第8話 帳簿の突合

翌朝、私は開館前の図書室へ入った。
雨は上がっていたが、窓の外の町はまだ濡れていた。屋根の端から落ちる雫が、通りの排水溝へ細い筋を作っている。潮の匂いに混じって、濡れた木材と古紙の臭いが漂っていた。昨日、月舟堂の地下帳場で拾い上げた紙片の匂いが、まだ衣服の袖に残っているような気がした。
机の上には、夜のうちに写し取った記録が並んでいた。
古書の版元。蔵書票の位置。頁の折れ癖。鉛筆の圧。切符の種類。紙の厚み。焼け跡の有無。糊の跡。
私はそれぞれを、書名ではなく傷の種類で分けた。
切符の跡がある本。蔵書印を剥がされた本。余白を削られた本。頁の角を伸ばされた本。返却期限票の日付だけが書き換えられた本。
題名を横に並べると、ばらばらの古書に見える。だが傷の順番を揃えると、一人の生活がそこへ浮かんだ。
駅へ行った。
映画館へ寄った。
喫茶店で紙ナプキンを使った。
誰かに本を貸した。
帰宅して、見返しに切符を挟んだ。
その後で、誰かが切符を抜いた。
私は机の左端に置いた紙を一枚、右端へ移した。上から順に並べるのではなく、出来事が起きた順番を作ろうとしていた。何度もやり直したせいで、紙の角には白い摩耗ができている。
「題名順ではないですね」
背後から声がした。
振り向くと、瀬尾一樹が入口に立っていた。片手に薄い紙箱を持ち、もう片方の手で眼鏡の位置を直している。髪には、作業場から運んできたらしい細かな紙粉が付いていた。
「来ると思っていました」
「来る必要がありました」
瀬尾は机へ近づき、紙箱を置いた。蓋を開けると、中には細い綴じ糸と、紙質の違う小片が仕切りごとに収められていた。どれも名札のように小さな紙片が添えられている。
「昨日の帳場で、持ち帰らずに写したものだけでは足りません。紙の端を見比べる必要があります」
「証拠として持ち出せなかったから、記憶に頼るしかなかった」
「記憶ではなく、写しです」
瀬尾は私の手帳を見た。
「写しにも手癖が出ます。あなたは重要だと思った箇所ほど、文字を詰める。余白を狭くする。昨夜の記録は、いつもより右端へ寄っている」
「そういうところまで見ますか」
「見えるので」
彼は机上の紙を一枚持ち上げた。古い帳簿から切り取った紙の写しだった。下端に、綴じ糸を通した穴が四つ残っている。
「この紙片は、帳簿から外されたあと、別の紙へ貼られています。けれど、貼るときに繊維の向きを合わせていない。表面の紙は横目、下の帳簿紙は縦目。月舟堂の中で、いったん解体され、違う順序で綴じ直された」
「本だけではなく、帳簿も」
「帳簿も、本も、同じ扱いです」
瀬尾の指が、紙の端で止まった。
「これは月舟堂の中で一度ばらされている」
「一度だけ?」
「最低でも一度。綴じ糸の穴が重なっている。最初の綴じ目を使っている部分と、別の位置へ開け直した部分がある。ばらして、並べ替え、また閉じた。何をどこへ移したかを、後から追えないようにするためです」
私は売却リストを見下ろした。
同じ本が、週ごとに違う位置へ移っている。題名順でも、価格順でもない。蔵書票の有無や切符の抜去状況によって、並びが変わっている。
「売った順番ではない」
「はい」
「本から何を抜いたか、その進み具合で並べている」
「それだけではありません」
瀬尾はリストの一行を指した。
〈所有者、未詳〉
「この表現が、二通目では〈所有者、保留〉、三通目では〈所有者、移管〉に変わっている」
「所有者が変わったのではなく、記録上の扱いが変わった」
「そうです。人間の手元から本を動かすだけなら、普通の売買です。けれど、所有者の名前を外し、代わりに移管先だけを残すなら、売買ではなく管理になる」
「誰が管理するんですか」
瀬尾は答えず、紙箱の中から一本の綴じ糸を取り出した。赤茶色の糸だった。濡れた木のような色をしている。
「この糸は、月舟堂の帳簿に使われていたものと近い。古い麻糸に、煤と油が染みている。火災のあとに回収された帳簿を綴じ直したときの糸だと思います」
「旧家の蔵書火災」
「断定はできません。ただ、焼けた本を扱った場所で使われた可能性が高い」
