第9話 名のないメモ

床板の端を持ち上げると、下から古い空気がまとわりつくように上がってきた。湿り気はなく、むしろ乾きすぎているのに、肺の内側へ埃が貼りつく感じがする。私は懐中電灯を傾け、狭い下降路を覗いた。階段というより、保存庫に付け足した隠し梯子だった。踏み板は細く、足を置くたびに木が鳴る。音は小さいが、空間が鳴りを吸っている。
黒瀬さんが先に降りようとしたので、私は無言でその袖を引いた。
「私が先に行く」
「危ないことをやる顔だな」
「危ないかどうか、見ないと分からない」
「それは、危ない場所へ行く人間が必ず言う台詞だ」
「では、黒瀬さんが後ろから見ていてください」
黒瀬さんは私の顔をしばらく見た。やがて小さく息を吐き、道を譲った。
「合理を捨てたわけじゃない。君が先に落ちた方が、俺が引き上げやすいだけだ」
私は返事をせず、梯子へ足をかけた。
木は冷たかった。表面は乾いているのに、踏み板の中央だけがわずかに滑る。最近、誰かが何度も足を置いた跡だ。端には埃が残り、中央の細い帯だけが磨かれている。人が通っている。しかも、靴底で削るのではなく、足の置き方を選んでいる。
背後から黒瀬さんの靴が続いた。彼の体重で踏み板が軋むたび、音は下へ落ちていった。
上では、藤堂さんと白石さんが入口を見張っている。久保田さんは扉の脇に立ち、懐中電灯を消したまま耳を澄ませていた。柊木さんは、床板の縁に残った紙繊維を採取するため、薄い袋と竹ヘラを手にしている。
地下へ下りるにつれ、図書館の音が薄くなった。
空調の唸りも、蛍光灯の振動も、遠い水面の向こうへ押し流されていく。代わりに、私自身の呼吸と、衣服の擦れる音だけが大きくなった。長時間の夜勤で鈍った膝に、踏み板の硬さが直接伝わる。足の裏から体の中心へ、冷たいものが上がってくる。
最下段へ着くと、小さな踊り場があった。
壁には古い配線が這い、剥がれた塗料の下から赤茶色の煉瓦が覗いている。床には、現在の図書館では使われていない木箱が三つ並んでいた。箱の蓋は閉じられているが、中央の一つだけ、埃の筋が途切れている。
誰かが最近、触れた。
私は懐中電灯を机へ向けた。
踊り場の隅に、粗末な机が置かれていた。机上には、薄い紙束と、古い貸出票、それから栞が一枚ある。栞は細い紙を二つ折りにしただけのものだった。表面に文字はない。だが、折り目の内側には鉛筆の粉が溜まっていた。
黒瀬さんが階段を下りてくる。
「何がある」
「まだ触らないでください」
「触るつもりはない。見ているだけだ」
「見たものを、先に記録します」
私はメモ帳を取り出し、机の位置、紙束の数、栞の向き、貸出票の置かれた角度を書き留めた。いつもなら、記録を取ることで呼吸が整う。だが今夜は、書くほどに紙の上へ現場を固定しているような不安があった。
固定されたものは、あとから誰かに別の形へ並べ替えられる。
それでも、書かずにはいられなかった。
「この机、誰かが使っている」
黒瀬さんは机の脚元へ光を向けた。
「椅子がない」
「立ったまま作業する人間かもしれません」
「机の高さは?」
「八十センチほどです。台帳を広げるには低い」
「低いなら、椅子が必要だ」
「椅子を置けば、音が出ます」
黒瀬さんは黙った。私は机の下を見た。床板に細い擦れがある。椅子を置いた跡ではない。紙箱か、薄い台を滑らせたような跡だった。
机上の紙束へ光を移す。
それは複製された蔵書整理台帳の控えだった。頁の右上に、現在の管理番号がない。代わりに、古い分類番号が鉛筆で書かれている。私は一枚目を見ただけで、胸の奥が詰まるのを感じた。
『北辺歳時記』。
本の題名の横に、現在の配架番号とは異なる番号が記されていた。さらにその下には、移動日と、廃棄予定を示す斜線がある。
だが、斜線は途中で止まっていた。
「廃棄扱いになっています」
黒瀬さんが言った。
「はい。けれど、廃棄処理の番号がない」
「処分したなら、処分記録が必要だ」
「記録上は、廃棄されたことになっているだけです。実際に本が処分された証拠がない」
私は別の頁をめくった。
同じような記載が、何冊も続いている。郷土資料、旧市街の地誌、戦前の地区報。どれも廃棄予定の線が引かれ、その後に別の鉛筆で小さな丸がつけられていた。
丸は、本が残っていることを示している。
