第10話 戻された名前

翌朝、鳳文社の会議室には、校閲室より濃い沈黙が溜まっていた。
窓のない部屋で、空調の風だけが一定の間隔で吹いている。机の中央には、昨夜の記録を複写した束が置かれていた。紙の角はそろっている。けれど、綴じる前の一枚一枚に、触れた人間の指の熱が残っているように見えた。
私は相馬さんの隣に座り、手帳を開いた。向かいには井口さん、三橋さん、片岡さん。佐伯は少し離れた席で、黒い手帳を机に置いている。
霧島ユウは、まだ来ていなかった。
「上層部は?」
私が尋ねると、佐伯が短く答えた。
「社長室から二人。法務が一人。こちらの事情を聞くというより、出版を止めない方法を探す顔をしています」
「それは、聞き取りではありませんね」
「会議という名前の確認です」
佐伯は手帳の端を指で押さえた。
「ただし、確認される側が黙らなければ、会議の形も変わります」
扉が開いた。
文芸部の部長と、見覚えのない男が入ってくる。男は名刺を置いた。法務部の肩書きと、整いすぎた名前。紙の上に余計な傷がない。
「まず、脅迫文についてですが」
部長が椅子に座りながら言った。
「社内の混乱を避けるため、これを個人的な嫌がらせとして処理できないでしょうか。霧島ユウさんの出版計画に影響が出れば、関係各所にも迷惑がかかります」
私は複写した脅迫文を机の上へ置いた。
「個人的な嫌がらせなら、なぜ過去の版下と同じ朱入れの順番になっているんですか」
部長は紙を見ずに、私を見た。
「偶然でしょう」
「偶然で、十三時十五分以前に書かれたことまで一致しますか」
「時刻はまだ確定していないはずです」
「確定していません。だから、確認が必要なんです」
私の声は低かった。昨夜から、喉の奥に乾いた紙片が貼りついているようだった。
法務の男が記録を一枚持ち上げる。
「久坂氏が関与したという証拠は?」
「本人の証言があります」
「脅迫を行った者の証言を、そのまま採用するのは危険です」
「だから紙の状態と照合しています」
相馬さんが言った。
「朱の乾き、紙の重なり、付箋の位置。久坂さんが書いたと述べた内容と矛盾しません」
「しかし、久坂氏の所在は確認できていない」
佐伯が法務の男を見た。
「昨夜、私が本人と接触しました。脅迫文を書いたことも、本人が認めています」
会議室の空気がわずかに動いた。
部長は眉を寄せた。
「では、本人を連れてくれば済む話ではありませんか」
「逃げたわけではありません」
私は言った。
「佐伯さんが、今朝もう一度倉庫を確認しています。久坂さんはいなかった。でも、紙を一枚残していた」
私は鞄から透明なファイルを取り出した。
昨夜、倉庫を出る直前に、棚の奥から見つかったものだった。久坂の名刺入れの下に、薄いコピー用紙が一枚だけ挟まっていた。誰が置いたのかは分からない。けれど、そこには古い企画書の表紙と、削除された名前の輪郭が残っていた。
部長が身を乗り出す。
「それは、社内資料ですか」
「過去の企画書です」
「公開できるものではありません」
「公開するためではなく、確認するために持ってきました」
私は修正紙の貼られた箇所を示した。
白い紙の下から、かすかな文字が透けている。
「この名前を、知っている人はいますか」
誰も答えなかった。
三橋さんだけが、視線をコピーの左下へ落とした。そこには、組版担当者の欄がある。名前は消されているが、印影の一部だけが残っていた。
「三橋さん」
佐伯が呼びかけた。
三橋さんはしばらく黙っていた。机の上の紙束を、端からそろえ直している。角と角を合わせる手つきが、いつもより遅い。
「その名前は、作者名じゃない」
「では、誰の名前ですか」
私が聞くと、三橋さんは答えず、削除された欄を指で示した。
「ここは、組版担当者の欄だ」
「作者名の欄ではない?」