「火事のあとに、帳簿を綴じ直した。失われた本を整理するために?」
「整理という言葉は便利です」
瀬尾は糸を指先で伸ばした。
「焼けた本を数える。残った頁を分ける。持ち主の印を確認する。寄贈できるものを寄贈し、売れるものを売る。その作業を整理と呼ぶことはできます。けれど、その過程で名前を外し、書き込みを剥がし、切符を抜いたなら、整理したのは本ではなく、誰かの生活です」
「記憶を売りやすい形にした」
「あるいは、記憶を所有しやすい形にした」
その言葉が、机の上に重く落ちた。
瀬尾は写し取った紙片の一枚を裏返した。表からは何も見えない。だが光へ透かすと、薄い横線と数字の影が浮かんだ。
「この下層紙、町史保存会の寄贈帳と同じ罫線を持っています」
「分かるんですか」
「罫線の幅が独特です。印刷されたものではなく、古い帳簿を複写したときに残る線です。紙の端から七分。こちらも、あちらも同じ」
「町史保存会の記録を、月舟堂で再利用した?」
「逆かもしれません。月舟堂の帳簿を保存会へ回し、保存会の記録として整えたあと、また紙を戻した」
「記録そのものが往復していた」
「ええ。名前を外した紙が、別の帳簿へ移り、そこで別の意味を与えられる。そうやって元の所有者から遠ざける」
私は紙片の上に手を置いた。
「本に残った傷は、持ち主から切り離されても、消えない」
「だから、売却リストへ移した」
「誰かが、切り離した記憶を別の場所へ送っている」
瀬尾は私を見た。
「送る相手は、あなたです」
「姉が?」
「そこまでは言えません」
「いつも、そこで止まりますね」
「止まらなければならないところで止まっています」
瀬尾の声は静かだった。けれど、紙を扱う指だけは硬くなっていた。
「望さん。あなたが澪さんの痕跡を探していることは分かります。ですが、姉さんの名前に似た印、姉さんに似た折れ、姉さんに似た鉛筆の噛み跡。そういうものを一つずつ、姉さんの存在へ結びつければ、あなたは記録を読むのではなく、記録へ姉さんを戻してしまう」
「戻したいんです」
「戻せないものまで?」
私は答えられなかった。
「戻したいのではなく、消されたままにしたくないんです」
ようやく、言葉が出た。
「澪を、生きていることにしたいわけではありません。死んだことにしたいわけでもない。私はただ、姉が消えたあと、町が勝手に意味を決めたことが許せないんです。家出だった。事故だった。遠くへ行った。どの言葉も、姉が何を見て、何を恐れ、何を残そうとしたのかを、最初から無かったことにしている」
私は机上の紙を一枚ずつ押さえた。
「本に残った切符も、折れも、蔵書印も、澪の人生そのものではない。でも、人生の一部です。それを誰かが勝手に剥がして、別の名前の下へ移した。私は、その手順を見つけたい」
瀬尾はしばらく沈黙した。
やがて、紙箱の蓋を閉じた。
「それなら、あなたは今、僕より先に行きました」
「何がですか」
「僕は、傷を残すことに執着している。けれど、傷が誰のものかまでは、決められない。あなたは今、姉さんのものだと決めずに、姉さんが消された手順を探そうとしている」
瀬尾は一枚の紙片を私の前へ置いた。
「これは、所有者の名が剥がされたあとに残った紙です。誰のものかは分からない。ただ、名前があったことだけは分かる。まずはそこから始めるべきです」
昼前、早瀬さんが来た。
自動扉の開く音に顔を上げると、彼は濡れていない黒い上着のまま、図書室の入口に立っていた。右手には古いファイル、左手には冷めた缶コーヒーがある。机へ来ると、彼はファイルの端を二度叩き、私たちの紙の並びを確認した。
「地下の記録を、全部は持ち出していないな」
「写しただけです」
「それでいい」
早瀬さんはファイルを開いた。
「町史保存会の記録を照合した。二十年前の失踪届は、受理後に保留扱いになっている。保留の理由が書かれていない」
「失踪届が保留?」
「通常なら、捜索継続、家出の可能性、事件性なしなど、何らかの区分がつく。だが、この届には区分欄が空白だ」
彼は一枚の複写を机へ置いた。
「担当者の署名もおかしい。同じ人物の署名に見えるが、筆圧が違う。最初の欄は右上がり、後半は水平に流れている。別人が書いた可能性がある」
