第10話 潮の戻る前に

封筒を開けたのは、由子の資料室だった。
窓の外では、朝から細い雨が降っていた。雨粒はガラスに筋をつくり、その向こうの港を、古い写真のようにぼかしている。私は机の上に封筒を置き、由子が用意した白い布の上へ、ゆっくりと載せた。
「開ける前に、外側を記録します」
由子は鉛筆を持ち、封筒の角と油染みの位置を写し取った。
「静江さんが触れた痕跡を残すためですか」
「それだけではありません。封筒は、開ける人間の気持ちまで変えるので」
「気持ちが変わる?」
「中身を見たあとでは、外側の傷を正確に見られなくなります」
私は黙って封筒を見た。紙の端は湿気を含んで柔らかくなっている。けれど、糊の跡は新しかった。封をしたのは二十年前ではない。少なくとも、静江が昨夜ここへ持ち出すために、どこかで閉じ直している。
「新しい封です」
由子が言った。
「紙は古い。でも糊は新しい。中身を差し替えた可能性があります」
「静江が?」
「誰が、とはまだ言えません。ただ、封筒自体が二十年前から同じ状態だったわけではない」
私は携帯電話を机の脇へ置き、録音を再生した。静江の声が、雨音の向こうから戻ってくる。
――誠一さんが、あなたにそう願っていたからです。
その一言のあとに続いた沈黙まで、はっきり残っていた。
由子は録音を止めた。
「この人は、叔父さんの名前を出すときだけ、声の速度が少し落ちます」
「分かりますか」
「分かります。嘘かどうかは別です」
由子は封筒の封を、薄い竹べらで慎重に剥がした。紙が乾いた音を立てる。中から出てきたのは、写真が三枚と、折り畳まれた一枚の紙だった。
最初の写真には、二十年前の四番倉庫が写っていた。海側から撮られたものらしく、倉庫の背面と防波堤の干潮路が一緒に収まっている。現在の写真と比べると、背面の鉄扉はまだ養生幕に隠されていない。
二枚目には、若い叔父が写っていた。
その隣に、白いコートの静江がいる。彼女の手には薄い書類箱が抱えられていた。背後には乾の若い頃の姿もある。三人とも、こちらを見ていない。海側の何かへ視線を向けている。
そして三枚目。
写真の手前に、幼い私がいた。
背中を向け、倉庫の壁に両手をついている。少し離れた場所で叔父がこちらへ歩いてくる。そのさらに奥、鉄扉の前に静江が立っていた。
写真の端に、もう一人いる。
顔は半分しか写っていない。濡れた作業着。右手に、細長い金属の道具を持っている。
「この人は、乾さんですか」
私が尋ねると、由子は写真を傾け、人物の手元を見た。
「分かりません。顔の輪郭が足りない」
「でも、乾さんはあの夜にいた」
「写真だけでは断定できません」
彼女はそう言いながら、写真の端に残る白い筋を指で示した。
「これは、写真を一度切って、貼り直した跡です」
「切った?」
「左側に、別の人物がいた。そこだけ切り取られています」
私は写真を受け取り、裏返した。
裏面には、叔父の筆跡で日付が書かれていた。
六月二十四日。
その下に、短い言葉がある。
『透真を戻す』
意味が分からなかった。
あの夜、叔父は私を倉庫街から家へ戻した。そのことを書いたのか。それとも、別の場所から何かを戻すという意味なのか。私は写真を机へ置き、折り畳まれた紙を開いた。
紙には、叔父の字で一行だけ記されていた。
『四番の扉は、開けた者ではなく、閉めた者を覚えている』
「封緘具のことですね」
由子が言った。
「でも、誰が閉めたかは書かれていない」
「書かなかったのではなく、書けなかったのかもしれません」
「叔父が?」
「紙に残せば、誰かに見つかる。けれど、写真なら残せる。見る人間が必要なものを読み取るまで、意味を閉じておける」
由子の言葉を聞きながら、私は三枚目の写真をもう一度見た。
幼い私は、倉庫の壁に両手をついている。何かを見ようとしているのではない。見ないように、顔を伏せている。その背後から、叔父の手が伸びている。
だが、叔父の視線は私ではなく、静江のほうへ向いていた。
静江は鉄扉の前に立ち、右手を胸元へ上げている。
指先に、細い傷があった。
「この傷は、紙で切ったものではありません」
私は言った。
由子が写真へ顔を近づける。
「金属の縁で擦った傷に見えます」
「南京錠を外したときの傷」
「可能性はあります」
「静江が扉を開けた」
「その写真は、扉の前にいたことしか示していません」
由子は私を見る。
「ですが、写真を切り取った人間は、そこに何かを残したくなかった」
私は携帯電話を取り、真壁へ連絡した。呼び出し音が四回続いたあと、低い声が出た。
「何だ」
「封筒の中に写真がありました。四番倉庫の背面と、叔父、久世静江、それから私が写っています」
電話の向こうで、紙をめくる音がした。
「写真は誰が持っている」
「私です」
「動かすな。撮影して送れ」
「もう一枚、切り取られた跡があります」
「誰が写っていた」
「分かりません。顔が欠けています」
短い沈黙のあと、真壁が言った。
「四番倉庫へ行く。予定を早める」
「解体は明日では?」
「今日の午後から作業員が入る」
「静江が動かしたんですか」
「組合は、老朽化が想定以上だったと言っている」
「そんな説明で納得するんですか」
「納得していない。だから行く」
電話が切れた。
由子は写真を一枚ずつ透明な袋へ戻した。指先がいつもより慎重だった。
「私も行きます」
「危険かもしれません」
「危険な場所に、記録だけを送ることはできません」
「記録を守るためですか」
「あなたが一人で、写真の意味を決めないためです」
外へ出ると、雨はほとんど止んでいた。けれど港から上がってくる霧は濃く、坂道の先が白く滲んでいる。真壁の車は、図書館の裏手に停まっていた。
彼は私たちを見ると、何も言わずに助手席のドアを開けた。
「写真は?」
「由子さんが持っています」
「そうか」
真壁はエンジンをかけた。
「四番倉庫の前に、乾の会社の作業車がいる。解体業者にしては、潮の引きを気にしすぎている」
「つまり?」
「何かを先に回収するつもりかもしれない」
車が港へ向かって走り出した。
窓の外で、再開発区画の白い建物が霧に消えていく。その向こうで、旧倉庫街の影だけが低く残っていた。
私はポケットの中の家の鍵を握った。
掌に食い込む金属の冷たさが、地下保管庫で触れた階段の手すりと重なった。
潮は、まだ満ちきっていない。
けれど、戻り始めている。
四番倉庫の扉が、誰かの手によって再び開けられようとしていた。
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