきます」

「それを一人と言うならな」

電話が切れた。

由子は、紙片の角を揃えたまま言った。

「真壁さんが呼ぶのは、線を引き直すときです」

「線を引き直す?」

「あなたを捜査の外へ戻すか、内側へ入れるか。そのどちらかです」

「外へ戻すつもりなら、わざわざ呼びません」

「そうでしょうか。危険な場所へ行かせないために、別の線を引くこともあります」

私は机の上に、復元した台帳の写し、封緘記録の複写、潮汐表を並べた。由子が薄い紙を一枚ずつ重ね、角を合わせる。

「持っていくなら、この順番で」

「なぜですか」

「最初に台帳。次に封緘記録。最後に潮汐表です。潮汐表を先に見せると、時刻がすべてを説明するように見えてしまう」

「時刻が重要なんでしょう」

「重要です。でも、時刻だけでは扉は開きません」

彼女は復元された数字の横へ、鉛筆で小さな印をつけた。

四、七、十二。

それぞれの欄外に、削り取られた圧痕が残っている。私はその数字を見ながら、真壁の署で何を問われるのかを考えた。叔父の死。倉庫街。南京錠。地図。葵丸事件。言葉にすればどれも別々の項目になるのに、紙の上では一本の線に見え始めていた。

潮見坂署は、再開発区画の向こう側にある。

歩いて向かう途中、私はガラス張りのビルの前で足を止めた。建物の一階には、再開発計画の模型が展示されている。白い街路。植え込み。海へ開かれた広場。模型の中では、旧倉庫街は低い灰色の地面に置き換えられ、かつての建物があった場所には、何もない広い空間がつくられていた。

「過去は、模型に入りません」

背後から声がした。

振り返ると、真壁が立っていた。黒い上着のポケットに手を入れ、模型を見上げている。目の下には疲れが濃く、片手には飲みかけの缶コーヒーがあった。

「先に見に来ていたんですか」

「通り道だ。あんたが立ち止まっていたから、声をかけただけだ」

「封緘記録を見せます」

「その前に、俺から言っておく。あれは証拠と呼ぶには弱い」

「数字の復元結果があります。台帳の空白と、記録の削除。それに、潮汐表を重ねれば――」

「重ねれば、何かが見える。だが、見えたものが事件の証拠になるとは限らない」

真壁は缶コーヒーの蓋を親指で押さえた。

「倉庫番号が一致した。過去に封緘具が使われていた。干潮時に通れる道があった。そこまではいい。だが、それだけで誰かが密輸をした、誰かが殺された、叔父さんがそれを知っていた、というところまで一気に進むのは無理がある」