「表紙を差し替えた。元の欄がなくなったから、別の欄へ移した」
「誰が?」
「井口さん」
全員の視線が井口さんへ集まった。
井口さんは、すぐには顔を上げなかった。机の上の複写紙を見つめたまま、指先で紙の角をなぞっている。
「私だけではありません」
「でも、あなたが指示した」
三橋さんの声は低かった。
「組版の指示書に、あなたの印鑑がある」
「正式な指示ではないわ」
「口頭でも、俺は作業をした」
「あなたは、あのとき拒否できたでしょう」
「できなかった」
三橋さんは、紙束から手を離した。
「だから、やった。だが、やったことと、指示したことは同じではない」
「違いません」
私は言った。
「どちらも、名前を移した」
井口さんの顔が硬くなる。
「綾乃さん、あなたはまだ分かっていない。あの名前を残せば、企画そのものが止まったの」
「止まればよかったんです」
「簡単に言わないで」
初めて、井口さんの声が揺れた。
「作者は、名前を出せない事情があった。家族にも、職場にも、誰にも知られたくない事情が。だから、霧島ユウという名義を作った。作品を生かすには、それしかなかった」
「その名前を、鳳文社が作ったんですか」
「違う。本人が選んだ。ただ、本人だけの名前ではなかった」
私は、昨夜ユウが言った言葉を思い出した。
――僕がその人の文章を引き継いだわけではない。
「霧島ユウは、一人ではない?」
誰も答えなかった。
そのとき、扉が開いた。
霧島ユウが立っていた。黒い服の袖口に、薄い紙粉が付いている。昨夜、どこかで原稿を読んでいたのだろう。
ユウは会議室を見回し、机の上のコピーへ視線を止めた。
「その名前を、戻すつもりですか」
部長が立ち上がる。
「霧島さん、まずは出版の継続について――」
「質問に答えてください」
ユウの声は静かだった。
部長は言葉を失った。
ユウは私の隣へ来て、コピーには触れず、その上に自分の影だけを落とした。
「その名前は、僕の前に霧島ユウだった人の名前です」
息が止まった。
「その人は、もう書けない」
「亡くなったんですか」
佐伯が聞いた。
ユウはすぐに答えなかった。
「書けない、というのは、死ぬことと同じではありません。ただ、名前を持って書くことを許されなかった」
部長が口を挟む。
「この話は、出版契約上――」
「契約の話をするなら、原契約を出してください」
ユウは部長を見た。
「僕の名前が入った契約書ではなく、最初の企画書に署名した人の契約書を」
会議室の空調が止まった。
音が消えると、紙の擦れる音が妙に大きく聞こえた。
私はコピーの下端を見た。削除された文字の一部が、ようやく読める。
そこには、三文字の姓が残っていた。
私はその姓を知っていた。
鳳文社の社史に一度だけ登場し、その後の記録から消えた編集者。久坂が退職した夜、誰も名前を口にしなかった人物。
「これは、作者名ではありません」
私が言うと、ユウが頷いた。
「ええ。最初に消されたのは、作者ではない」
「では、誰ですか」
「この企画を、最初に会社へ持ち込んだ人です」
ユウは、修正紙の上へ視線を落とした。
「そして、その人を消すために、久坂さんの名前が次に消された」
私は、昨夜ノートへ書いた記録を思い出した。
最初に作者の名前。 次に久坂の名前。 最後に、誰が消したかの記録。
順番が、ひとつだけ違っていた。
最初に消されたのは作者ではない。
最初に消されたのは、作者へ作品を渡した人間だった。
ユウが私を見る。
「橘さん。原稿を戻すなら、まずこの人の名前を戻してください」
その言葉を聞いた瞬間、机の上の朱が、別の形に見えた。
削除線ではない。
誰かを消すために引かれた線の、その先にある名前を指す矢印だった。
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