第8話 高遠しのぶ

翌日の夕方、私は桐生先生に断って、一人で旧体育館脇の搬入口へ向かった。
昨夜、床に残っていた足跡は、久我山さんが来るまで触れないようにした。先生は朝一番に久我山さんへ連絡し、現場の写真と記録を渡した。けれど、足跡の主が誰だったのかは分からないままだった。記録用紙に残されたのは、靴底の幅と、掲示板の前で一度だけ向きを変えたことだけ。顔も、服の色も、声もない。
それでも私は、その人が向かった先を覚えていた。
校庭の片隅。養生資材を囲う白いシート。その端が一枚だけ外れ、内側に古い木材と金具が積まれていた場所。
久我山さんには、先に連絡を入れた。返事は短かった。
――十分後に行く。中へ入らないでください。
私はその言葉を守るつもりだった。守るつもりだったが、搬入口の前に立ったとき、シートの隙間から色鉛筆の缶が見えた。
小さな、青い缶だった。
錆びた金具や折れたイーゼルの脚のあいだに置かれ、蓋だけが半分開いている。風が吹くたび、缶の中で鉛筆がかすかに触れ合った。からん、と乾いた音がする。
誰かが、まだここにいる。
そう思った。
私は養生シートの端へ手を伸ばした。湿ったゴムの感触が指にまとわりつき、白い粉のようなものが手袋へ移る。めくると、古い木材のほこりと、濡れた土の匂いが押し寄せてきた。
搬入口の奥に、人が立っていた。
逃げるでもなく、驚くでもなく、ただ足元を見ている。濃い灰色のコートを着た女だった。肩はわずかに内側へ入り、片手に小さな色鉛筆の缶を持っている。蓋は半分だけ開いたままだった。
私はその顔を知らなかった。
けれど、名簿の横に付いた二つの点と、制作ノートの消し跡が、頭の中で重なった。
「高遠しのぶさんですか」
女は顔を上げなかった。
「来ると思ってた」
声は静かだった。静かすぎて、搬入口の外で風がシートを撫でる音のほうが大きく聞こえた。
「どうして私が来ると?」
「あなたは、足跡の向きを見ていたから」
しのぶは色鉛筆の缶を閉じなかった。青、灰、くすんだ橙。中に残っているのは三本だけだった。朱色の鉛筆は、削られて短くなっている。
「昨夜、ここへ来ましたか」
「来た」
「紙片を置いたのも?」
「置いたのは、私ではないわ」
私はシートの内側へ一歩入った。足元に、チョークの粉が点々と残っている。美術棟から続いてきた粉とは違う。搬入口の床は土埃が混ざり、足跡の輪郭がぼやけていた。
「それなら、誰が置いたんですか」
「あなたは、名前が必要なのね」
「名前がなければ、その人がいたことまで消えてしまうから」
しのぶは初めて私を見た。
目元は静かだったが、そこには眠れていない人の薄い影があった。私を見ているようで、私の背後のシートや、床に置かれた金具の向きまで確かめている。人の顔よりも、周囲の物を先に読む目だった。
「朝霧さん。あなたは、朱音のことをどこまで知っているの?」
「西園寺朱音。二十年前の卒業生。文化祭前夜に学校からいなくなった。周囲は家出か欠席として処理した。でも、展示配置図や作品の中に、彼女へ向けた合図が残っている」
「それは、あなたの推測?」
「名前は名簿にあります。写真の端に、白い袖と赤い絵具の付いた紙が写っている。西棟三階の廊下には、午後八時を示す記号と、『戻る』という言葉が残っていた。高遠さんの制作ノートにも、同じ場所と同じ言葉があった」
しのぶの指が、缶の縁をなぞった。
「ノートを見つけたのね」
「あなたのものですか」
「そう」
「《未完成の夕景》も、あなたが作ったんですか」
しのぶは答える代わりに、缶から朱色の鉛筆を取り出した。短く削られた芯を、指先で確かめる。芯の先は折れていて、もう紙に線を引けそうになかった。
「作品を作ったのは私。けれど、あの絵に残っている色のいくつかは、朱音が選んだ」
「朱音が?」
「彼女は名前のある色を嫌っていた。朱とか群青とか、そういう呼び方をすると、色が決められてしまうと言っていた。だから、いつも絵具を混ぜて、名前のない色を作った。明るい顔をしているときほど、灰を多く混ぜた。追い詰められると、赤を増やした」
私は《未完成の夕景》の右端を思い出した。灰の膜の下に残った鈍い朱。見えないようにされたのに、完全には消されなかった色。
「あなたは、朱音の色を使って、彼女への暗号を作ったんですね」
「違う」
しのぶの声が、初めて少しだけ強くなった。