「代筆ですか」
「可能性はある。断定はしない」
早瀬さんはファイルから別の紙を出した。
「こちらは同じ日付の寄贈帳だ」
そこには、古書の移管記録が並んでいた。寄贈者の欄に桐谷家の名前はない。だが、備考欄に細い文字で〈旧蔵書整理分〉と書かれている。
「澪の名前が、寄贈帳へ回された?」
「名前そのものはない。ただ、失踪届の保留日と、旧蔵書の移管日が同じだ。月舟堂へ移された本の一群と重なる」
「誰が処理したんですか」
「書類だけでは分からない」
早瀬さんは缶コーヒーを机の脇へ置いた。
「だが、処理された順番は分かる。失踪届が保留される。三日後、蔵書が旧家の整理分として移管される。その一週間後、月舟堂の帳簿に売却予定として記載される。澪さんが消えた後ではなく、消える前から本が動かされている」
その言葉を聞いたとき、地下で見た帳簿の切り取られた頁が、記憶の底から浮かんだ。
二十年前の頁だけが、綴じ目を外され、また戻されていた。
「失踪が起きてから、記録を作ったのではない」
私は言った。
「失踪する前から、記録を整えていた」
早瀬さんは頷いた。
「その可能性が高い」
「姉は、何かを見つけたから消されたんでしょうか」
「そこは、まだ事件の動機として扱えない」
「でも、本が先に動いていた」
「本が動いたことと、澪さんが消えたことの因果関係は別だ」
「別にできるんですか」
声が強くなった。
「同じ日付で、同じ場所を通り、同じ帳簿から名前が抜かれているのに、それでも別のことだと言うんですか」
早瀬さんは私の目を見た。感情を受け止めるような表情はしない。ただ、逃げずに見ている。
「別にできるかどうかではない。別かもしれない可能性を残す。捜査でそれを捨てると、最後に残るのは最初から決めた答えだけになる」
「姉を、また見失う」
「見失わないために、決めつけない」
彼はファイルを閉じた。
「桐谷さん。あなたは二十年前、町の沈黙に押されて、姉さんを見失ったと思っている。だが、今また同じことをするなら、今度は自分の怒りに押されることになる。紙の傷を信じるなら、傷が言っている範囲だけを信じろ」
胸の奥に、冷たいものが触れた。
早瀬さんの言葉は正しかった。正しいからこそ痛かった。私は澪を見つけたいという気持ちで、紙片の一つひとつへ姉の影を重ねている。影は薄い。けれど、重ねるたびに輪郭を得てしまう。
「では、何を事件として扱うんですか」
私は訊いた。
「改ざんされた可能性のある記録。現存する帳簿から意図的に頁が抜かれていること。失踪届と寄贈帳の日付が一致していること。月舟堂が廃業後も、定期的に文書を発送していること」
「姉の失踪は?」
「再捜査の対象にする」
早瀬さんは、短く言った。
「ただし、正式に動かすには、月舟堂の記録と町史保存会の帳簿を突き合わせる必要がある。どちらか片方だけでは、古い町の揉め事で終わる」
「二つを、同じ形式に並べればいい」
机の紙を見ていた瀬尾が、初めて会話へ割り込んだ。
「売却リスト、月舟堂の帳簿、寄贈帳。三つとも書式は違いますが、紙の折り方と欄外の線が同じです。そこを基準にすれば、同じ本がどの記録を通ったかを追える」
早瀬さんが瀬尾を見る。
「具体的には?」
「書名ではなく、傷の組み合わせを記号化する。切符はC、蔵書印はI、署名はS、返却記録はR。これを日付と場所へ重ねる。たとえば、Cが旧駅、Iが月舟堂、Rが図書室。ひとつの本の移動ではなく、ひとつの人間の時間が記録を通過した順番が出ます」
「その記号は、帳簿に残っていた」
私は言った。
「地下の売却台帳に、同じ記号がありました」
早瀬さんの指が止まった。
「それを先に言え」
「今、言いました」
「最初に言え」
声は平らだったが、机上の缶コーヒーがわずかに揺れた。
私は地下で見た帳簿の頁を、記憶の限り説明した。書名、価格、記号、日付、場所。早瀬さんは途中で遮らずに聞き、最後に手帳へ箇条書きを作った。
「その記号が、寄贈帳の欄外にもあるか確認する」
「町史保存会へ行くんですか」
「行く。だが、その前に、図書室の旧貸出記録と照合する」
