10話 半分の夜を越えて

家に着くと、玄関の灯りがついていた。

まだ外は完全に暗くなっていない。空の端には、昼の名残みたいな灰色が薄く残っている。それでも、門を開けたときの冷たい空気には夜の匂いが混じっていた。

靴を脱ぐと、台所から味噌汁の湯気が流れてきた。

「おかえり」

母の声がした。

「ただいま」

返事は、昨日より少しだけ早く出た。

母はコンロの前に立っていた。鍋の蓋を開け、菜箸で中身をかき混ぜている。私の顔を見たのは一瞬だけだった。大会の結果も、練習の具合も聞かない。代わりに、鍋から椀へ汁を注ぎ、食卓の端へ置いた。

「今日は魚、温め直したから。固かったら言って」

「うん」

鞄を下ろす。

内ポケットの中で、プラスチックスプーンが小さく鳴った。

母の視線が、私の手元へ落ちる。

「何か入ってるの?」

「スプーン」

「スプーン?」

「蓮にもらった」

言ってから、しまったと思った。

母はすぐに理由を聞かなかった。ただ、炊飯器の蓋を開け、茶碗にご飯をよそう。湯気が上がり、白い粒の向こうで母の顔が少しぼやけた。

「プリンでも食べたの?」

「うん。昨日」

「そう」

母はそれだけ言った。

何も聞かれないと、かえって自分から話したくなることがある。私は鞄からスプーンを取り出し、食卓の端へ置いた。透明な柄が、照明の下で細く光る。

「負けたあとに、半分こしたの」

母の手が止まった。

けれど、驚いた顔はしなかった。

「プリンを?」

「うん」

「蓮くんと?」

「うん」

「半分こって、どうやって?」

私は少し考えた。

「普通に。スプーンで」

母は小さく笑った。

「そう」

その笑い方には、からかう感じがなかった。私が話し終えるまで待つための、短い呼吸のようだった。

私は椅子に座り、味噌汁へ手を伸ばした。椀の熱が掌へ伝わる。口に含むと、出汁の味がゆっくり広がった。昨日はほとんど噛めなかった魚も、今日は少しずつ味がわかった。

「悔しかった」

箸を動かしながら、私は言った。

「うん」

「今も悔しい」

「うん」

「最後の球、取れたかもしれない。取れなかったかもしれない。でも、何回考えても、あそこで足が止まったことだけは変わらなくて」

母は向かい側に座った。自分の茶碗にはまだ手をつけず、私の話を聞いている。

「私、負けると、負けたことじゃなくて、自分が足りない証拠みたいに思う。練習しても、次に頑張っても、肝心なところで止まる人間なんだって。そう思ったら、誰かに見られるのが嫌になる。役に立たないって思われる前に、こっちから黙っていたほうがいいって」

喉が痛くなった。

それでも、言葉を止めなかった。

「でも昨日、蓮が何も言わずに隣にいてくれて。今日、ゆかも一緒に練習してくれて。先生が床を拭けって言ってくれて。みんな、私の負けを消そうとはしなかった」

母は湯飲みを両手で包んだ。

「消さなくても、食べられるものね」

その言葉に、私は顔を上げた。

母は味噌汁の椀を見ていた。

「つらいことは、なくならないままでも、ご飯は食べられるし、眠れる日も来る。そういう日が積み重なると、少しだけ置く場所が変わるのよ」

母の言葉は、白線の上に足を置く感覚に似ていた。

負けを消すのではなく、置く場所を変える。

私はご飯を一口食べた。今度は、ちゃんと噛んだ。

「明日も練習に行く」

「そう」

「まだ、行くのは怖いけど」

「怖いまま行けばいいんじゃない」

母はそう言って、魚の皿を私の近くへ少し押した。

翌日の放課後、体育館には昨日と同じ音が戻っていた。

シャトルを打つ音。シューズが床を擦る音。誰かの掛け声。窓から差し込む光は、昨日より明るい。けれど、私の中にあるものまで明るくなったわけではなかった。

基礎打ちのあと、私はゆかへ声をかけた。

「昨日のこと、もう一つ言っていい?」

「うん」

「私、ゆかに迷惑をかけたと思ってた」

ゆかのラケットが止まる。

「最後、私のせいで崩れたって」

「私も、自分のせいだと思ってた」

「でも、ひとりのせいじゃないよね」

「うん」

ゆかはシャトルを指先で回した。

「ダブルスって、失敗を分ける競技じゃないのにね。結衣がミスしたら結衣の分、私がミスしたら私の分って、勝手に分けたくなる」

「分けられない?」

「分けられると思う。でも、半分ずつにして軽くするんじゃなくて、二人分として持つ感じ」

私はその言葉を聞きながら、蓮のプリンを思い出した。

半分にしたから、痛みが半分になったわけではない。苦さも、悔しさも、なくなったわけではなかった。ただ、同じものを口にした人が隣にいた。

「それ、蓮も似たようなこと言ってた」

「松永が?」

「言い方は悪かったけど」

「いつもじゃん」

ゆかが笑う。

その笑いに、昨日までの無理な明るさはなかった。重さを消さずに、少しだけ呼吸するための笑いだった。

練習の終わり、蓮がラケットケースを肩に掛けた。

「帰るぞ」

「命令?」

「置いてくぞ」

「先に行けば」

「嫌だ」

蓮は言ってから、しまったという顔をした。

私は思わず笑った。

「今の、珍しい」

「何が」

「嫌だって言った」

「うるさい」

校門を出ると、駅前の空は薄紫色だった。歩道橋の上では、自動販売機が昨日と同じように白く光っている。蓮は缶茶を二本買った。ボタンを押す音が、夜の始まりを知らせる。

「プリンは?」

私が聞くと、蓮はコンビニの方を見た。

「今日は一個ずつ」

「半分こじゃないんだ」

「今日は今日だって言っただろ」

「じゃあ、また負けたら?」

蓮は缶茶を私へ渡した。

「そのとき考える」

「ずるい」

「考える余地を残してるだけだ」

MINI MARTの白い光の中へ入る。棚には、とろけるカスタードプリンが二つ残っていた。

蓮が一つを手に取る。

私も、もう一つを取った。

レジへ向かう前、蓮がこちらを見る。

「次は、勝って食う」

「うん」

「でも、負けても食う」

私は少しだけ息を止めた。

蓮はもう棚を見ていた。自分が何を言ったのか、確かめるつもりもないようだった。

私はプリンを胸の前で持った。冷たさが、掌からゆっくり染みてくる。

負けはまだ、私の中にある。

最後の一球も、止まった足も、これから何度も思い出すだろう。それでも、思い出すたびにひとりで沈む必要はない。隣には、同じ味を知っている人がいる。床を一緒に拭いた人がいる。帰れば、湯気の立つ食卓がある。

歩道橋を渡る。

夜の半分は、まだ明るかった。

私はプリンの蓋を、端からゆっくり剥がした。薄い膜が音を立て、甘い匂いが指先へ触れる。

スプーンは、もう一つだけではない。

私のバッグの中には、蓮から渡された透明な柄が残っている。

今日は一人分を、一人で食べる。

それでも、負けた夜の続きを、誰かと歩いている。

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