「私は一気に進めていません」

「そう見えない」

「では、どこまでなら進めるんですか」

真壁は模型から目を離した。

「俺が決められるのは、現場をもう一度見るところまでだ」

「行くんですか」

「行く。だが、入れるとは言っていない」

「閉鎖区画です」

「知っている。だから、俺が同行する」

「なぜです」

「あなた一人で入れば、また現場を荒らす。俺が入れば、少なくとも靴底の数は増えない」

「私を信用していない」

「信用の問題じゃない。現場に私情を持ち込まないためだ」

「叔父が殺された場所に、私情を持ち込むなと言うんですか」

真壁は缶コーヒーを一口飲んだ。苦い匂いが、潮の湿った空気に混じる。

「持ち込むなとは言っていない。持ち込んだものを、証拠の代わりにするなと言っている」

「由子さんと同じことを言いますね」

「岩倉さんは正しい。腹が立つくらい正しい」

そこで初めて、真壁の口元がわずかに緩んだ。

「ただ、正しい人間ほど、現場では足を取られる。正しさは水を吸う。濡れた紙みたいにな」

私は持ってきた資料を封筒から出した。真壁は署へ運ぶとは言わず、模型展示室の脇にあるベンチへ座った。私は彼の隣に腰を下ろし、台帳の写しを膝の上へ置いた。

「ここを見てください」

復元した数字を指した。

「叔父の手帳に残っていた倉庫番号と、封緘記録の番号が一致しています。四番、七番、十二番。しかも荷役記録の空白は、同じ潮位になる日に集中している」

「集中しているだけだ」

「さらに、封緘記録にある押印時刻が、潮汐表の干潮時刻と合っていない」

「どのくらいずれている」

「記録上は午後十一時四十分に封緘。ですが、その日の干潮は午後十一時二十分。押印時刻には、干潮路はすでに通行できなくなっているはずです」

「はず、か」

「旧施設図では、通路の利用可能時間は干潮前後二十分とされています。押印時刻は、その範囲から外れている」

真壁は資料を取り上げ、文字を追った。彼は話を聞くとき、腕を組まない。紙を受け取った指先だけが、欄外の余白を何度もなぞる。

「つまり、あんたはこう言いたいわけだ。記録にある封緘時刻は、実際に扉が閉じられた時刻ではない。誰かが後から押印したか、あるいは別の場所で処理した」

「その可能性があります」

「可能性を積み上げて、地下保管庫があると?」

「地図の線が、倉庫の背面から護岸へ続いています。記録の削除箇所にも、扉番号の圧痕が残っている。封印具の名義は叔父です」

「南京錠の用途については、岩倉さんの推測だろう」

「推測ですが、現場に同じ真鍮の擦れ跡がありました」

「死体のそばにあった金属片か」

「はい」

「鑑定結果はまだ出ていない」

「ですが、形は一致しています」

「形は、似る」

「真壁さん」

私は資料を膝の上で揃え直した。紙の端が指先に触れ、薄いざらつきが残る。

「あなたは、事件性がないと考えているんですか」

真壁は答えなかった。

模型の中では、白い広場の中央に小さな樹木が植えられている。誰にも踏まれない土。雨に濡れない歩道。海へ向かってまっすぐ伸びる舗装路。

「考えているのは、事件性があるかどうかじゃない」

真壁が言った。

「事件として扱えるかどうかだ。昔の港の記録は、複数の人間の生活に食い込んでいる。会社、家、行政、警察。ひとつ動かせば、別のところが崩れる。崩れたものを支える手が、今の潮見坂には足りない」

「だから見ない」

「見る。だが、見る順番を選ぶ」

「その順番を待っているあいだに、証拠が消えたら?」

「消えかけているから、今日ここへ来た」

真壁はようやく私を見た。

「説明会で久世静江が何を言っていたか、知っているか」

「再開発を進めるという話です」

「それだけじゃない。旧倉庫街の解体工程が、予定より早まった。来週には四番倉庫の背面が崩される」

「四番倉庫を?」

「区画整理の都合だそうだ。あんたが調べている場所と、同じだ」

「偶然ですか」

「それを確認するために行く」

真壁は立ち上がった。

「行くなら今だ。次の干潮まで時間がない」

署の車は古く、車内には煙草の箱と書類の匂いが残っていた。真壁はエンジンをかけると、ラジオの音量を低くした。流れてきた古い歌は、霧の向こうから届くようにくぐもっていた。

港へ向かう道は、夕方の交通で混んでいた。新しい道路を抜けると、街は少しずつ低くなり、建物の壁に潮の跡が増えていく。真壁は何も話さなかった。私は膝の上で潮汐表を開き、時刻を確認した。

午後四時三十八分。

干潮まで、三時間以上ある。

「昔から、ここを知っていたんですか」

私が尋ねると、真壁は前を見たまま答えた。

「知っている」

「葵丸事件のころから?」

「俺は当時、まだ交番勤務だ。事件の中心にいたわけじゃない」

「でも、知っている」

「港で働く人間は、警察より先に噂を知る。警察は噂を記録にしない。記録にできないものは、捜査にも使えない」

「見たものは?」

真壁はハンドルを握る手を少し強くした。

「見たものが、正しいとは限らない」

「それは逃げているように聞こえます」

「そうだろうな」

真壁は否定しなかった。

「二十年前、俺は一度だけ、四番倉庫の裏へ行った。通報があったからだ。扉の前に、男が立っていた。濡れた作業着で、誰かを抱えていた」

「誰を?」

「遠くて見えなかった」

「叔父ですか」

「分からない」

「子どもだった?」

真壁の指がハンドルの上で止まった。

車内に、ラジオの音だけが残った。

「なぜ、そう思う」

「自分の記憶に、濡れた木の匂いと、誰かに腕をつかまれた感触があるからです」

「記憶は、証拠にならない」

「あなたも、さっき同じことを言いました」

「だから、今から現場を見る」

真壁はそれ以上、口を開かなかった。

旧倉庫街の入口には、再開発組合の作業車が一台停まっていた。柵には新しい鎖がかけられている。真壁は警察手帳を見せ、作業員に短く事情を伝えた。作業員は何か言いたそうにしたが、真壁の顔を見ると、鎖を外した。