「暗号を作ったのは私。でも、あれは私から朱音への手紙ではない。朱音が残したものを、私が別の形で隠し直したの」
「隠し直した?」
「ええ。あの夜、彼女はもう、自分の言葉をそのまま残せる状態ではなかった。話そうとすると、誰かが先に別の話を始めた。泣けば、面倒を起こしていると言われた。黙れば、問題がないことにされた。だから私は、彼女の言葉を作品の中へ移した」
「移しただけで、助けには行かなかった」
言葉が、思ったより鋭く出た。
しのぶは目を逸らさなかった。代わりに、色鉛筆の缶の蓋を閉じた。薄い金属音が搬入口の中へ落ちた。
「そうね」
「あなたは見ていた。朱音が紙を持って、搬入口へ向かったことも。西棟三階にいたことも。だったら、追いかけられたはずです」
「追いかけたわ」
「え?」
「あの夜、私は一度、階段まで行った。朱音の後を追って、西棟三階へ上がった。廊下の角から見たら、朱音がここへ向かっていた。白い紙を握っていた。赤い絵具が紙の端についていた」
しのぶは、目の前の床を見つめた。
「私は、名前を呼びかけた。でも、声にならなかった。喉まで来たのに、音が出なかった。展示室のほうから、神崎の声が聞こえた。『作品を戻せ』と。小野寺は写真を集めていた。藤堂は、朱音の筆洗いを片づけていた。誰も朱音を探していなかった。みんな、朱音がいないことを、そこにいる人間の都合に合わせて並べ替えていた」
「それでも、あなたは黙った」
「ええ」
「なぜですか」
しのぶは、すぐには答えなかった。搬入口の奥には古い木材が積まれている。木の表面には、何年も前の絵具が乾いた膜になって残っていた。黄土色の指跡、群青の擦れ、白い粉。誰かが使った時間だけが、物の上に沈殿している。
「怖かったからよ」
しのぶの声が、さらに低くなった。
「朱音の味方をすると、今度は私が説明を求められる。なぜ知っていたのか、なぜ止めなかったのか、なぜあの子だけを特別扱いするのか。私は、正しいことを言えば、すべてが正しい方向へ動くと思っていた。でも実際には、正しいことを言った人から、場の外へ押し出される。先生も、同級生も、記録をまとめる小野寺も、みんな『今は文化祭を成功させることが先だ』と言った。成功すれば、翌朝には何かが元に戻ると思った」
「戻りませんでした」
「戻らなかった」
「朱音は、戻ると書いていた」
「ええ」
「あなたも、同じ言葉を書いた」
「私が書いたのは、朱音に戻ってきてほしかったから。けれど、本当は違ったのかもしれない。戻ってきてほしいと書けば、自分は待っていた側になれる。迎えに行かなかった責任から、少しだけ離れられる。そう思ったのかもしれない」
しのぶは色鉛筆の缶を両手で包んだ。
「待っていた、と言えば、自分は何も悪くないように聞こえるでしょう。でも、待つことと迎えに行くことは違う。私は、動かなかった。朱音がいる場所へ行かなかった。だから、私は彼女を見捨てた側にいる」
その言葉を聞きながら、私は母の姿を思い浮かべた。
母も、私を守るために話さなかったと言った。けれど、その沈黙が誰かを置き去りにした可能性を、母自身が知っている。守ることと動かないことは、似た形をしている。内側にいる者には、どちらも優しさに見える。
「高遠さんは、朱音がそのあとどうなったか知っていますか」
「知らない」
「本当に?」
「本当に分からない。あの夜から、朱音は学校へ来なかった。先生たちは家族と連絡を取り、事故や家出の可能性を話した。けれど、学校の中で何が起きたかを詳しく調べようとはしなかった。私たちも、聞かれたことにだけ答えた」
「朱音は、亡くなったんですか。どこかで生きているんですか」
「それも知らない」
しのぶはそこで一度、唇を結んだ。
「だから、あなたが今、朱音の死を前提にして話すのが怖い。あの子がどこにいるのか分からないまま、私たちは『いなくなった人』という形に押し込めた。生きていたとしても、私たちが語らなかったことで、学校の中では死んだのと同じだった」
風が強くなり、養生シートが搬入口の梁へ打ちつけられた。白い布が膨らみ、しのぶの顔を一瞬だけ覆う。すぐに風が抜け、彼女の輪郭が戻った。
「それなら、どうして今になって暗号を見つけさせようとしたんですか」
「見つけさせようとした、というほど立派なものではないわ。私は毎年、この時期になると学校の近くへ来ていた。閉校が決まったと聞いて、もう作品も記録も処分されると思った。だから、最後に一度だけ、配置を戻した」
