10話 空白を空白のまま

朝の開館を遅らせることはなかった。

受付の機械はいつもどおり起動し、入口の自動扉が低い音を立てて開いた。外から入ってきた冷たい空気が、夜のあいだ閉じていた閲覧室へ流れ込む。紙と埃の匂いに、濡れた舗道の匂いが混じった。

地下書庫から運び出した資料は、第三閲覧室の机に並べられていた。

原本台帳、複製台帳、十七年前の当直記録、切り取られたメモ帳。どれも透明な袋へ収められ、黒瀬さんが書いた番号札が添えられている。久我さんは、その机の向かいに座っていた。

椅子に座ることに慣れていないようだった。

背中を預けず、膝の上へ両手を置き、いつでも立てる姿勢を保っている。地下で十七年を過ごした人間が、明るい閲覧室でどう身体を置けばいいのか分からないのだろう。

白石さんが、彼の前へ水を置いた。

「飲めますか」

久我さんはグラスを見た。

「記録には残るか」

「水を飲んだことまでは、残しません」

「なら、飲む」

彼はグラスを両手で包んだ。水面がかすかに揺れた。

私は少し離れた書架の前に立っていた。『北辺歳時記』は、昨夜と同じ場所にある。背表紙の下端に残った傷も、そのままだ。私は何度も視線を向けてしまう。傷を消さないことが正しいと決めたのに、棚全体の高さが一枚ぶん乱れていることが、まだ身体に引っかかっていた。

「整えないのね」

藤堂さんが隣に立った。

「はい」

「気になるでしょう」

「気になります」

「それでも?」

私は本の背を見た。

「気になるから、残します」

藤堂さんは、短く息を吐いた。笑ったのかもしれないが、横顔からは分からなかった。

午前九時を過ぎたころ、相良静馬が来た。

入口で職員に声をかけ、案内も求めず、まっすぐ第三閲覧室へ歩いてくる。退職して何年も経つのに、館内の動線を忘れていない。紺色の上着に皺はなく、片手には細長い革の鞄を持っていた。

彼は机の上の資料を見て、最初に紙の角を揃えた。

その動作を、私は見逃さなかった。

原本台帳の角。複製台帳の角。封筒の角。すべてを同じ位置へ押し戻す。けれど、久我さんの名が残ったメモ帳だけには触れなかった。

黒瀬さんが椅子を示した。

「相良さん。座ってください」

「ここで結構です。資料を拝見しても?」

「まず、鞄の中を確認します」

相良さんは穏やかに微笑んだ。

「私は任意で来ています」

「こちらも任意で確認します」

黒瀬さんが手を差し出す。相良さんは少し間を置いてから、革の鞄を机へ置いた。

中には、古い館長印の入れ物、書類の束、それから薄い紙箱が入っていた。

紙箱の蓋を開けると、折り畳まれた一枚の台帳頁が出てきた。

私は見た瞬間、息を止めた。

原本台帳の欠落頁だった。

端が不自然に切り取られている。久我さんの名前が記されていたはずの位置だけ、鋭い刃物で抜かれていた。

「なぜ、それを持っているんですか」

私が尋ねると、相良さんは私を見た。

「返すためです」

「十七年後に?」

「返す時期を、誤りました」

「誤ったのは時期だけですか」

相良さんの指が、紙箱の縁で止まった。

黒瀬さんが頁を袋へ入れる。

「この頁を切り取ったのは、あなたですか」

「私です」

久我さんが顔を上げた。

相良さんは彼を見た。二人の間に、十七年分の地下の空気が流れたように感じた。

「あなたを消すためではありません」

「結果は同じだ」

「当時は、そうするしかなかった」

「その言葉を、何度聞いたと思う」

久我さんの声は静かだった。

「相良さんは、館を守るためだと言った。藤堂さんは、職員を守るためだと言った。白石さんは、事故を広げないためだと言った。全員が何かを守った。そのたびに、私だけが地下に残った」

相良さんは反論しなかった。

代わりに、机上の書類を一枚持ち上げ、角を揃えた。

「私は、記録が一度崩れれば、図書館そのものが失われると思っていました。蔵書数の不一致、補助金の報告、事故の責任。すべてを明るみに出せば、館は閉鎖される。利用者は本を失い、職員は職を失う。だから、順番を整えれば、被害を小さくできると考えた」

「順番を整えたのではなく、順番を変えた」

私が言うと、相良さんの目がこちらへ向いた。

「君は、まだ若い」

「若いから、残すべきものを知らないと言いたいんですか」

「そうではありません。若いから、失うものの大きさを知らない」

「失ったものは、もう見えています」

私は地下から運んだ台帳を指した。

「本の名前。職員の名前。十七年分の時間。整えた記録の中では、全部が小さな空白に見える。でも、その空白を生きた人がいる」

相良さんは目を伏せた。

初めて、整えられた表情が崩れた。ほんのわずかな変化だった。口元が下がり、紙を押さえる指先が止まる。

「久我さんを閉じ込めたことは、認めます」

白石さんが息を呑んだ。

「鍵をかけたのは私です。白石さんに戻るよう命じ、私が最後に扉を閉めた。事故として処理したのも私です」

「なぜ、今まで言わなかった」

黒瀬さんが尋ねる。

「言えば、私だけの問題では済まなかったからです」

「それは理由にならない」

「分かっています」

相良さんは、ようやく久我さんを正面から見た。

「私は、あなたを守ったつもりでした。記録から外せば、行政の調査も、責任追及も、あなたの失踪も、すべて一度に止められると思った。地下書庫には食料を置き、必要な資料も残した。あなたが照合を続けられるようにした」

「それを、守ったと言うのか」

「言いません」

相良さんは答えた。

「今は、閉じ込めたと言います」

その一言だけが、机の上に残った。

久我さんはしばらく黙っていた。やがて、グラスの水を一口飲んだ。

「なら、名前を戻せ」

「戻します」

「自分の手で?」

相良さんは鞄から万年筆を取り出した。だが、すぐには紙へ置かなかった。

黒瀬さんが新しい記録用紙を差し出す。

「ここに、経緯を書いてください。自分の判断として。誰かの命令にしたり、館全体の責任に薄めたりせずに」

相良さんは用紙を見た。

余白は広く、罫線も少ない。整えようと思えば、いくらでも整えられる紙だった。

「何から書けばいいでしょう」

「最初に書いたことではなく、最初に消したことから」

黒瀬さんが言った。

相良さんは万年筆の蓋を外した。

インクの匂いが、かすかに漂う。古い台帳の匂いとは違う。新しい文字を残すための、まだ乾いていない匂いだった。

彼は書き始めた。

私はその筆跡を見ていた。相良さんの文字は端正で、行間が揃っている。だが、最初の一行だけは少し右へ傾いた。

書き損じたのかもしれない。

けれど、誰も直さなかった。

私は書架へ戻り、『北辺歳時記』の隣にある本を見た。背の高さは揃っていない。埃の筋も、他の本とは違う。そこには、夜のあいだ誰かが触れた痕跡が残っている。

私は手を伸ばさなかった。

戻すべきものと、戻してはいけないものがある。

空白は、すぐに埋めるためにあるのではない。誰が、いつ、なぜ空けたのかを確かめるために残されることもある。

窓の外では、昼の光が図書館の壁を白く照らしていた。

机上では、相良さんの筆跡が一行ずつ増えている。

その紙には、久我慎一の名前が最初から書かれていた。

誰かが消し、誰かが戻そうとしている名前ではない。

今度は、消される前の時間も含めて、記録されようとしていた。

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