「私も行きます」
「勤務は?」
「閉館後なら」
早瀬さんは時計を見た。
「午後五時に、書庫で合流する。片岡さんにも連絡を取る」
「茉莉さんも?」
「投函経路が必要だ。記録の移動だけでは、人の手が抜け落ちる」
瀬尾が紙箱を閉じた。
「僕も行きます」
早瀬さんは彼を見た。
「修復士として?」
「紙の状態を確認する人間として」
「勝手に触るな」
「触らなければ確認できません」
二人の視線がぶつかった。強い言葉はなかったが、机の上の紙が間に挟まれていることで、どちらも引かなかった。
私は、紙の端を揃えながら言った。
「触る順番を決めておけばいい。撮影、位置の記録、状態の確認。必要なら、触った人間と時刻を残す」
早瀬さんが私を見る。
「あなたが管理するのか」
「私が一番、紙を見分けられます」
「それを自分で言うか」
「言わないと、誰もやりません」
ほんの少しだけ、早瀬さんの口元が動いた。笑ったのか、呆れたのかは分からなかった。
午後、片岡茉莉が図書室へ来た。
彼女は返却棚の前で足を止め、いつものように一冊だけ本を抜き取った。けれど今日は頁を開かず、すぐに私たちの机へ歩いてきた。手には赤鉛筆で点を打った港の地図がある。
「投函地点を、曜日ごとに重ねました」
茉莉は地図を広げた。
「月曜便は、毎回違うポストを使っている。でも、完全にばらばらではありません。投函地点の周囲には、共通するものがある」
「何ですか」
「古い家。新しい郵便受け。人目の少ない角。それから、どの場所も町史保存会の昔の配達区域に入っています」
早瀬さんが地図を覗き込んだ。
「昔の配達区域?」
「郵便局の区分が変わる前の地図です。今は別の区域になっている場所も、二十年前は同じ配達員が回っていました」
「誰が?」
茉莉は一拍置いた。
「名前は、まだ確認できていません。ただ、その人が使っていた配達鞄の記録が残っています」
彼女は鞄から、小さな紙片を取り出した。古い配達区分表の切れ端だった。
「この欄外に、月舟堂の番地が書かれています。正式な配達先ではありません。でも、配達員の私的なメモとして、何度も同じ場所に現れる」
私は紙片へ顔を近づけた。
鉛筆の線は薄く、端が擦れている。番地の横に、二本の短い線があった。
澪が残していた印と、また似ていた。
けれど私は、すぐに断定を退けた。
「この線は、区分の記号かもしれません」
茉莉が私を見る。
「姉さんの癖だと思わないんですか」
「思いたいです。でも、似ているだけなら、似ているだけです」
その言葉を口にすると、胸の内側がひどく冷えた。
茉莉は静かに頷いた。
「そう言えるようになったんですね」
「言えるようになったのではなく、言わないとまた間違えるからです」
「望さんは、間違えることを怖がっています」
「間違えたまま、姉を失ったから」
茉莉の表情がわずかに曇った。
「でも、間違えたことと、見捨てたことは同じではありません」
私は地図から目を上げた。
「同じです」
「違います」
茉莉の声は柔らかかったが、退かなかった。
「見捨てた人は、見つけようとしません。望さんは、二十年経ってからでも、紙の端を捨てずに残している。そういう人を、見捨てた人とは呼べません」
「見つけられなかった」
「見つけられなかったことと、見つけようとしなかったことは違います」
「結果は同じです」
「結果だけで、人の時間を切り分けないでください」
茉莉の言葉が、机の上の紙へ落ちた。
「それをされたら、あなたが今追っている人たちと同じになります。あの人たちは、結果だけを残す。誰かがいなくなった。誰かが本を手放した。誰かが町を出た。その途中にあった迷いも、ためらいも、戻ろうとした手も、全部を記録から落とす。だから、きれいな歴史ができる」
彼女は地図の赤い点を、指先で一つずつ押さえた。
「私は、郵便が届くまでの道を覚えています。途中で雨が降ったことも、配達先の犬が吠えたことも、受け取った人が一度だけ息を止めたことも。正式な記録には残らなくても、そこにあったことは消えません。望さんが澪さんを見つけられなかった時間にも、何かがあったはずです。そこまで自分で消さなくていい」
