10話 風の向き

次の練習試合の日、俺はいつもより少し早く家を出た。

朝の空気には、まだ夏の湿り気が残っている。けれど、駅前の街路樹の下を通ると、風だけが先に秋へ向かっていた。首筋を撫でていく冷たさに、俺は無意識に手を当てた。

鞄の中には、部室の合鍵と練習ノート、それから白いタオルを入れていた。

タオルはもう洗ってある。右下の汚れは薄い影になり、洗剤の匂いもほとんど抜けていた。触れば、前より軽い。けれど、何度も畳み直したせいか、布の中央には新しい折り目が残っていた。

白嶺高校へ着くと、グラウンドでは後輩たちがボールを運んでいた。

試合前の慌ただしさは、引退する前と変わらない。誰かがテープを探し、誰かがビブスの枚数を数え、誰かが水筒を忘れたと言って倉庫へ走っていく。

「元部長、遅い」

悠真が、ベンチの端から声をかけてきた。

「約束の時間には来てる」

「それは遅刻してないだけ。観戦者としては、もう少し颯爽と現れてほしかったね」

「観戦者って言うな」

「じゃあ、部外者」

「もっと悪い」

悠真は笑いながら、隣の場所を空けた。俺はそこへ座った。木のベンチは朝露を吸っていて、制服のズボン越しにも少し冷たかった。

グラウンドの中央では、一年生の小田がボールを蹴っている。昨日までなら、試合前の動きを見て、足の置き方や身体の向きを指摘していた。今日も喉まで言葉が上がった。

けれど、飲み込んだ。

小田は二度、パスを受け損ねた。三度目には相手の足元へボールを渡してしまい、味方の守備が慌てて戻る。北川先生の笛が鳴った。

「止めるな。続けろ」

先生はそう言っただけだった。

小田は俯いたまま、元の位置へ戻る。耳まで赤くなっている。俺は立ち上がりかけた。何か言わなければと思った。あのままでは、次のプレーにも引きずる。

「行かないの」

悠真が隣で言った。

「行ったほうがいいかもしれない」

「かもね」

「でも、俺が言うことじゃない」

「そうかもね」

「お前、どっちなんだよ」

「俺はいつだって曖昧な側に立つ主義」

悠真はそう言って、グラウンドを見た。

小田が顔を上げた。近くにいた二年生が、短く何かを伝えている。小田は一度頷き、今度は自分から相手の前へ出た。ボールはまだぎこちなく足元から離れたが、先ほどより一歩だけ早く動けていた。

俺は腰を下ろした。

「言わなくても、見てるやつはいるんだな」

「言ったら見えなくなるものもある」

「北川先生みたいなこと言うな」

「俺は先生より三割くらい浅いよ」

「自覚はあるんだな」

「そこが俺の強み」

笑いかけたところで、グラウンドの外から自転車のブレーキ音が聞こえた。

校門のそばに、青波学院の制服が見えた。

瀬尾だった。

自転車を降り、鍵をかける。前に来たときと同じように、まず校門へ向かって一礼した。俺は立ち上がった。

瀬尾は俺を見つけると、すぐに会釈した。

「おはようございます」

「おはよう」

「今日は試合ですか」

「後輩の練習試合。見に来ただけ」

「そうですか」

瀬尾はグラウンドへ目を向けた。白嶺の部員たちは、青波学院の制服に気づき始めている。以前のような張りつめ方はない。ただ、何人かの動きが少しだけ硬くなった。

「瀬尾は?」

「今日は練習が午後からなので、その前に寄りました」

「わざわざ?」

瀬尾は、少し考えるように瞬きをした。

「近くを通ったので」

「青波学院、ここから結構あるだろ」

「自転車なら、そうでもありません」

それが瀬尾なりの答えなのだろう。俺は、それ以上聞かなかった。

瀬尾の視線が、俺の鞄へ落ちる。

「タオル、持ってきたんですか」

「うん。返してもらったから」

「使っていますか」

「まだ」

「そうですか」

瀬尾は残念そうでもなく、安心したようでもなかった。ただ、白いタオルのことを一つの物として確かめた。

「俺は、あれを洗った」

「はい」

「土が少し残った」

「土は、落ちにくいです」

「そうだな」

会話が途切れた。

グラウンドでは、試合が始まっていた。後輩たちの声が飛び交い、ボールを蹴る音が乾いた土の上で弾んでいる。小田がまたパスを受けた。今度は足元へきちんと収め、左へ出した。

そのボールを受けた二年生が、相手の裏へ走り込む。

「今の、よかったですね」

瀬尾が言った。

「うん」

「失敗したあとに、もう一度触れるのは難しいです」

俺は瀬尾を見た。

「お前も、そういうことあるのか」

「あります。たくさん」

「勝つ側でも?」

瀬尾は、少しだけ眉を動かした。

「勝つ側でも、失敗はします。試合に勝ったかどうかと、失敗しなかったかどうかは、別なので」

その言葉を聞いて、胸の奥に残っていたものが、少しだけ位置を変えた。

俺は負けた試合を、失敗の集まりとして見ていた。失点も、遅れた一歩も、置き忘れたタオルも、全部が自分の足りなさを証明するものだと思っていた。

けれど、試合の中には、失敗したあとにもう一度触れた瞬間もあった。声が届かなかったあと、それでも走った誰かがいた。崩れた守備を戻そうとした足があった。

勝敗は、それらを全部消してしまうほど大きいものではないのかもしれない。

「瀬尾」

「はい」

「タオル、返しに来てくれて、ありがとう」

今度は、言いそびれなかった。

瀬尾は姿勢を整えた。いつものように、両手を身体の前で揃える。

「こちらこそ、受け取っていただいて、ありがとうございました」

「受け取るのに、礼なんかいるか」

「返すだけでは、返したことにならないので」

「それ、どういう意味だ」

「相手が受け取ってくれないと、返したものが行き場をなくすので」

瀬尾はグラウンドへ目を戻した。

「だから、受け取ってもらえてよかったです」

返事をしようとして、やめた。

白いタオルは、鞄の中にある。汚れは薄くなった。折り目は残っている。俺が持っている限り、あれはもう、ベンチに置き忘れたものではない。

試合の外で拾われ、返され、受け取ったものだ。

北川先生の笛が鳴った。

小田がまたボールを追い、今度は相手の足元へ身体を入れた。倒れなかった。奪ったボールを、近くの味方へ渡す。

悠真が小さく拍手した。

「今のは、元部長の指導の賜物ってことで」

「俺、何も言ってない」

「だから賜物なんだよ。無言の指導」

「都合よく使うな」

瀬尾が、ほんの少し笑った。

その笑いを見て、俺も笑った。

グラウンドには、まだ昨日までの匂いが残っている。土と汗と、乾きかけた草の匂い。けれど、そこへ新しい声が重なっていた。

俺はベンチから立ち上がった。

「何するの」

悠真が聞く。

「水、足りてるか見てくる」

「観戦者じゃなかったのか」

「今日は、手伝うだけ」

俺はグラウンド脇の水道へ向かった。

背中に、朝の風が当たる。洗われた白いタオルのように、何かがきれいになったわけではない。ただ、残った汚れを抱えたままでも、次の場所へ動ける。

蛇口をひねる。

水音が、土の上へ落ちた。

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風の向き - 返却線 - 誰でも作家life