第10話 返すための場所

午後の練習が終わるころには、コートの白線が陽に焼けていた。

水を撒いたはずの土はすぐに乾き、靴で踏むたび、細かな砂が足の甲へ跳ねる。俺はボール籠を片づけながら、何度も談話室の方を見た。

蓮先輩の忘れ物バッグは、朝から談話室の隅に置かれている。

口は固く結ばれたままだった。

その中に封筒がある。赤ペンで消された言葉がある。俺たちが見てしまった本音が、まだ誰にも返されないまま、薄暗い部屋の隅に残っている。

「見すぎ」

隣でタオルを絞っていたひよりが言った。

「見てない」

「見てる。バッグの方を見て、蓮先輩の方を見て、またバッグを見てる」

「……分かるのか」

「悠真の視線、分かりやすいから」

ひよりは絞ったタオルを籠へ放り込んだ。水が床に落ち、黒い染みになる。

「行くなら早く行こう。私、時間が経つほど変なこと言いそう」

「もう十分言ってる気がする」

「じゃあ、これ以上ひどくなる前に」

俺はボール籠を棚へ戻した。金属が木の床を擦り、鈍い音が談話室まで届く。

蓮先輩は、窓際のベンチに座っていた。

汗を拭いたあとらしく、首にタオルをかけている。ラケットは膝の上に置かれていたが、手入れをする様子はない。いつもなら練習後すぐにグリップの状態を確かめ、フレームの傷を指でなぞる。今日はラケットを抱えたまま、窓の外を見ていた。