「配置を戻した?」
「《未完成の夕景》を画架の裏へ置いた。記号の見える向きに、資料を重ねた。保管庫のノートにも触れた。消し跡を完全に消すことはできなかったけれど、上から紙を押さえて、文字が読めるようにした。西棟三階の木箱に紙片を置いたのは、誰かに見つけてほしかったから」
「あなたが置いたんですか」
「紙片は、私が二十年前に作ったものではない。朱音が書いたものよ。私はあの夜、拾った。ずっと持っていた」
しのぶはコートの内ポケットから、薄い透明袋を取り出した。中には、赤い絵具の付いた紙片が入っている。私が西棟三階で見つけたものと、同じ折り目、同じ群青の線。
私は息を止めた。
「どうして二枚あるんですか」
「一枚は朱音が私に渡そうとしたもの。もう一枚は、私がその紙を写して作ったもの。あなたが見つけたのは、私が作ったほう」
「本物は?」
しのぶは透明袋を見下ろした。
「ここにある」
「それを、今まで持っていたんですか」
「捨てられなかった」
「なぜ、私に見せるんですか」
「あなたが、作品の傷を自分の感情で塗りつぶさなかったから。朱音を救ったことにしたり、私を悪人として終わらせたりしなかった。あなたは、足跡の向きと、紙の折り目を見た。分からないものを分からないまま記録しようとした」
「それだけで、信じられるんですか」
「信じているわけではないわ。あなたが、まだ自分の答えを完成させていないことを信じたいの」
透明袋の中の紙は、古いのに、赤い色だけが鮮やかだった。絵具の膜は乾いてひび割れている。けれど、そのひびの奥には、朱音が指先で何度も紙を押さえた跡が残っていた。
「朱音は、誰に助けを求めていたんですか」
「たぶん、誰か一人ではなかった」
「高遠さんに?」
「私にも。藤堂にも、神崎にも、小野寺にも。もしかすると、先生にも。あの子は、助けを求める相手を一人に決められなかった。決めたら、その人が責任を負わされると思ったのかもしれない。だから、展示の配置に分けた。色に分けた。見つけた人が、見つけたぶんだけ引き受けるように」
「そんな方法では、誰も気づけない」
「そうね」
「気づけない方法を選んだのは、朱音が悪いんですか」
「違う」
しのぶは、初めて顔を上げた。
「気づけないようにしか助けを求められないところまで追い詰めたのは、私たちのほうよ。大きな声を出せる人間だけが、助けを求めていることになる。泣き叫ばなければ深刻ではない。説明できなければ、問題ではない。そういう空気を、私たちは便利に使った。朱音が静かだったから、壊れていないことにした」
私は何も言えなかった。
搬入口の外で、落ち葉が一枚、シートの隙間から滑り込んできた。乾いた葉は床へ落ち、しのぶの靴先に触れて止まった。彼女はそれを拾わなかった。拾えば、何かを片づけてしまうように思えたのかもしれない。
「高遠さん。あなたは、私の母を知っていますか」
しのぶの指が、色鉛筆の缶の蓋へ伸びた。
「朝霧理緒さんね」
「藤堂さんは、母もあの夜、学校に来ていたと言いました」
「来ていた」
「何をしに?」
「あなたを迎えに来たのよ」
言葉が、搬入口の冷気の中で止まった。
「私を?」
「あなたはまだ生まれていなかったけれど、あなたのお母さんは、当時、学校の近くで働いていた。文化祭の備品を届けに来ていたの。途中で、朱音と話しているところを見た」
「母が、朱音と?」
「朱音は、あなたのお母さんに紙を渡そうとした。でも、理緒さんは受け取らなかった。受け取れなかったのだと思う」
「どうして」
「彼女にも守るものがあったから」
しのぶの言葉には、母を責める響きがなかった。そのことが、かえって苦しかった。
「何を守ったんですか」
「あなたのことよ」
「私は生まれていない」
「だからこそ。理緒さんは、当時つき合っていた人と、あなたを産むかどうかで揉めていた。学校で問題を起こせば、仕事も、家族も、全部崩れると思っていた。朱音が紙を渡そうとしたとき、理緒さんは『今は無理』と言った」
母が台所で、紙片を捨てずに布袋へ戻した手を思い出した。あの紙は誰のものでもなかったのではない。受け取れなかったものだった。
「それで、母は何もしなかった?」
「何もしなかったわけではない。理緒さんは、朱音の後を追おうとした。でも、廊下で人に呼び止められた。あなたのお母さんが学校の外へ出たあと、朱音がどこへ行ったのか、私には分からない」
