10話 九月二十一日の夜

紙片には、日付の下に小さな丸が三つ並んでいた。

印なのか、書き損じなのか分からない。紙は黄ばんでいるのに、その三つの丸だけは濡れたように黒かった。指で触れると、表面がわずかに膨らんでいる。墨が乾く前に折られた紙のようだった。

母は私の手元を見ていた。

「それ、どこで」

「村上さんが置いていった」

「見せて」

私は紙を渡さなかった。

「この日付に何があった」

母はすぐには答えなかった。台所の蛇口から細く水が流れている。水は透明だったが、排水口の奥から鉄の匂いが上がっていた。

「母さん」

「その紙、裏は見た?」

私は裏返した。

何も書かれていない。そう思った直後、紙の中央に薄い筋が浮かんでいることに気づいた。折り目ではない。細い線が三本、縦に並び、その下に、さらに短い線が二本続いていた。

数字のようにも、指の跡のようにも見えた。

「それは、印?」

「戸の数よ」

「戸?」

「その夜、開いた戸の数」

母は蛇口を閉めた。

水音が途切れたことで、家の中の空気が急に厚くなった。遠くで柱が鳴る。乾いた音ではない。濡れた木を内側から押し広げるような、低い軋みだった。

「九月二十一日の夜、何があった」

「あなたの父親が倒れた夜よ」

「それはさっき聞いた」

「倒れたのは、病院でじゃない。ここで」

母は濡れた手を布巾で拭いた。拭いたあとも、指を何度も擦り合わせている。

「夕方から、父親はずっと庭を見ていた。井戸の方を。何か見えるのか訊いても答えなかった。ただ、誰かが来る、と言った」

「誰が来るって?」

「それも聞いた。でも、父親は名前を言わなかった。言えなかったのかもしれない。夜になって、玄関の外で声がした」

「呼び声?」

「あなたの声だった」

喉の奥が冷えた。

「俺は病院にいたんだろ」

「そうよ。だから返事をするなと、しのさんに止められた。でも父親は返事をした」

母の視線が、仏間の方へ流れた。

「何て?」

「おかえり、と」

その言葉は、家の中に置かれたまま動かなかった。

「誰に向かって?」

「分からない。父親は玄関を開けようとした。しのさんが止めたけれど、あの人の手を振り払って、鍵を外した。外には誰もいなかった。ただ、雨が降っていないのに、敷居の外だけが濡れていた」

「それで?」

「父親は、外に向かってもう一度言った。おかえり、と。今度は、外から声が返ってきた」

母はそこで黙った。

「何て返った」

「ただいま」

台所の壁の向こうで、何かが擦れた。

私は紙片を握りしめた。三つの丸が指の腹へ食い込む。紙は乾いているのに、手の中でぬめった。

「そのあと、父親は倒れた?」

「倒れたというより、座り込んだ。玄関の外を見たまま、急に自分の名前を忘れた」

「名前を?」

「私が呼んでも、しのさんが呼んでも、振り向かなかった。なのに、外から声がすると、そちらだけを見た」

「何を言われた」

「何も。声はしなかった。ただ、戸口に濡れた足跡が増えていった」

母は湯呑みを一つ取り出し、卓の端へ置いた。誰も飲まないのに、茶を注ごうとした。急須を持ち上げたところで手が止まり、元の場所へ戻す。

「しのさんは、父親の名前を書かなかった」

「日記に?」

「どこにも。名前を呼ばない。書かない。覚えていても、家の中では使わない。それから十年、あの人は父親のことを一度も名前で呼ばなかった」

「それで、毎晩『今夜も来た』とだけ」

「来たものが何なのかを書くと、それを家の中へ置くことになるから」

説明を聞いているはずなのに、言葉が一つずつ、別の形へ変わっていく。記録は記録ではない。祖母は毎晩、何かを呼び込まないために、ぎりぎりの言葉だけを選んでいた。

私は紙片をもう一度見た。

「この三つの丸は、戸の数だと言ったな」

「そう」

「三つの戸が開いた?」

「玄関と、仏間と、井戸の蓋」

「井戸の蓋は戸じゃない」

「しのさんは、戸だと言っていた」

「どうして」

「向こうとこちらを分けるものだから」

母の声が、急に遠く聞こえた。

そのとき、仏間から紙をめくる音がした。

一枚。

続いて、もう一枚。

私は立ち上がった。

「行かないで」

「日記を見てくる」

「玲司」

「まだ昼だ」

「昼でも、開いた戸は閉じていないことがある」

私は仏間の前で止まった。襖は、昨夜よりも広く開いている。向こう側の畳に、濡れた跡が続いていた。庭から入ってきた形ではない。仏壇の前から、こちらへ向かっている。

経机の上に、日記が置かれていた。

鞄に入れたはずだった。

革表紙は湿り、縁から黒い水が畳へ染みている。私は膝をつき、手を伸ばしかけた。

母が背後で息を呑んだ。

「触らないで」

「最後の頁を確認するだけだ」

「確認したら、そこに残る」

「もう残っている」

日記の最後の頁が、風もないのにめくれた。

前夜の一行の下に、文字が増えていた。

祖母の筆跡ではなかった。

私の字に似ていた。

だが、書き始めの角度が少し違う。私なら右へ流す線が、内側へ沈んでいる。誰かが私の手を覚え、真似をしているようだった。

そこには、こう書かれていた。

今夜も来た。

その下には、まだ空白がある。

私は息を止めた。

空白の中央に、鉛筆の先で押したような小さな凹みが三つ並んでいた。

丸ではない。

指先で、紙の裏側から押された跡だった。

母が私の腕を掴む。

「閉じて」

「誰が書いた」

「閉じて!」

私は日記を閉じた。

革表紙の内側で、何かが一度だけ爪を立てた。

ぱき、と乾いた音がした。

仏間の奥で、三つ目の戸が開く音がした。

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九月二十一日の夜 - 井戸の返事 - 誰でも作家life