第9話 町史保存会の閲覧室

町史保存会の建物は、旧市街の坂を上った先にあった。
かつては郡役所の分室だったという木造の建物で、外壁は何度も塗り直されているのに、窓枠だけが古いまま残っていた。風の強い港町には珍しく、庭木はほとんど揺れていない。窓の内側へ厚い布が掛けられ、潮の匂いを遮っているらしかった。
扉を開けると、乾いた木と防虫剤の匂いがした。
閲覧室には、古い木の机が一直線に並んでいた。机と机の間隔は、二人がすれ違えるほどしかない。壁際の書架には保存箱が隙間なく収められ、背に貼られた紙片には、年代と分類番号が几帳面な字で記されている。
窓の外に海があるはずなのに、ここには波の音も、トラックの走る音も届かなかった。
その静けさの中央に、久我原典明が立っていた。
白い手袋を外し、指先を一本ずつ確認するように布の上へ置いている。机の上には帳簿が三冊、角を揃えて並べられていた。表紙の色も厚みも違うのに、背の線だけは不思議なほど一直線に揃っている。
「お待ちしていました、桐谷さん」
典明は、私の名前を丁寧に呼んだ。
その声には驚きも警戒もなかった。初めから私たちが来ることを知っていたような、相手を迎え入れるための落ち着きだけがあった。
「久我原さん。月舟堂と町史保存会の記録について、確認したいことがあります」
「月舟堂の件でしたら、文化財の保全にご協力いただいた経緯を説明できます。古い店ですから、記録が少し入り組んでいるのは事実ですが」
「入り組んでいるのではなく、抜かれています」
早瀬さんが言った。
典明は一度だけ微笑み、それから私たちを机へ促した。
瀬尾さんは紙箱を抱え、茉莉さんは折り畳んだ地図を持っている。早瀬さんは古いファイルを胸に抱えたまま、私の隣ではなく、少し離れた机の端に立った。
私は地下帳場で見つけた修正紙の写しを、机の中央へ置いた。
〈番台の奥、二十年前の便〉
次に、売却台帳の記号を写した一覧を置く。切符、蔵書印、署名、返却記録。そこへ町史保存会の寄贈帳から抜き出した記録を重ねた。
典明はすぐには紙へ触れなかった。
視線だけを、左から右へゆっくり移していく。書名、日付、移管先、欄外の印。最後に、修正紙の白い余白へ目を落とした。
「かなり詳しく調べられましたね」
「調べたのではありません。残っているものを並べただけです」
「残っているものという言葉は、便利であると同時に危うい。残ったものが全体を代表するとは限りません」
「だから、残らなかったものを確かめに来ました」
典明の指が、机の上でわずかに動いた。だが、帳簿へ伸びることはなかった。
「町史保存会は、散逸を防ぐために資料を集めています。個人の蔵書、家の記録、寄贈品、焼失した書庫の残存物。持ち主が亡くなったり、家が途絶えたりすれば、本は簡単に捨てられる。私たちは、それを避けてきたのです」
「その過程で、所有者の名前を外した」
瀬尾さんが言った。
「本を保存するには、所有者の名より、保存場所の方が重要な場合があります」
「それは、所有者が生きている場合でも?」
私は訊いた。
典明は、初めて私をまっすぐ見た。
「生きているかどうかは、記録の価値を決めません」
「姉の名前も、ですか」
「桐谷澪さんのことを、私はよく覚えています。たいへん熱心な方でした。少し、物事を深く考えすぎるところもあった」
その言い方に、喉の奥が乾いた。
「姉を知っていたんですね」
「月舟堂に出入りしていた人間を、知らないとは言えません。店主の妹さんでしたし、町史保存会の資料にも関心を持っていました」
「姉が何を見たのかも知っている?」
「見たものは、本人に尋ねるべきでしょう」
「その本人は、二十年前からいません」
「いないという事実と、何を見たかという問いは別です」
「どちらも、あなたが記録から切り離した」