中へ入ると、夕方の光は倉庫の壁に届かなかった。

錆びた鉄板の間に、細い草が生えている。昼の潮が引いた岩場には薄い泥が残り、靴底が触れるたび、水分を含んだ音を返した。錆びた釘がところどころ露出し、踏めば簡単に靴を貫きそうだった。

真壁は歩く速度を落とした。

「足元を見ろ。古い釘は、抜けたあとも錆びて硬くなる」

「こういう道を、昔の人間は荷物を運ぶために使った」

「荷物だけとは限らない」

真壁は言って、すぐに黙った。

防波堤へ出ると、風が強くなった。海面は低く、護岸の下に細い泥の道が現れている。道というより、濡れた岩とコンクリートの隙間だった。人が一人、身体を横にしてようやく通れる幅しかない。

その先に、倉庫の背面が見えた。

真壁は一歩踏み出し、そこで止まった。

海を見ていた。何かを思い出した顔だった。表情はほとんど変わっていない。ただ、握っていた警察手帳の角が、指の間で白くなっている。

「何を見逃したんですか」

私は尋ねなかった。

尋ねれば、真壁はまた線を引く。言うべきことと言わないことを分け、自分の沈黙を守るだろう。私はその沈黙を、叔父のものと同じように扱いたくなかった。

それでも、今は聞かなかった。

私たちは狭い通路へ入った。壁面には、古い荷車が擦ったような黒い線が続いている。ところどころに真鍮色の粉が付着し、指で触れるとざらついた。潮風が頬を撫で、真壁の肩に近いところだけ、人の体温が残っている。

通路を抜けた先に、倉庫の背面があった。

四番倉庫の表示は剥がれていたが、釘穴の位置と古い台帳の図面が一致している。建物の壁には、養生幕に隠されるように鉄扉が埋め込まれていた。

真壁が幕をめくった。

扉には鍵穴がない。中央に小さな金属環だけがあり、その周囲に真鍮の擦れ跡が幾重にも残っていた。

私はポケットの中の南京錠に触れた。

「同じです」

「まだ同じとは言うな」

「ですが」

「見れば分かる」

真壁は扉の前へしゃがみ込み、擦れ跡をライトで照らした。

「これは、掛けた跡じゃない」

「では」

「外した跡だ。金具を通したまま、何度も引いた。扉を閉めるためじゃなく、開けたあとに封を戻したんだろう」

私の喉が乾いた。

真壁は扉の下を確認し、錆びた蝶番へ指を近づけた。触れる寸前で止める。

「この扉、最後に使われたのはいつだと思う」

「記録では二十年前です」

「記録はそう言っている」

真壁は立ち上がり、私の顔を見た。

「だが、錆の浮き方が違う。最近、一度開けられている」

「叔父が?」

「分からない」

「叔父の死体が見つかった夜、ここに誰かが来ていた」

「可能性はある」

真壁は鍵束を出した。警察の鍵ではなく、現場用の薄い器具だった。扉の隙間へ差し込み、しばらく作業すると、内部で小さな金属音がした。

錠はかかっていなかった。

扉がゆっくり開く。

中から、潮の匂いが押し寄せてきた。その奥に、乾いた紙と古い木材の匂いが混ざっている。暗闇の底から、冷たい空気が足元へ流れ出した。

真壁が先に入った。私はその後ろへ続いた。

階段があった。

下へ向かう、幅の狭い鉄製の階段。踏み板には泥が乾いた跡があり、壁には水位の線が何本も残っている。真壁が懐中電灯を向けると、階段の脇に小さな金属札が見えた。

四十二。

私は息を止めた。

由子が復元した圧痕。封緘記録から消された番号。表の倉庫番号には存在しない、裏側の保管庫番号。

「行くな」

真壁が言った。

「証拠を確認するだけです」

「地下は水が入る。潮位が上がれば戻れない」

「今は引いています」

「今はな」

真壁は階段の先を照らした。地下には、長い廊下が続いている。左右に棚が並び、古い箱が積まれていた。壁の一部には、再開発以前の港の写真が貼られている。剥がれた端が湿気で丸まり、人の顔だけが残っていた。

