第10話 食卓に置いた台詞

家へ帰ると、玄関に母の靴が揃っていた。

いつもなら気にも留めない。けれど、その靴のつま先が、僕の帰る方向ではなく、廊下の奥へ向いているように見えた。何かを待っている置き方だった。

台所から、包丁の音が聞こえる。

とん、とん、とん。

一定の間隔でまな板を叩く音。冷蔵庫の低い唸り。テレビから流れる天気予報。家の中にはいつもの音しかないのに、全部がこちらを見ている気がした。

「おかえり」

「ただいま」

母は振り返らず、きゅうりを薄く切っていた。

「今日、学校から電話があった」

包丁が止まった。

「文化祭のこと?」

「それも聞いたけど」

母は切ったきゅうりを皿へ移した。水気が残っていて、皿の底で小さな音を立てる。

「主演候補なんだって?」

「候補だから。まだ決まったわけじゃない」

「そう」

母はそれだけ言い、包丁を洗い始めた。蛇口から流れる水が、言葉の代わりに長く続いた。

僕は鞄を下ろした。中には赤ペンの入った台本と、まだ白い進路調査票が重なっている。台本の厚みが、肩から離れた途端に別の重さへ変わった。

「ひまわりホールでやるんだってね」

「うん」

「駅前の、古いところ?」

「そう」

「夜まで稽古になることもあるの?」

「たぶん、何回かは」

母は水を止めた。濡れた手を布巾で拭きながら、僕を見た。

「進路のほうは?」

来ると思っていた質問だった。

それなのに、胸の内側が急に狭くなった。僕は鞄の持ち手を握った。指先へ力が集まり、革の縫い目が皮膚へ食い込む。

「調べてる」

「何を?」

「演劇を学べるところ」

母の手が止まった。

背後のテレビで、明日の気温を告げる声がした。三十度を超えるでしょう、と誰かが明るく言っている。僕の声だけが、台所の床へ落ちて乾いていく。

「演劇って、大学?」

「大学もあるし、専門学校もある」

「俳優の学校?」

「そう」

母はすぐには何も言わなかった。冷蔵庫の扉に貼られた予定表を見ている。病院、父の休日、僕の模試。細いペンで書かれた生活の予定の中に、演劇という言葉を入れる場所はなかった。

「それで、卒業したらどうするの」

「俳優になる」

言った瞬間、喉の奥が熱くなった。

舞台で台詞を読むときは、言葉が身体の中で行き先を知っている。けれど今は、口から出た言葉がどこへ行くのか分からない。母の前に置かれたそれは、皿の上の薄いきゅうりより頼りなかった。

母は布巾をたたんだ。端と端を合わせ、何度も形を整える。

「なれるの?」

責める声ではなかった。だから余計に痛かった。

「分からない」

「分からないのに、進路に書くの?」

「分からないから、調べる」

「調べたら、なれるの?」

「そういう意味じゃなくて……」

言葉が絡まった。僕は親指の付け根を爪で押した。舞台ではあんなに届いた声が、食卓へ向かうだけで細くなる。

「お母さんは、演劇をやるなって言ってるんじゃない」

母はそう言いながら、箸を並べた。一本ずつ、音を揃えるように置いていく。

「文化祭も、部活も、好きにすればいいと思ってる。でも、それを仕事にするなら、好きだからだけでは足りないでしょう。お金もかかる。住む場所も変わるかもしれない。仕事が決まらなかったら、どうするの」