典明は、急がずに息を吸った。
「桐谷さん。町は、きれいな記録だけで成り立っているわけではありません。相続争いもあります。家族に知られたくない借金もある。寄贈したことにして手放さなければ、処分される本もある。人には、それぞれ事情があるのです」
「だから、名前を消す?」
「消すのではありません。適正な場所へ移すのです」
「人の名前を?」
「本に付随する情報を、整理するのです」
「本に付随する情報ではありません」
私は、机の上のリストを指で押さえた。
「切符は、その人がどこへ行ったかを残している。折れた頁は、どんな気分で読んだかを残している。蔵書印は、その本を自分の時間として持っていた証拠です。あなたはそれを本から剥がして、別の名簿へ移した。移した先では、誰のものだったか分からない。そこへ別の所有者を置く。そうすれば、元の人間だけが記録の外へ落ちる」
典明は、ゆっくりと手袋を畳んだ。
「所有というものを、ずいぶん情緒的に捉えておられる」
「あなたは、ずいぶん事務的に人を扱うんですね」
「事務的でなければ、守れないものがあります」
その声は柔らかかった。責められているのではなく、諭されているように聞こえる。その穏やかさの中に、相手の反論を先回りして包む力があった。
早瀬さんがファイルを開いた。
「二十年前の失踪届です。受理後、保留になっている。理由は空白。担当者の署名は途中で筆圧が変わっている。同じ日付に、町史保存会の寄贈帳では旧蔵書の移管処理が行われている」
典明はファイルへ目を向けた。
「古い書類ですね」
「古いから確認しています」
「失踪届と寄贈帳が同じ日に処理されたとしても、関連があるとは限らないでしょう」
「では、こちらはどうですか」
早瀬さんは別の紙を出した。
「月舟堂の売却台帳にある記号です。切符、蔵書印、署名、返却記録。町史保存会の寄贈帳にも、同じ分類線と同じ紙質の切片が使われている。月舟堂と保存会で、同じ記録を往復させていた」
典明の目が、ほんの一瞬だけ、欄外の印へ落ちた。
私はそれを見逃さなかった。
地下帳場の修正紙に残っていた小さな印。細い線が二本、その脇に点が一つ。典明が今、帳簿の余白へ残している印と同じ形だった。
「その印は、月舟堂にもありました」
私は言った。
「誰が押したのか、確認できますか」
典明は机の上の帳簿を見下ろした。
「古い分類印です。保存会で使うものですから、月舟堂にあっても不思議ではありません」
「月舟堂の帳場で、保存会の印を使う理由は?」
「資料の受け渡しがあったからです」
「誰が受け渡したんですか」
「担当者は複数いました。二十年も前のことです。すべてを私が覚えているわけではありません」
「でも、記録は持っている」
「記録はあります。しかし、記録があることと、記録に書かれていないことを推測することは違う」
「記録に書かれていないように、あなたがした」
言葉が落ちた。
室内の静けさが、一段深くなる。窓の外から届かないはずの風の音が、壁の向こうで薄く震えたように聞こえた。
典明は怒らなかった。
ただ、机上の帳簿を一冊だけ、ほんの一センチ手前へ引き寄せた。
「桐谷さん。あなたは、失踪したお姉さんを探している。そのお気持ちは理解できます。しかし、記録をすべて一つの悪意へ結びつけるのは危険です。町には、失いたくないものを守ろうとして、結果的に別の誰かを傷つけてしまった人もいる」
「あなたも、その一人ですか」
「私は町を守ろうとしただけです」
「守るために、誰が残り、誰が消えるかを決めた」
「決めなければ、もっと多くのものが失われた」
典明の声は、そこでも低く穏やかだった。