私は返事をしなかった。
窓の外で、海風が街路樹を揺らしている。葉の裏が一斉に白く返り、また元の色へ戻った。記憶も同じように、見える面を変えながら残るのかもしれない。
閉館後、私たちは旧貸出記録を机へ並べた。
五年前のもの、十年前のもの、二十年前のもの。図書室の貸出票は、年代ごとに紙質が違う。古いものほど黄ばんでいるが、澪の名前が書かれたカードだけは、妙に乾いていた。
私は詩集の貸出票を取り出した。
澪の貸出日。空白の返却日。二重に押された赤い印。
その上に、月舟堂のリストから写した記号を重ねる。
C。I。R。
旧駅の切符。澪の蔵書印。返却記録。
三つを線で結ぶと、貸出日から失踪三日前までの動きが、一本の細い経路になった。
旧駅。
図書室。
月舟堂。
そして、寄贈帳に記された「旧蔵書整理分」。
早瀬さんが、低い声で言った。
「この本は、返却されていない」
「でも、印は返却済みです」
「返却されたことにされた」
瀬尾はカードの端を指で撫でた。
「印を押したあと、紙を乾かしてから上に別の印を重ねている。最初の印は、返却日を隠すためではなく、返却されたように見せるためです」
「本はどこへ行ったんですか」
「月舟堂へ移された可能性がある」
「そして、そこから誰かの蔵書として売却された」
「あるいは、売却されたことにされた」
私は目の前のカードを見つめた。
本の移動も、失踪も、同じ言葉で処理されている。
返却。
寄贈。
移管。
保留。
どれも、起きたことを説明する言葉ではなく、起きたことを閉じるための蓋だった。
「記録を作った人間は、本を移動させたんじゃない」
私は言った。
「人が本を持っていたという事実を、別の所有者へ移した」
早瀬さんが頷く。
「所有権の移動は、責任の移動でもある」
瀬尾が続けた。
「名前を剥がせば、本は誰のものでもなくなる。そこへ新しい印を押せば、別の人間のものになる。傷だけが、元の持ち主を覚えている」
そのとき、入口の郵便受けから音がした。
誰もいないはずの閉館後の図書室に、紙が落ちる音が響いた。
ぱさり、と乾いた音だった。
茉莉が先に立ち上がった。入口へ歩き、郵便受けから茶封筒を取り出す。私のところへ戻るまで、封筒の角を一度、親指で確かめていた。
「月曜ではないですね」
「今日は火曜です」
「それでも届きました」
封筒の宛名は、いつものように町立図書室だけだった。差出人欄は空白。封の糊は不自然に白く、腹は何度も扱われたように柔らかい。
私は封を切った。
中から出てきたのは、蔵書売却リストではなかった。
焦げ跡のある赤茶色の栞。
布の繊維が一部ほつれ、端に細い黒い線が残っている。瀬尾がそれを見た瞬間、呼吸を止めた。
彼は手を伸ばさず、栞の端だけを見ていた。
「それは、あなたの献呈本のものですか」
私は訊いた。
瀬尾はしばらく答えなかった。
「同じ繊維です」
「同じ本に挟まっていた?」
「違います」
彼の声が、かすかに揺れた。
「これは、僕が探していた栞です。都市の工房で修復を断った、あの献呈本に挟まっていた。焼けたあと、誰かが持ち出したと思っていた」
「なぜ、ここに?」
「分かりません」
「月舟堂から届いた?」
「差出人はありません」
「それは答えになっていない」
私は茉莉の言葉を借りた。
瀬尾は栞を見つめたまま、長い沈黙のあとで言った。
「この栞は、献呈本の頁に挟まっていたものではない。焼け跡の中で、本から外れていた。誰かが本を開き、栞だけを抜き、別の帳簿へ移した。その後、栞の繊維が紙へ付着した」
「誰かが、栞を記録の印にした」
「あるいは、記録そのものにした」
瀬尾はようやく栞へ触れた。指先で布の端を押さえ、黒い線を確認する。
「この線は、僕がつけたものではありません。鉛筆で、ページの分類を示すために引かれている。澪さんが使っていた線と同じ規則です」
私は喉の奥が乾くのを感じた。
「姉が、この本を見ていた?」
「可能性はあります」
「また、可能性ですか」
「それ以外に言いようがない」
「あなたは、姉の手つきを知っていると言った」
「紙に残った手つきを知っているだけです」
瀬尾は栞を布の上へ戻した。