「母は、朱音に会ったことを私に言わなかった」
「言えなかったのでしょうね。言えば、あなたまであの夜の中へ入ってしまうと思った。でも、言わないことで、あなたが自分の知らない場所から呼ばれることになるとは、考えられなかった」
しのぶは透明袋を私へ差し出した。
「これを、久我山さんと桐生先生に見せて。私の話だけを証拠にしないで。紙の繊維、絵具の成分、配置図との一致を確認してもらって。私の記憶は、二十年のあいだに何度も自分を守る形へ変わっているから」
「あなたは、すべて話すつもりですか」
「話す。神崎にも、藤堂にも、小野寺にも。少なくとも、誰か一人だけが罪を背負う形にはしない。あの夜は、誰か一人の悪意で起きたことではなかった。だからこそ、全員が自分の沈黙を引き受けなければならない」
「それは、あなたが決めることですか」
「決めるのは、あなたではない。朱音でもない。生きている私たちが、今からどこまで言うかを決める。でも、言わないことで守れるものは、もうほとんど残っていない」
しのぶの声は静かだった。けれど、その静けさは逃げるためのものではなかった。声を荒らげずに、崩れたものの前へ立ち続けるための静けさだった。
私は透明袋を受け取った。紙越しでも、赤い絵具の乾いたざらつきが分かる。
「高遠さん。あなたは、朱音に謝りたいんですか」
「謝っても、届かないかもしれない」
「それでも?」
「謝罪は、相手を戻すための言葉ではないわ。自分が何をしたかを、もう別の名前で呼ばないための言葉よ。私はずっと、待った、守った、残した、と言ってきた。でも本当は、怖くて動かなかった。怖くて、作品の中へ逃げた。それを、贖罪とか記録とか、きれいな言葉で包んでいた」
しのぶは色鉛筆の缶を開いた。短い朱色の鉛筆を取り出し、搬入口の床に落ちた落ち葉の横へ置いた。葉の黄褐色と、鉛筆の赤が並ぶ。彼女は二つの間隔を、ほんの少しだけずらした。
朱音の癖だった。
「でも、作品を残したことまで、逃げだったとは思いたくない」
しのぶは床の二色を見たまま続けた。
「言葉にできない人のために、別の言葉を作ることは、逃げることとは違う。逃げたのは、作ったあとに、誰かへ渡すところまで行かなかった私よ。朱音の合図を作品へ移したなら、今度は作品を読む人の前で、自分の名前を出さなければならない。そうしなければ、暗号はまた沈黙になる」
遠くから、校門の金属音が聞こえた。久我山さんが来たのだろう。足音が一つ、二つ、落ち葉を踏みながら近づいてくる。
私は透明袋を胸元へ抱えた。
「一緒に話しますか」
「ええ」
「久我山さんに、全部?」
「全部ではないわ。私が知っていることだけ。知らないことは、知らないと言う。朱音が生きているか死んでいるかも、私には分からない。分からないことまで、作品の色から決めてはいけない」
「それでも、朱音がここにいたことは言える」
「言える。あの子が助けを求めていたことも。私たちが見ていたのに、迎えに行かなかったことも」
搬入口のシートが大きく膨らみ、白い光が二人のあいだへ押し寄せた。しのぶの顔が一瞬だけ明るく浮かび、そのあとまた灰色の影へ戻る。
私は、紙片を傷めないように指の力を緩めた。
高遠しのぶは、私に真実を渡したのではない。真実へ触れるための、別の手つきを渡したのだ。作品を美しい告白に変えず、沈黙を単純な悪意に塗りつぶさず、誰が何を見て、何を見なかったのかを一つずつ分けていく手つき。
久我山さんの足音が、搬入口の外で止まった。
「朝霧さん」
呼ばれて、私は振り返った。
「ここです」
声は震えなかった。けれど、透明袋の中の紙は、私の手の中でひどく軽かった。
軽いのに、これまで誰も動かせなかった時間が、折り目の一つ一つに沈んでいる。
しのぶが私の隣へ並んだ。少しだけ後ろに立つ癖があり、肩が私の肩より半歩下がっている。それでも、今度は逃げなかった。
私はシートをめくり、外へ出た。
夕暮れの校庭には、落ち葉が風に押されて細い列を作っていた。養生資材の白い幕は、壊すための建物を守るために張られている。けれど、その白さの向こうから、消された色がいくつも戻ってきていた。
朱。群青。灰。名前を失った色。
私はその色を、もう自分一人の記憶にしないと決めた。
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