「火事のあと、焼けた蔵書を見たことがありますか。紙は水を吸い、煤で黒くなり、頁をめくるだけで崩れた。家族は何を残すか選べなかった。寄贈先も、相続人も、誰も引き受けたがらない。そんなとき、すべてをそのまま残せと言うのは簡単です。ですが、保存には場所が要る。費用が要る。誰かが責任を引き受けなければならない」
「その責任を、あなたが独占した」
「独占ではありません。引き受けたのです」
「引き受けた人間が、所有者の名前を消すのですか」
典明は黙った。
その沈黙は、茉莉さんが語った、言葉にできない人の沈黙とは違っていた。あれは相手の内側へ引き返すための沈黙だった。典明の沈黙は、こちらの言葉を机の上へ置き、分類し、どこへ戻すか決めるためのものだった。
私は机の横に立てかけられた献呈本へ目を向けた。
表紙の擦れ。背の沈み。見返しの角にある押し跡。瀬尾さんが見せてくれた本と同じ種類の傷み方だった。私は手を伸ばした。
典明が、先に本の位置を整えた。
背表紙を指で撫で、机の端と平行にする。
その指先の動きは、月舟堂の地下帳場で見つけた紙の圧痕と重なった。
「その本は、誰のものですか」
私は訊いた。
「町史保存会の資料です」
「以前は?」
「寄贈品です」
「誰から?」
「記録を確認します」
「今、確認できるでしょう」
「記録を確認しなければ、答えられません」
「答えたくないときも、同じ言い方をするんですね」
典明は私を見た。初めて、その微笑みがわずかに薄くなった。
「あなたは、お姉さんに似ています」
その言葉は、刃物のように鋭くはなかった。むしろ、古い紙の端で指を切るように、遅れて痛みが来た。
「姉を知っていたから、そう言うんですか」
「本の見方が似ている。人の話を聞くより、置かれた物の位置を見ている。そこにあるものより、なくなったものを気にする」
「姉にも、同じことを言った?」
「言いました」
「それで、姉は何と?」
典明は答えなかった。
代わりに、帳簿の端を二度、指で叩いた。
その癖まで、地下の修正紙に残っていた。
私はそれを見つめた。目の前にいる男は、紙の上に残った癖を知らない。自分が何を残したかを考えず、何を消せたかだけを管理してきた。だから、細部の積み重ねが、本人の言葉より正確に彼を語っていた。
「姉は、何を見たんですか」
「私には分かりません」
「あなたが、分からないはずがない」
「分からないものを、分かったことにするのは、記録を扱う者のすることではありません」
「では、なぜ姉の名前が寄贈帳から消えているんですか」
「彼女の名前があったと、どこに書いてありますか」
「貸出票に。売却リストに。地下帳場の紙片に」
「それらは、公式記録ではありません」
「公式でなければ、人がいたことにならない?」
「公式性には意味があります」
「誰が決めたんですか。何を公式にするかを」
典明は、まるでその問いを待っていたように背筋を伸ばした。
「共同体です」
「共同体の名前を使って、あなたが決めた」
「私は、町の合意を取りまとめただけです」
「町の人全員に聞いたんですか。澪の名前を残すか、消すか。焼けた本を誰のものにするか。失踪届をどの欄へ入れるか」
「全員に聞く必要はありません。町には、声を上げられない人もいます。だからこそ、誰かが判断しなければならない」
「声を上げられない人の代わりに、声を消した」
典明の微笑みが消えた。
それでも声は荒らげなかった。むしろ、語尾がいっそう丁寧になった。
「桐谷さん。記憶は、誰の所有物でもありません。個人が勝手に持ち出し、好きな形で広めれば、残された人間が傷つく。死者の名誉も、家族の生活も、町の信用も壊れる。だから、記憶には扱い方が必要なのです」
「扱い方を決める人間が、記憶の所有者になる」
「そうは言っていません」
「言葉にしていないだけです」
私は机の上のリストを見下ろした。
「このリストは、あなたが作ったものですか」
典明は答えなかった。
茉莉さんが地図を開いた。赤鉛筆の点が、白い紙面に細く並ぶ。