「けれど、誰かがこの栞をあなたのところへ送った。僕が探していた本と、あなたが追っている失踪が、同じ場所を通っている。それは事実です」
早瀬さんが封筒を撮影した。茉莉は消印を光へ透かしている。
私は栞の焦げ跡を見ていた。
失踪したのは、澪だけではない。
本も、名前も、切符も、誰かの記憶も、同じ手つきで抜き取られている。残ったものは別の帳簿へ移され、持ち主を失ったまま、売却や寄贈や保全という言葉を与えられる。
それでも、完全には消えない。
消された跡、剥がされた繊維、重ね押しされた印。抜き取られたものの形が、紙の上に残る。
瀬尾は栞を見つめたまま、初めて自分から長く話した。
「本を直す仕事をしていると、いつか、傷を消してほしいと言われるようになります。焼け跡を隠せ。前の持ち主の名を見えなくしろ。別の人間の棚に並べても、誰も疑わないようにしろ。最初は、それが修復だと思っていました。持ち主が変わるなら、見た目も変える。古書の世界では、そういう処置を必要とすることがあるからです」
彼は、栞の焦げた端を見た。
「でも、傷を消した本は、誰の時間を生きたのか分からなくなる。きれいになった代わりに、嘘をつく。本は黙っているから、嘘をつかないと思っていた。違いました。人間が紙へ手を入れれば、本も人間の都合を語る」
「だから、追っているんですか」
「僕が手を入れた本が、誰かの記憶を消すために使われたからです」
瀬尾は私を見た。
「あなたの姉も、同じように扱われたのかもしれない。声を消し、名前を外し、別の棚へ移す。生きているか死んでいるかではなく、記録の上で所有者不明にする」
早瀬さんが封筒を机へ置いた。
「その話は、推測として記録する」
「推測で構いません」
私は言った。
「今まで、推測にすらされなかったことを、推測として残したい」
早瀬さんは私を見た。
「明日、町史保存会へ行く」
「久我原さんのところへ?」
「寄贈帳と旧家の蔵書目録を確認する」
「断られたら?」
「断られた事実を記録する」
茉莉が地図を畳みながら、静かに言った。
「久我原家の裏手へ続く道を、もう一度確認できます。古い搬入口の前に、郵便受けのような箱があるんです。人の家へ配るものではなく、家の中から外へ出すための箱に見えました」
私は彼女を見た。
「なぜ、今まで言わなかったんですか」
「確かめていなかったからです」
「今は?」
「今日、帰りに寄ります。雨が降る前に」
「一人で?」
「一人の方が、見られにくいので」
早瀬さんがすぐに首を振った。
「単独では行かせない」
「私は配達員です。裏口の場所を見るだけなら――」
「見るだけで済まない可能性がある」
早瀬さんの声は低かった。
「町の記録を管理してきた人間は、紙だけでなく、人の動きも見ている。ここまでの話が本当なら、月曜便を追う者が現れたことにも気づいている」
その言葉のあと、図書室は静かになった。
窓の外では、雨の前の風が電線を鳴らしている。栞の焦げ跡が、机上の白い布の上で小さく浮いていた。
私はその布片を封筒へ戻した。
紙の上に残ったものを、もう一度、誰かの都合で動かさないために。今度は自分の手で、順番を記録する。
栞。
封筒。
消印。
繊維。
黒い線。
その横へ、私は新しい一行を書いた。
〈献呈本との繊維一致。発信源との関係は未確定〉
書き終えたとき、筆先が紙の端で止まった。
未確定。
その言葉は冷たく、遠い。けれど、そこには確かに、これまでの私にはなかった余白があった。
姉であってほしいという願いと、姉であると決めることの間に、細い紙一枚分の距離を置く。
その距離を保ったまま、私は次の記録へ進まなければならない。
図書室の照明を落とす前、私は栞の入っていた封筒を手帳へ挟んだ。
紙と紙が触れ合い、乾いた音を立てる。
それは誰かの歩く音にも、遠ざかる船の音にも聞こえた。 港の向こうでは、雨雲がゆっくりと倉庫街へ寄っていた。私たちは窓を閉め、町史保存会へ持っていく帳簿の写しを、背の順ではなく、傷の順に揃えた。
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