「考える」

「どうやって?」

「これから」

「その『これから』が、いつなの」

返せなかった。

母の声が強くなったわけではない。むしろ低くなっていた。心配しているときの声だと分かる。分かるから、僕は反発しきれない。

父が帰ってきたのは、その少しあとだった。

玄関で靴を揃える音がして、仕事鞄を置く音がする。父は手を洗い、何も聞かないまま食卓についた。母がご飯をよそい、父の前へ置く。茶碗から白い湯気が上がった。

「悠真が、演劇の学校へ行きたいって」

母が言った。

父は箸を持ったまま、僕を見た。

「俳優になりたいんだって」

僕は視線を落とした。父の顔を見られなかった。箸が茶碗へ触れるかすかな音がする。

「そうか」

父の声は短かった。

それだけで終わると思った。けれど父は、味噌汁へ口をつけてから、続けた。

「どこにある」

「まだ、調べてる」

「学校が?」

「うん」

「費用は」

「分からない」

「住む場所は」

「まだ」

父は僕を責めなかった。数字を確認するように、ひとつずつ尋ねただけだった。それが母の問いより重かった。

「分からないことばかりで、決めるのか」

「決めたいから、調べる」

自分でも驚くほど、声がまっすぐ出た。

父の箸が止まった。

「失敗したら?」

その問いに、胸の奥が縮んだ。僕はしばらく答えられなかった。

舞台袖の暗がり。古い椅子。赤ペンで消された台詞。失敗した芝居なら、次に直せると柚木先生は言った。けれど、進路の失敗は、台本のように一度閉じてやり直せるものではない。

「……失敗したら、働く」

言葉を探しながら、僕は続けた。

「演劇をやめるっていう意味じゃなくて、生活できるように働きながら続ける。まだ何も決められてないけど、決められてないことを理由に、最初からなかったことにはしたくない」

父は黙って僕を見た。

母が小さく息を吐く。反対のための息なのか、困惑のためなのか、僕には分からなかった。

「そんな簡単な話じゃない」

「分かってる」

「分かってないから、簡単に言えるのよ」

「じゃあ、どうすればいいの」

声が大きくなった。

母の手が、弁当箱の蓋を閉めるときのように、膝の上で強く握られる。

「どうすればって……」

「何も言わなかったら、分かってることになるの? 大学に行くって書いて、理由は通いやすいからって言えば、ちゃんと考えたことになるの?」

「誰もそんなこと言ってないでしょう」

「でも、そういう顔をしてる」

母の顔が変わった。

怒っているというより、初めて僕の言葉が届いたことに驚いているようだった。台所で何度も整えられた皿や、冷蔵庫の予定表や、蓋の閉じられた弁当箱。その全部が、母の心配の形だった。

「お母さんは、あなたに失敗してほしくないの」

「失敗しないために、何も選ばないのは違う」

「それで傷つくのは、あなたでしょう」

「傷つくかどうかまで、先に決めないでよ」

言ってしまった。

食卓が静かになった。

父は箸を置いた。母は視線を逸らし、皿の端に残った水滴を布巾で拭った。誰も声を荒げない。その沈黙が、いちばん苦しかった。

僕は椅子を引いた。

「ごちそうさま」

「悠真」

母に呼ばれたが、振り返れなかった。

二階の自室へ戻り、ドアを閉める。廊下の明かりが細く床へ伸びた。僕は鞄を開き、台本と進路調査票を机へ置いた。

白い欄の横には、まだ何も書かれていない。

スマホを開く。透とのトーク画面を表示し、文字を打った。

『今日、家で演劇のことを話した』

そこで止まる。

消して、また打つ。

『母さんに反対された。父さんにもいろいろ聞かれた。たぶん、ちゃんと決めないといけない』

送信ボタンの上で指が止まった。

透に言えば、透はきっと待つ。余計なことを言わず、僕が決めるまで待つ。その優しさを、今は受け取りたくなかった。待たれるだけでは、僕はまた何も言わなくなる。

画面を閉じようとしたとき、通知が一つ届いた。

透からだった。

『明日、ひまわりホールの下見。来る?』

短い文の下に、少し間を置いてもう一行。

『逃げてもいいけど、行くなら待ってる』

僕はその文字を何度も読んだ。

机の上で、赤ペンの跡が白い紙へ影を落としている。僕は進路調査票を引き寄せ、第一志望欄の端を指でなぞった。

まだ書けない。

それでも、明日はひまわりホールへ行く。

送信欄へ、今度は一文字だけ打った。

『行く』

指は止まらなかった。送信したあと、胸の奥で、何かが小さく音を立てた。

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