「月曜便の投函地点は、二十年前の配達区域に沿っています。封筒を確認した人が、久我原家の裏手へ向かったのも記録しています。投函地点を変え、郵便局を通し、差出人を消すやり方は、誰かが長く続けてきた手順です」
典明は地図へ目を落とした。
「配達員の記憶は、記録とは呼べません」
「記憶ではありません」
茉莉の声は柔らかかった。だが、いつもの愛想はなかった。
「配達順、時刻、封の状態、ポストの位置。私が何年も仕事の中で覚えてきたことです。正式な帳票に残っていないだけで、なかったことにはなりません」
典明は彼女を見た。
「あなたは、郵便物の扱いについて、守るべき境界を理解していると思っていました」
「理解しています」
茉莉は言った。
「だからこそ、郵便を使って人の名前を消すことには加担しません。手紙の中身を勝手に読むのと、届いた事実まで見なかったことにするのは、別のことです」
瀬尾さんが、献呈本の表紙を見つめたまま続けた。
「保存と改ざんの違いも、同じです。触れたことを残すか、触れなかったように見せるか。あなたは何度も後者を選んでいる」
「あなたは、修復士として依頼を断ったそうですね」
典明は瀬尾さんへ顔を向けた。
「焼け跡を消す仕事を」
瀬尾さんの手が、紙箱の蓋を押さえた。
「見たことがあるんですか」
「あなたの工房から報告を受けました。依頼を断ったことも、その後、別の工房で修復されたことも」
「なら、分かっているでしょう。あれは修復ではなかった」
「事情を知らずに、判断しているだけかもしれません」
「事情を知っている人間が、そう言うならなおさら悪い」
瀬尾さんの声は低かったが、今までになく長く続いた。
「傷を消す理由はいくらでも作れます。家族を守るため、町の信用を守るため、文化財を守るため。けれど、傷を消した本は、誰の時間を生きたのか分からなくなる。見た目だけが残り、来歴だけが切り捨てられる。あなたは、それを保存と呼んだ。僕は、それを本の死に方を選ぶことだと思っています」
典明は反論しなかった。
机上の三冊の帳簿を、指先で少しずつ整えている。
一冊目の角。
二冊目の角。
三冊目の角。
揃えるたび、紙が擦れた。
その音を聞きながら、私は地下帳場の紙の山を思い出した。名前を覆う紙。剥がされた蔵書票。二十年前の頁だけが抜かれた帳簿。すべてに同じ手つきが残っていた。
整えるために、切り分ける。
守るために、所有者を消す。
「町を守ったつもりですか」
私は言った。
「今も、そう思っていますか」
典明はしばらく目を閉じた。
「思っています」
「姉を消したことも?」
「あなたのお姉さんが、どこへ行ったのかは知りません」
「失踪届を保留にしたのは?」
「私は警察ではありません」
「蔵書の移管を決めたのは?」
「保存会には複数の人間がいます」
「月舟堂の帳簿と、久我原家の蔵書目録を照合したのは?」
典明の指が止まった。
わずかな間だった。
けれど、十分だった。
「旧家の蔵書は、家の責任で管理しています」
「町の本まで?」
「町の本は、町の責任です」
「その町の責任を、あなたの家が引き受けた」
「引き受けたのです」
「そして、手放さなかった」
典明は私を見た。
「記録は、誰かが持たなければ散ってしまいます。散れば、誰も責任を取らない。私は、責任を持つために集めた」
「責任を持つという言葉で、所有した」
「所有しなければ、守れないものがあります」
「守られたものは、誰のものだったか分からなくなった」
私の声は震えていなかった。
怒りが強すぎると、声はかえって冷える。胸の奥では、二十年前から動かなかったものが、濁った水のように回り続けていた。
「姉の名前も、本の切符も、焼失した書庫の記録も。あなたは全部を残した。けれど、元の場所から切り離して、あなたが決めた順番に並べた。だから、どこかに残っているのに、誰のものでもなくなった」