誰かが、廃棄記録と現物を照合していた。
「本を盗んでいたわけじゃない」
私は言った。
黒瀬さんがこちらを見る。
「まだ断定するな」
「でも、ここにあります。『北辺歳時記』の控えに、廃棄処理の線と、現物確認の印がある。毎夜抜かれていた本は、廃棄されたことになっている本の中から選ばれている」
「一冊ずつ、照合していた」
「はい」
黒瀬さんは紙束を覗き込んだ。指で触れず、目だけを動かして頁を追っていく。
「誰が、何のために」
「廃棄されたことになった本が、本当に廃棄されたのか。それとも、別の場所へ移されたのかを確かめるためです」
「そんなものを、夜ごと一冊ずつ?」
「一度に動かせば、記録に残ります。棚から消えた本が翌朝戻れば、異常として扱われにくい。毎晩一冊だけなら、処理の誤差に見える」
「それで監視ログの空白を使った」
「はい。空白の時刻に本を抜き、地下へ持ち込み、台帳と照合して、返却印を押して戻す」
「返却印は、返却のためじゃない」
私は貸出票を見た。
「移動した順番を記録するためです。通常の返却印と区別するため、わざと濃淡を変えている。栞の位置は、照合した頁を示している」
黒瀬さんは紙束から顔を上げた。
「そこまで分かるか」
「栞が毎回違う場所へ移っていました。読むためなら、章や文章の区切りに挟むはずです。でも、移動先は地名や境界、廃棄記録に関係する頁ばかりだった。読むのではなく、探していた」
黒瀬さんはしばらく黙った。
「本を読む人間ではなく、記録を照合する人間」
「そのために、夜の図書館へ入っていた」
「なら、犯人はこの場所にいる」
「犯人と呼ぶかどうかは、まだ」
「本を持ち出し、記録を改変し、職員の管理をすり抜けている。少なくとも、無断侵入者だ」
「それでも、何をしていたかを聞くまでは、ただの侵入者です」
「君はいつも、名前をつけるのが遅い」
「名前をつけたあとで、違っていたことに気づくのが嫌なんです」
黒瀬さんは苦笑したようだった。
「刑事には向かないな」
「司書にも向いていないと言われます」
「誰に」
「先輩に。棚の乱れを直すより、利用者の相談を聞けと言われました」
「それで?」
「相談を聞いている間に、棚が乱れていると気になってしまう」
「病気だな」
「そうかもしれません」
声に出してみると、少しだけ可笑しかった。こんな地下で、紙の束を前にして、私は自分の性分を病気と呼んでいる。笑えるはずのことなのに、胸の奥には笑いよりも疲労が溜まっていた。
机の脇で、藤堂さんが身をかがめた。
「これを」
彼女が指で押さえたのは、立てかけられた小さなメモ帳だった。表紙は黒ずみ、角が擦り切れている。表面には、鉛筆で書かれた書庫番号があった。現在の図書館には存在しない番号だった。
藤堂さんはメモ帳を開いた。
頁の多くは破られている。残っている紙にも、上半分だけが切り取られた跡があった。誰かが一枚ずつ、必要な部分だけを持ち去ったのだろう。
一枚の下端に、歪んだ筆跡が残っていた。
人名らしい。
ただ、上半分は切り取られ、残っているのは名字の途中から始まる数文字だけだった。
私は紙片を受け取った。破れ方が新しい。紙の繊維が白く立ち、切り口の一部だけが指で押し潰されている。切ったあと、さらに折り癖をつけて隠してある。
「誰かが、ここで何かを残すのを急いだ」
私が言うと、藤堂さんは首を横に振った。
「残した、ではないかもしれません」
「持ち去った?」
「ええ。残っている部分より、なくなった部分の方が多い。書いた人間が残したのではなく、別の人間が必要なところだけ持っていった可能性がある」
「誰が持ち去ったんですか」
「それは、メモを使っていた人に聞くことね」
「ここにいた人物を知っているんですか」
藤堂さんはすぐには答えなかった。彼女はメモ帳の裏表紙を指でなぞっていた。紙が擦れ、薄い鉛筆の痕が光の角度によって浮かび上がる。
そこに、別の名前の末尾だけが残っていた。
久我。
私は背中の筋が冷えるのを感じた。
「久我……」
黒瀬さんが低く読み上げる。
藤堂さんは彼を見た。
「その名前を、今ここで口にする必要がある?」
「もう書いてある」
黒瀬さんは紙片を見た。
「名前が書いてあるなら、確認する必要がある」
「名前だけでは、存在の証明にならないと言ったでしょう」