白樺の葉が風に揺れている。

蓮先輩は俺たちに気づくと、ゆっくり立ち上がった。

「話すんだろ」

先に言われた。

ひよりが一瞬だけ俺を見る。俺は頷いた。

「はい」

「ここで?」

「……ここでいいですか」

「どこでも同じだ」

その言い方が、少しだけ刺さった。

どこでも同じなら、俺たちはもっと早く言えたのかもしれない。場所を選び、順番を考え、言葉を整えようとしていたのは、結局、自分たちが傷つかないためだった。

ひよりがバッグの方へ歩いた。

蓮先輩の視線が、そこへ落ちる。

俺は喉が乾くのを感じた。けれど、水筒へ手を伸ばさなかった。今日の俺は、もう何度も自分の癖を見ている。水を飲んでしまえば、言葉まで流れてしまいそうだった。

ひよりがバッグを持ち上げた。

布地に汗と土の匂いが染みついている。いつも蓮先輩がコートの隅に置いていたものだ。忘れ物を拾い、誰かのタオルを回収し、必要なものを黙って詰め込んできたバッグ。

その中から、俺は封筒を取り出した。

白い角が、少しつぶれている。

「これを見ました」

俺は言った。

蓮先輩は封筒を見たまま、何も返さなかった。

「勝手にバッグを開けました。読まれたくなかったものだと思います。すみません」

謝ったあと、胸の奥が縮んだ。

ひよりが続ける。

「私も見ました。悠真だけじゃないです」

「分かってる」

「怒ってますか」

「怒っている」

蓮先輩の声は静かだった。

「でも、怒る相手が分からない」

「私たちじゃなくて?」

「バッグを置き忘れた自分かもしれない。書いた自分かもしれない。読まれたくないなら、最初から家で書けばよかった」

蓮先輩はラケットのグリップへ目を落とした。

「ここで書いた。白樺寮の夜の方が、家より言葉が出たから」

「残りたいっていう言葉も?」

ひよりが訊いた。

蓮先輩の指が、グリップの端を押さえた。

「出た」

「まだ、ここにいたいですか」

「いたい」

答えは早かった。

だからこそ、聞いた側の胸へまっすぐ入ってきた。

蓮先輩は窓の外を見た。白樺の枝が、風のたびに細かく揺れている。

「でも、残れない。三年生だからとか、卒業するからとか、そういう決まりがある。分かってる。分かっていても、納得できるわけじゃない」

「納得できないまま、去るんですか」

俺が訊くと、蓮先輩は俺を見た。

「お前は、納得してから次へ行けると思っているのか」

言葉が詰まった。

進路も、代替わりも、先輩の引退も。どれも、納得できるまで待ってはくれない。母から届いたメッセージの短い文面が、頭の隅に浮かんだ。

夏休み、そろそろ終わるよ。

ひよりが、封筒を両手で持った。

「これ、返します」

「返してくれ」

「でも、読んだことはなかったことにしません」

蓮先輩はひよりの顔を見た。

「どういう意味だ」

「先輩が怖かったことも、残りたいと思ったことも、私たちは見ました。だから、先輩が何でもない顔で卒業するのを、何も知らないふりで見送るつもりはありません」

「何をしろと言う」

「分かりません」

ひよりはそこで、ほんの少し笑った。

「分からないから、今話してます」

蓮先輩は返事をしなかった。

俺はひよりの隣に立った。封筒を受け取る蓮先輩の手が、わずかに震えているのが見えた。気のせいかもしれない。それでも、俺にはそう見えた。

「俺も、何を言えばいいか分かりません」

「そうだな」

「先輩に残ってほしいと思っています。でも、それが先輩のためなのか、俺たちが不安だからなのか、まだ分かりません。だから、行かないでくださいとは言えないです」

言葉にすると、胸が痛んだ。

ひよりが一瞬こちらを見たが、何も言わなかった。

「ただ、先輩が残りたいと思ったことを、弱いことだとは思いません。俺はずっと、先輩は迷わない人だと思っていました。でも、迷いながら立っていたなら、その立ち方を受け取りたいです。真似するんじゃなくて」

蓮先輩は、封筒を受け取った。

赤い線の残る紙は、もう見えない。

「受け取るって、ずいぶん簡単に言うな」

「はい。たぶん、まだ分かってません」

「分かっていないのに言うのか」

「分かってから言おうとしていたら、何も言えないので」

蓮先輩の口元が、ほんの少しだけ動いた。

笑ったのか、息を吐いただけなのか、俺には分からなかった。

窓の外で、風が強く吹いた。白樺の葉が一斉に裏返り、白い面を見せる。談話室の床には、枝の影が細かく揺れていた。

蓮先輩は封筒をバッグへ戻した。

「答辞は、書き直す」

「消すんですか」

「消すところは消す。でも、残すところもある」

「残りたい、って?」

蓮先輩は少し考えた。

「その言葉をそのまま書くかは分からない。けれど、なかったことにはしない」

その声を聞いたとき、俺の中で何かが静かに動いた。

消された文字は、消えたわけではない。紙に残った赤い痕のように、書いた人の指先にも、見た人の記憶にも残っている。

「明日、練習メニューを出すんだろ」

蓮先輩が言った。

「はい」

「それなら、俺に遠慮するな。お前が必要だと思う練習を組め」

「先輩が嫌なメニューでも?」

「嫌なら言う」

「直します」

「直すな。まず、やらせろ」

俺は頷いた。

ひよりがタオルを首へ掛け直した。

「じゃあ、話は終わりですか」

「お前はまだ何かあるのか」

「あります」

ひよりは蓮先輩をまっすぐ見た。

「卒業しても、たまには来てください」

蓮先輩が眉を上げる。

「さっき、言わないって言ってなかったか」

「これは別です。今、決めました」

「勝手だな」

「先輩も勝手にいなくなるので、お互い様です」

蓮先輩は困ったように視線を逸らした。

その顔を見て、俺は初めて、先輩が困っていても部が壊れないことを知った。

談話室の窓から、夕方の光が差し込んでくる。床の上で、白樺の影がゆっくり伸びていた。

蓮先輩はバッグの口を結び直した。

今度は、きつくなかった。

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