典明は帳簿を閉じた。
「桐谷さん。あなたは、見つけることと許すことを混同しない方がいい」
「混同していません」
「見つけたものを、元の人へ返せないこともあります」
「分かっています」
「では、なぜそこまで怒るのです」
私は、机の上の自分の手を見た。
指先には、古い紙の粉が残っている。何度洗っても、完全には取れない。姉の本に触れたときの匂いも、地下帳場で拾った鉛筆の乾いた木の感触も、記憶の中に残っている。
「返せないからです」
私は言った。
「返せないものを、返せるように見せて、別の棚へ置くからです。澪が戻らないことは分かっています。二十年という時間を、なかったことにはできない。でも、戻らないからといって、誰かが姉の名前を別の記録へ移していい理由にはならない」
典明は、初めて視線を逸らした。
それはほんの一瞬だった。窓のない壁へ、保存箱の番号へ、どこへでもない場所へ。
「あなたは、記録を荒らそうとしている」
「荒らしているのは、私ではありません」
私は修正紙を指した。
「すでに荒らされている。私は、荒らされた跡を見ているだけです」
早瀬さんがファイルを閉じた。
「本日の確認は終わりです。帳簿の一部は、正式な手続きを取って再度閲覧を求めます」
「もちろんです」
典明は穏やかに答えた。
「必要な手続きには、協力します」
「拒否するなら、その事実も記録する」
「分かっています」
早瀬さんが立ち上がる。瀬尾さんは献呈本から目を離し、紙箱を抱え直した。茉莉さんは地図を畳み、赤鉛筆の点を折り目の内側へ隠した。
私は最後に、机上の欄外印をもう一度見た。
細い線が二本。脇に小さな点。
典明が帳簿を揃えると、その印も紙の影へ隠れた。
閲覧室を出るとき、背後から紙の擦れる音がした。
振り返ると、典明が机上の帳簿を一ミリも乱れぬよう揃え直していた。あまりに自然で、あまりに静かだった。まるで、私たちが置いていった疑いさえ、彼の決めた位置へ戻そうとしているように見えた。
外へ出ると、潮風が頬へ当たった。
室内に閉じ込められていた紙の匂いが、湿った海の匂いに押し流されていく。けれど、喉の奥にはまだ防虫剤の苦さが残っていた。
坂を下りながら、私は何度も手帳を開き、典明の言葉を書き留めた。
〈守るために集めた〉
〈所有しなければ守れない〉
〈記録は散れば責任を失う〉
どの言葉も、それだけなら正しいように見える。だからこそ、危険だった。人を傷つける言葉は、いつも露骨な形をしているとは限らない。正しさの器に入れられたまま、長い時間をかけて誰かを消していくこともある。
茉莉さんが、坂の途中で足を止めた。
「望さん」
「何ですか」
「町の古い家って、郵便受けだけ妙に新しいことがあるでしょう」
「ありましたね」
「中に入るのは古いのに、受け取る口だけ新しい。あれは、郵便を受けるためだけではありません」
「知っています。外から中身を見せないため」
「それだけではなく、誰が触れたかを残さないためです」
私は彼女を見た。
茉莉さんは、港の方角へ目を向けていた。雲の切れ目から差す光が、古い屋根の上だけを白くしている。
「新しい投入口なら、指紋も、古い傷も、すぐ消えます。誰かが何度触れても、交換した金属の上では、前の手が残りにくい」
「郵便受けまで、記憶を消す道具にされた」
「そういうことです」
茉莉さんは、配達鞄の肩紐を直した。
「でも、交換した周りの木は古いままです。釘の穴や、塗料の剥がれは残る。新しいものだけ見ていると、古い手が見えなくなる」
私は頷いた。
見えるものを新しく整え、見えないものを古いまま残す。その境目に、過去は沈んでいる。
