1話 蝉時雨と他人行儀な午後

都会の乾いた熱とは質の違う、生命そのものが発するような、まとわりつく湿気と濃い土の匂い。相葉湊は、母・美咲の実家である古い日本家屋の広い縁側で、とっくに氷の溶けた麦茶のグラスを無意味に揺らしながら、脳髄まで染み渡るような蝉時雨の合唱をただ聞いていた。年に一度、夏休みのこの一週間だけ行われる帰省は、中学二年生の彼にとって、刺激のない退屈の同義語だった。

すぐ隣では、従姉で高校一年生の高槻暦が、日焼けして角が丸くなった文庫本から一切顔を上げない。ページを繰る白い指先だけが、時折静かに動く。その姿はミステリアスというより、まるで透明な壁を周囲に張り巡らせ、あらゆる侵入者を拒絶しているかのようだった。

ぎしり、と縁側の床板が軋む音を立てて、庭に面した障子が開く。顔を覗かせたのは、湊の母・美咲だった。 「みんな、ちゃんとお茶飲んでる? 陽太くん、あんまり走り回ってると、また夕ご飯食べられなくなっちゃうわよ」 その声は穏やかだが、子供たちの間の希薄な空気を敏感に感じ取っているようだった。心配そうにエプロンの裾を指でいじるのは、彼女の昔からの癖だ。

「へーき、へーき! 美咲おばさん! それより見て、でっかいカマキリ!」

母の声に反応したのは、庭で虫取り網をぶん回していた小学六年生の長谷川陽太だけだ。彼は汗だくの顔を輝かせ、獲物を入れた虫かごを誇らしげに掲げて見せる。その無邪気なエネルギーだけが、この停滞した午後の空気の中で唯一、色を持っているように見えた。

その対極で、同じく縁側に腰掛けていた同い年の親戚・新田樹は、涼しい顔でスマートフォンの画面をスワイプしている。陽太の報告にも眉一つ動かさず、誰にともなく知識の断片を呟いた。 「カマキリ、ね。学名 *Tenodera aridifolia*。この地域の平均気温は過去十年間のデータと比較して0.8度上昇。生態系への影響は軽微とは言えない。そもそも、その個体の大きさは偏差の範囲内だ。統計的に有意な差は…」 「うっせーな、イツキ! ロマンがねえんだよ、ロマンが!」 陽太が唇を尖らせる。樹は「ロマンこそ最も非合理的な概念だ」とでも言いたげに肩をすくめ、再び手元のデジタルの世界へと没入していく。

言葉を交わすでもなく、ただ同じ空間に漂うだけ。まるで油と水だ。湊は、このどうしようもない他人行儀な空気に息を詰まらせ、無意識にズボンのポケットを探った。指先に触れたのは、ひんやりとした金属の感触。祖父の形見だという、古い真鍮製の「夢見のコンパス」。精巧な蓋を開けても、その針は当たり前に北を指し、静かに揺れているだけ。だが、これを手にしていると、ほんの少しだけ、この退屈な世界から抜け出せるような気がした。

蝉の声が遠のき、強すぎる陽光が意識を白く塗りつ潰していく。うとうとと微睡んだ湊の脳裏に、いつもの夢が、郷愁を誘うフィルム映画のように映し出された。 ―――どこまでも続く、二本の光のレール。枕木の一本一本が蛍のように明滅し、周囲の闇を幻想的に照らしている。その線路の先、踏切の警報機が音もなく赤く点滅する場所に、誰かが立っている。いつも影になっていて顔の見えない、赤いリボンをつけた少女。彼女はただ、じっと誰かを待っている。

「……湊?」

不意に名前を呼ばれ、湊ははっと我に返った。呼びかけたのは、今まで沈黙を貫いていた暦だった。彼女は本から顔を上げ、その黒い瞳でじっと湊の手元を見つめていた。その視線は、彼が持つコンパスに注がれている。 「それ…」 暦が何かを言いかけた瞬間、彼女の表情が微かに、しかし険しく強張ったことに湊は気づいた。まるで、見てはいけないものを見てしまったかのように。だがそれも一瞬のこと。彼女はすぐにいつもの無表情に戻ると、再び本の活字へと視線を落とした。 「…なんでもない」 その呟きは、蝉時雨の波にかき消されそうなくらい、小さく、儚かった。

ただの気のせいだろうか。だが、今の一瞬、暦が見せた動揺は、湊の心に小さな、しかし確かな波紋を広げた。退屈だったはずの午後の風景が、ほんの少しだけ、違う色を帯びて見え始めていた。手の中のコンパスが、まるで意志を持ったかのように、微かに熱を帯びたような気がした。

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蝉時雨と他人行儀な午後 - 夏草の海と、線路の先に - 誰でも作家life