「橘さん。ここから先は、俺が先に行く。あんたは足跡を踏むな」

「それでは見えません」

「見えるものだけ見ろ。見えないものまで拾おうとするな」

「それを決めるのは私です」

「違う。現場が決める」

真壁は先へ進んだ。

私は彼の足跡を避けながら、廊下の壁と棚を照らした。帳簿。荷札。封印箱。どれも埃をかぶっているのに、棚の一部だけ埃が薄い。最近、誰かが箱を動かした跡だった。

「真壁さん」

「分かっている」

彼は手袋をつけ、棚の端を確認した。箱の背面には、再開発組合の旧印が押されている。印影の一部が削り取られ、上から別の番号札が貼られていた。

「ここは税関の保管庫ではない」

真壁が言った。

「正確には、税関の記録を抜き取るための場所だ。荷物を置いて、帳簿から該当する記録だけを外へ出す。見た目の箱は残し、中身だけを入れ替える」

「密輸品を仮置きした」

「そう考えられる」

彼は棚の下に落ちていた荷札を拾い、裏返した。表には乾の会社の古い社名が印刷されている。裏側には、鉛筆で数字が書かれていた。

六月二十四日。

四番。七番。十二番。

私はその数字を見た瞬間、胃の奥が冷たくなった。

「乾の会社です」

「名前があるだけだ」

「でも、ここに置かれていた」

「それは事実だ」

真壁は荷札を証拠袋へ入れた。

その動作は速かった。迷いがないというより、迷う前に手続きを先へ進めているようだった。

廊下の奥に、小さな空間があった。床には古い荷札が何枚も貼りつき、湿気で剥がれた端が波打っている。天井から水滴が落ち、紙の上で黒い点になった。

真壁が壁際の棚を照らした。

一番下の箱の裏に、防水袋が押し込まれている。

「触るな」

彼が言った。

私は動きを止めた。

袋は泥で汚れていたが、透明な中身が見えた。古い紙の片割れ。海岸線。倉庫群の線。切断面。

半分に裂かれた地図の、もう一方だった。

「地図です」

「見れば分かる」

「それを、叔父が持っていた」

「だから、ここにあった理由を考えろ」

真壁は防水袋の周囲を撮影し、位置を記録した。私はそのあいだ、袋から目を離せなかった。切断面は、私の持っている地図とぴたり重なる形をしている。だが、まだ触れてはいけない。手を伸ばせば、失われた時間へ直接触れることになる。

真壁が袋を取り出した。

「照合する」

「ここで?」

「ここでやるしかない。持ち出す前に状態を確認する」

彼は袋を白い布の上へ置き、慎重に封を切った。紙片を取り出し、私の地図と並べる。

二つの切断面が重なった。

紙の繊維が、互いの欠けた部分を埋める。地図の線は一本につながり、旧倉庫街の下へ伸びていた。そこに、これまで見えなかった細い階段の記号が現れる。倉庫群の中央から地下へ下りる線。そして、海側に設けられた小さな回収口。

その線を見た瞬間、目の前の地下が別の時間と重なった。

湿った木材。

水の滴る階段。

誰かの手が、私の肩を強く押している。

「見るな」

低い声がした。

私は振り返ろうとした。だが、身体は動かなかった。視界の端に白い布が見えた。白いコート。濡れた裾。床へ落ちる金属の音。

それから、叔父の手が私の口を塞いだ。

私は息を吸えず、喉の奥で声をつぶした。

「透真」

真壁の声で、現在へ戻った。

私は膝をついていた。湿った床がズボン越しに冷たい。指先には、古い荷札の紙が触れている。紙の角が皮膚へ食い込み、現実の痛みだけがはっきりしていた。

「大丈夫か」

「記憶が……」

言葉が続かなかった。

真壁は私の前にしゃがみ込んだ。彼の手が伸びかけ、途中で止まる。人に触れることをためらう癖があるのかもしれない。

「何を見た」

「分かりません。白いコートと、階段と、叔父の手」

「子どもの頃のことか」

「たぶん」

「たぶんでいい。今は、それ以上言うな」

「あなたは、この場所で何か見た」

真壁の顔が固まった。

「二十年前に、ここへ来たと言いましたね」

「言った」

「誰かが、子どもを抱えていた」

「俺は、子どもとは言っていない」

「でも否定もしなかった」

真壁は地下の奥へ視線を向けた。水滴の音が、一定の間隔で続いている。

「見たものを、見たまま話せばいいと思っていた時期がある」

彼は低い声で続けた。

「だが、見たものを話した結果、話した人間が先に壊れることがある。証言をした者が仕事を失い、家族が町にいられなくなり、捜査を続けた人間だけが正義の顔をして残る。俺は、それを何度も見た」

