第10話 朝の店

電話が鳴ったのは、目覚ましが鳴る三分前だった。
画面には湊の名前が出ていた。私は布団の中で一度だけ息を止めてから、通話ボタンを押した。
「もしもし」
『起きてる?』
「今、起きた」
『それ、起きてない人の返事』
「湊だって、電話するって言ったのに三分早い」
『寝坊すると思ったから』
「しないって言った」
『でも、した』
窓の外はまだ青かった。朝というより、夜が薄くなっている途中の色だった。私は枕元の時計を見て、制服へ着替えるために布団を出た。
「店、どこにあるの」
『駅から商店街を抜けて、海と反対側。古い青い看板』
「知ってる。小さい頃、何度も行った」
『じゃあ、来られるな』
「湊が迎えに来るんじゃないの」
『仕入れの手伝いがある』
「電話した意味は?」
『起こすため』
そこで通話が切れた。
私はスマートフォンを耳から離し、しばらく画面を見つめた。短い会話だったのに、胸の内側だけが朝より先に動き出している。
台所には、母がいた。
夜勤明けのはずなのに、冷蔵庫を開け、牛乳の残りを確認している。髪は後ろでひとつに結ばれ、病院の腕時計が白い手首に巻かれていた。
「早いね」
「湊に起こされた」
「そう」
母はそれ以上聞かなかった。鍋の蓋を開け、昨夜の味噌汁を温め直す。湯気の向こうで、眠そうな目だけが私の顔を見ていた。
「朝ごはん、食べる?」
「食べる」
「店?」
「うん。青果店を手伝う」
「そう」
味噌汁を椀によそいながら、母は淡々と言った。
「東京へ行くなら、朝の店を手伝う時間は今しかないね」
箸を持つ指が止まった。
「どういう意味?」
「どういう意味もない。行く前に見ておけばいいと思っただけ」
「私、東京へ行くって決めたから、手伝いに行くわけじゃないよ」
「分かってる」
「湊が残るからって、私まで地元のことを知らないまま行くのは嫌で」
「それも分かってる」
母は味噌汁の椀を私の前へ置いた。
「分かってるけど、口に出さないと伝わらないこともあるから、言っておく。東京へ行くための費用、来週一緒に確認する。家賃と仕送り、受験料、交通費。夢は応援するけど、数字は別に見る」
「うん」
「それと、帰ってくる場所は残す」
母は鍋の火を止めた。
「戻りたくなったら戻ればいい。戻らないなら、それでもいい。家は、行った人を責めるためにあるんじゃないから」
味噌汁の熱さが、喉の奥をゆっくり落ちていった。
「お母さんは、東京に行ったことある?」
「研修で一度だけ」
「どうだった?」
「駅が広かった」
「それだけ?」
「迷った。だから、迷わない人のふりはしない方がいいと思う」
母はそう言って、流し台の前で腕時計を見た。
「遅れるよ」
私は鞄を持った。
外へ出ると、朝の空気は冷たく、夜の湿り気をまだ残していた。駅前へ向かう道には人が少なく、シャッターの下りた商店街の隙間から、パンを焼く匂いが流れている。
青い看板は、商店街を抜けた先にあった。
瀬戸青果。
看板の端が錆びていて、文字の一部が薄くなっている。店先には段ボールが積まれ、白菜やみかん、泥のついた長ねぎが並んでいた。朝の店は、学校よりずっと早く一日を始めている。
「お、来た」
湊が段ボールを抱えたまま、店の奥から出てきた。
髪は寝癖が残り、制服ではなく、古いパーカーにエプロンをつけている。袖を肘までまくっているせいで、手の甲の傷が見えた。昨日より赤みが薄い。
「手、洗った?」
「第一声がそれ?」
「絆創膏は?」
「貼った」
湊が手を上げた。白い絆創膏が、少し斜めに貼られている。
「自分で?」
「じいちゃんに」
その名前を聞いたとき、店の奥から咳が聞こえた。
「湊、そっち置け」
低い声だった。
湊が振り返る。奥の帳場には、白髪の老人が座っていた。背中は丸く、膝の上に毛布がかかっている。けれど、机の上の伝票をめくる指は迷いがなかった。
「澪ちゃんか」
「お久しぶりです」
「大きくなったな」
「もう高校生なので」
「そうか。高校生か。じゃあ、東京へ行くんだな」
湊の肩が一瞬だけ固くなった。
私はその変化を見た。けれど、祖父は伝票から顔を上げず、みかんの箱を指で示した。
「そこの傷んだやつ、分けてくれ。売り物にはならんが、ジャムにできる」
「私が?」
「できるかどうかは、やってみてから考えればいい」
湊が笑った。
「じいちゃん、澪をこき使う気?」
「お前一人だと、判断が遅い」
「俺、速いだろ」
「速いだけだ」
店の奥に、短い笑いが落ちた。
私は箱の蓋を開けた。みかんの甘い匂いが立ち上がる。表面に小さな傷のあるものを取り出し、別の籠へ移す。ひとつ、ふたつ。指先に冷たい果皮の感触が残った。
「澪」
湊が隣で長ねぎを束ねながら言った。
「東京の店でも、こういうの売ってるかな」
「売ってるでしょ」
「高そう」
「知らない」
「じゃあ、俺が送る」
「送料の方が高いかも」
「そこを何とかするのが店の腕」
「湊、店をやる気なんだね」
言ったあと、彼の手が止まった。
私は箱の中のみかんを見た。今の言葉が、彼を追い詰めたかもしれないと思った。でも、湊は逃げずに答えた。
「やる。たぶん、思ってたより大変だし、思ってたより面白い」
「東京へ行きたかったことは?」
「まだ行きたいよ」
その声は、店の朝の音に混ざりながらも、はっきり聞こえた。
「でも、行きたい場所が一つじゃないといけないわけじゃないだろ」
私は顔を上げた。
湊は、傷のない方の手で長ねぎの輪ゴムを締めていた。指先は慣れていて、結び目がきれいだった。
「澪が東京で撮ったもの、見せてよ」
「うん」
「俺が店で見つけたものも送る」
「野菜の写真?」
「野菜を馬鹿にするなよ。朝の光、けっこういいから」
「知ってる」
「何で?」
「今、撮りたいと思った」
私は鞄からカメラを出した。
店先の段ボール。濡れたアスファルト。みかんの傷。湊の絆創膏。祖父の伝票を押さえる指。どれも、昨日までならただの朝の風景だった。
私はファインダーを覗いた。
シャッターを切る直前、湊がこちらを見た。
「それ、俺も写る?」
「写るかも」
「変な顔してない?」
「いつも通り」
「それ、褒めてないだろ」
シャッターの音がした。
写真の中で、湊は笑っていなかった。けれど、逃げてもいなかった。
午前の授業が始まるころ、私は学校へ向かう坂道を上っていた。鞄の中には、朝に撮った写真が増えている。東京へ行く自分と、地元に残る湊。その間にある距離は、まだ測れない。
それでも、距離があることを知ったまま撮る景色は、昨日までより少しだけ鮮明だった。
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