旧港倉庫街へ向かう道に入ると、風が強くなった。濡れた木材の匂い、錆びたシャッターの鉄臭さ、遠くで鳴る船の汽笛。夕暮れの町は、昼間より広く見えた。建物の隙間に、誰かが歩いた道が何本も残っている。
瀬尾さんが、私の隣へ来た。
「典明さんは、まだ全部を話していません」
「話すつもりもないでしょう」
「それでも、紙は話しています」
「あなたは、あの献呈本をどうするんですか」
「記録します。修復はしない。少なくとも、今は」
「直せないから?」
「逆です。直せる部分が多すぎるからです。見返しを貼り替えれば、名前は読めなくなる。表紙を作り直せば、焼け跡も隠せる。そうやってきれいにすれば、誰かが望んだ形へ戻せる。でも、その形が誰のためのものか分からない」
瀬尾さんは、自分の紙箱を抱え直した。
「傷を残すことは、壊れたまま放置することではありません。どう壊れたかを、次の人に渡せるようにすることです」
私はその言葉を、手帳へ書こうとしてやめた。
書けば、自分の言葉として整えてしまう気がした。瀬尾さんの声の低さも、紙箱の重さも、風の中で一度だけ乱れた呼吸も、文章にしてしまえば別の形へ変わる。
代わりに、指で手帳の端を押さえた。
町史保存会の閲覧室を出てから、私はずっと、典明の言葉を考えていた。
記憶は誰の所有物でもない。
本当にそうなら、誰かが所有者を決めることもできないはずだ。けれど典明は、記憶を自分の管理下へ置くことで、誰のものでもない状態を作った。誰のものでもないものは、誰も取り戻せない。だから、管理する者だけが、残すか消すかを選べる。
その仕組みは、奪うより静かだった。
奪われた人間は、失ったと気づける。けれど、最初から所有者でなかったことにされれば、失ったことさえ証明できない。
私は立ち止まった。
旧港倉庫街の奥、月舟堂の番台にだけ、明かりが点いていた。
まだ日が完全に落ちていないのに、そこだけが紙のように白く浮いている。看板を外した店の窓は暗い。隣の倉庫も、古紙回収業者の作業場も、すでにシャッターを閉めていた。
なのに、月舟堂の番台だけが明るい。
茉莉さんが、私の腕へ触れた。
「今夜は、入らないでください」
「分かっています」
「本当に?」
「早瀬さんがいる前で、約束しました」
少し離れた場所で、早瀬さんがこちらを見ていた。彼は何も言わなかったが、手帳の端を二度叩いた。
私は明かりを見つめた。
番台の下には、まだ終わっていない紙の束がある。今日、典明が整え直した帳簿の続きも、澪の名前を押し潰した紙も、そのどこかへつながっているはずだった。
澪が消されたのは、あの夜だけではない。
名前が帳簿から抜かれたとき。
本の印が剥がされたとき。
失踪届が保留欄へ押し込まれたとき。
そして、町の人々が「昔のこと」と言って目を逸らしたとき。
そのたびに、澪は何度も消されていた。
けれど、そのたびに、紙の端へ傷が残った。
私は手帳を開き、今日の最後の行を書いた。
〈久我原典明は、記録を守る者ではない。記録の位置を決める者である〉
書き終えたあと、少し迷って、もう一行を加えた。
〈桐谷澪の失踪は、記録の外へ押し出された〉
風が吹いた。
紙の端がめくれ、鉛筆の線が一瞬だけ見えなくなった。私は指で押さえた。消えたのではない。折り目の下へ隠れただけだ。
月舟堂の明かりは、しばらくして消えた。
暗くなった窓の向こうに何があるのか、今の私にはまだ分からない。ただ、闇の中にも、紙が積まれている気配だけは残っていた。
私は早瀬さんたちとともに、倉庫街を引き返した。
背後で、閉じた月舟堂のどこかから、紙を揃える音がした。 一枚。 また一枚。
誰かが今も、記憶を選別している。
その音を聞きながら、私は歩いた。戻るためではなく、もう一度、番台の下へ向かうために。
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