10話 返された声

朝、縁側の板に足跡はなかった。

昨夜まで、濡れた裸足と草履の跡が、庭から縁側へ、縁側から仏間の方へ続いていた。今朝はそれがきれいに消えている。板は乾いていて、木目の間に入り込んだ黒ずみだけが、そこに何かがあったことを示していた。

僕はしゃがみこみ、指先で板をなぞった。冷たくはなかった。むしろ、長く人の手に触れられていたような、妙な温もりが残っていた。

「本当に、もう聞こえないのね」

背後で母が言った。

振り返ると、芽衣は縁側の手前に立っていた。朝食の支度を終えたばかりらしく、エプロンの端に水滴がついている。いつもなら、床に落ちた葉を見つけるだけで箒を取りに行く人なのに、今朝は何も拾おうとしなかった。

「足音は、聞こえない」

僕は言った。

「でも、終わったとは思えない」

母は返事をしなかった。代わりに、手にしていた湯呑みを僕の脇へ置いた。薄い番茶から、ほとんど匂いのない湯気が上がっている。

そこへ車の音が近づいた。

恒一だった。車を庭先に止め、降りてくるなり、縁側を見た。彼は板の上に足跡がないことを確かめると、ポケットから携帯電話を取り出した。

「解体業者には、延期を伝えた」

「延期だけ?」

「中止ではない」

言い方はいつもの恒一だった。だが鍵束に触れる指だけが、落ち着きなく動いている。

「叔父さんは、もう家を壊せないと思ってるんじゃないの」

「壊す必要がなくなったとは言っていない」

「必要って何」

恒一は答える前に、仏間の方を見た。

「音が止まったからといって、境目がなくなったわけじゃない。むしろ、聞こえなくなった方が厄介なこともある」

その言葉を聞いたとき、玄関の戸が開いた。

神崎トメが立っていた。杖を使わず、片手に小さな布包みを持っている。家の中へ入る前に、彼女は敷居の手前で足を止めた。何かを数えるように、庭、縁側、仏間の順に視線を動かす。

「しげの音は?」

「昨夜、止まりました」

僕が答えると、トメは僕の顔ではなく、首元の守り袋を見た。

「止めたのか」

「もう歩かなくていいと、言いました」

「言っただけかい」

乾いた声だった。

僕は答えられなかった。声にならない言葉だった。そう思っていた。けれど、あのとき確かに、口は動いていた。

トメは布包みを縁側に置いた。ほどくと、中から古い写真が出てきた。写真の端は湿気で波打ち、三十年前の夏の光景が、薄い灰色の中に閉じ込められている。

庭の柿の木。縁側。仏間の前に立つ祖母。

そして、祖母の腕に抱かれた幼い僕。

僕は写真を受け取った。今まで見た記憶のない写真だった。祖母は正面を向いていない。庭の奥、柿の木のさらに向こうを見ている。僕の顔は祖母の胸に押しつけられ、片方の手だけが外へ伸びていた。

その指先に、小さな鈴が握られている。

「これを撮ったのは誰ですか」

「しげだよ」

トメは言った。

「写真機を三脚に据えて、時間をかけて撮った。あの夜の前の日だ」

「祖母が?」

「自分が写る必要があったんだろう。おまえに何を渡したか、あとで分かるように」

写真の裏側には、祖母の字があった。

透が呼んだら、返すこと。  返したら、戸を閉めること。

僕の指が震えた。

「僕は昨夜、祖母に返事をした。だから、戸を閉めなければならなかったんですか」

トメはしばらく黙っていた。

「戸は、誰が閉める」

「僕が」

「違う」

その一言が、家の中に落ちた。

「返事をした者が閉めるんじゃない。返事を受けた者が閉めるんだよ」

母が息を呑んだ。恒一の手から鍵束が滑り、畳の上で乾いた音を立てた。

「しげが、返事を受けた?」

僕が尋ねると、トメは写真の中の祖母を見た。

「おまえが呼んだんだ。あの夜も、昨夜も」

僕の喉が急に狭くなった。

「僕は、呼んでいない」

「呼んださ。声に出していなくてもね。帰ってきてくれ、と。なぜ置いていった、と。ずっと胸の中で呼んでいた」

違う、と言いかけた。

けれど否定の言葉は、口の中で形を失った。祖母の足音を追い続けたのは、確かめたかったからだけではない。消えた人が、まだどこかにいると信じたかったからだ。返事がほしかった。僕の知らないところで、祖母が歩き続けているのなら、僕もまだ、あの夜から出ていないでいられると思っていた。

トメは写真を裏返した。

「戸を閉める時刻は、夕暮れだ。夜になってからでは遅い」

外では、昼の蝉が鳴き始めていた。濃い緑の向こうで、盆地の空気がゆっくりと熱を帯びていく。

「今日は、夕方に戸を閉める」

恒一が言った。

「四人でやる」

母が彼を見る。何か言いたそうに唇を動かしたが、声にはしなかった。

僕は写真を握りしめた。紙の裏側から、かすかな白粉の匂いがした。

その匂いの奥で、鈴が鳴った。

手の中にある守り袋は動いていない。

仏間の方からでもない。

音は、写真の中の幼い僕の口元から聞こえた。

かすかで、頼りなく、けれど確かに僕自身の声だった。

「おばあちゃん」

母がこちらを振り向いた。

「透、今、何て言ったの」

僕は答えなかった。

縁側の奥、誰もいないはずの仏間で、障子がゆっくりと開いた。光のない室内に、濡れた板の匂いが流れ込んでくる。

そして今度は、祖母の足音ではなく、幼い僕の裸足が、家の奥からこちらへ近づいてきた。

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返された声 - 音の継承 - 誰でも作家life