「だから、黙った」

「黙った。正確には、記録にしなかった」

「同じです」

「違う」

真壁は私を見た。

「同じだと思っているうちは、あんたはまだ記録の外側にいる。記録にしなかったことは、なかったことにはならない。だが、なかったことにした人間の側へ立つことになる」

その言葉に、胸の奥が痛んだ。

叔父も、同じ側にいたのだろうか。誰かを守るために黙り、沈黙を重ねた結果、私の記憶まで閉じ込めた。守ることと隠すことの境目は、思っていたより薄い。

真壁は地図の二つの片割れを見た。

「これを持ってきたのは、叔父さんだと思うか」

「分かりません」

「なら、誰かが叔父さんのために持ってきた可能性もある」

「なぜ、トランクには半分しか入っていなかった」

「片方だけなら、見つかっても地図として使えない。地図ではなく、欠損として残る」

「わざと欠けさせた」

「あるいは、欠けたままにしておく必要があった」

真壁は、地下の壁に貼られた古い写真へライトを向けた。写真には、取り壊される前の倉庫街が写っている。中央に、若い叔父が立っていた。その少し離れた場所に、白いコートの女がいる。

顔は小さく、ぼやけていた。

それでも、私には分かった。

久世静江だった。

「あの女を知っています」

私が言うと、真壁は写真からライトを外した。

「誰だ」

「久世静江です」

「確かか」

「乾の食堂にあった写真にも、同じ人がいました」

「写真だけでは、確かとは言えない」

「ですが、二度見ました。立ち方も、肩の傾きも同じです」

真壁は返事をしなかった。

その沈黙の中で、地下の空気がさらに重くなった。潮の匂いが強くなっている。階段の下から、かすかな水音が聞こえた。戻る時間が近づいていた。

真壁は証拠袋を閉じ、地図の片割れを別の袋へ収めた。

「出る」

「まだ、保管庫の奥を見ていません」

「見られない」

「なぜです」

「水位が上がっている」

「あと少しだけ」

「透真」

初めて、真壁が私の名前を呼んだ。

「ここで見つけたものを持ち帰るのが、今できる最善だ。全部を見ようとして残れなくなれば、証拠も証人も一緒に沈む」

言い方は冷たかったが、声の奥に焦りがあった。私は階段の下を振り返った。暗い廊下の床に、薄い水が伸びてきている。水は紙片のように平らで、棚の下を静かに覆い始めていた。

私たちは階段を上った。

扉の外へ出ると、空はすでに灰色に変わっていた。潮が戻り始め、防波堤の干潮路には細い水の筋が流れている。真壁は鉄扉を閉め、証拠袋を胸元へ収めた。

私は背後を振り返った。

鉄扉の下から、地下の冷たい空気がまだ漏れている。濡れたコンクリートの匂い。その奥に、古紙と錆びた金属の匂いが残っていた。

足元の水たまりに、自分の影が映った。

影の輪郭は、霧と水の揺れで崩れている。だが、その小さな肩の形だけが、記憶の中に残る幼い自分と重なった。

階段の途中で、誰かに押し戻された子ども。

口を塞がれ、見てはいけないものを見た子ども。

私はあの夜、ここにいた。

その事実だけが、地図の線よりもはっきりと、私の中へ沈んだ。

真壁が歩き出した。

「行くぞ」

私は返事をし、彼のあとを追った。

背後で潮の音が大きくなっていた。干潮路は再び海へ戻り、錆びた釘も、古い荷札も、誰かの足跡も、薄い水の下へ隠れていく。

けれど、二つにつながった地図の線は、もう切れていなかった。

その線は、地下保管庫から海へ向かい、海から私の記憶へ続いていた。

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