「しかし、名前を消した証拠にはなる」
藤堂さんの視線が、私へ移った。
「澪斗くん。あなたは、紙に残った名前を見つけた。だから、その名前の人間がいると思うでしょう」
「思うだけではありません。ここに、その人が使った机がある。照合した台帳がある。毎夜戻される本がある。監視記録の空白は、その人間が通った経路と一致している」
「それでも、本人を見てはいない」
「見ました」
私は言った。
「人影を。第三閲覧室で」
黒瀬さんが、私を見る。
「顔は?」
「見えていません」
「なら、同一人物と断定できない」
「断定はしていません。ただ、紙と本の扱い方が同じです。隠し階段の踏み板、返却印の圧痕、栞の位置、台帳の薄い筆圧。全部に同じ癖がある」
「癖は証拠になるか?」
「単独なら弱いです。でも、同じ方向を指している」
私は机上の紙束を一枚ずつ並べた。
「第一に、消えた本は廃棄処理の線が引かれた資料から選ばれている。第二に、栞は本を読むためではなく、記録上の異常箇所を示している。第三に、閉館後の返却印は、通常の処理を装いながら移動順を残している。第四に、監視ログと台帳の時刻が一致している。第五に、地下の控えには、現行台帳にない廃棄記録が残っている」
黒瀬さんは腕を組んだ。
「それで、何が分かる」
「この人間は、本を隠したいのではありません。記録を照合したい。自分が消された理由と、何が一緒に消されたのかを確かめている」
藤堂さんが、メモ帳の破れた頁を見た。
「どうして、自分が消されたと思うの」
「名前の残し方がそうです。紙へ強く書かず、あとから凹みだけが残るようにしている。消されることを知っている人間の書き方です」
「それは、隠れている人間の書き方でもある」
「同じことです」
藤堂さんの表情が、ほんの少しだけ変わった。
「違うわ。隠れている人間は、見つからないために痕跡を減らす。消された人間は、見つけられるように痕跡を残す。どちらも薄く書くけれど、目的が違う」
その言葉が、地下書庫の静けさへ沈んだ。
私はメモ帳の裏表紙を見た。
久我。
二文字は薄く、角度によって消えかける。それでも、確かに残っている。誰かが意図して残したのか、消そうとした手の下に偶然残ったのかは分からない。
「藤堂さんは、久我さんを知っていますね」
私は尋ねた。
藤堂さんはすぐには答えなかった。彼女は古い用語を口の中で確かめるように、ゆっくり息を吸った。
「知っている、と言うと、少し違う」
「では?」
「一緒に働いていた。夜間整理員として」
黒瀬さんの手が、腕の上で止まった。
「名簿にない人物か」
「当時は、あったわ」
「今はない」
「今は、ない」
藤堂さんは視線をメモ帳から上げなかった。
「久我慎一。夜間整理員。蔵書整理と返却処理の補助を担当していた。夜の建物をよく知っていた。誰よりも本を丁寧に扱い、廃棄予定の資料を一冊ずつ確認していた。必要な資料を捨てないためではなく、捨てられた記録に誤りがないかを見るために」
「その時点で、廃棄記録に問題があったんですか」
「私は詳しくは知らない。久我さんが何度も相良さんへ報告していたことは覚えている。台帳の複製と現物が合わない。廃棄予定の本が別の棚へ移されている。廃棄されたはずの本が、別の番号で登録されている」
「相良さんは?」
「確認すると言ったわ」
「確認したんですか」
「確認したように見えた」
藤堂さんは、そこで初めて私を見た。
「相良さんは、話を聞くと必ず紙を揃えた。報告書の角をそろえ、日付を確認し、筆跡の違いを指でなぞった。丁寧に扱っているように見えた。でも、しばらくすると、報告書の一部だけが別の綴りに移されていた。内容が変わっているわけではない。順番が変わっているだけ。順番が変わると、出来事の意味も変わる」
「久我さんは、それに気づいた」
「ええ」
「だから消された」
「そこは、まだ誰にも証明できない」
「しかし、地下にあります」
「地下にあるのは、紙と机と、名前の末尾だけよ」
藤堂さんは淡々と言った。
「人間を証明するには、それでは足りない」
黒瀬さんが、メモ帳へ手を伸ばしかけた。だが触れずに止めた。
「なら、本人に確認する」
そのとき、地下書庫の奥で音がした。
紙をめくる音ではない。
靴底が、乾いた床を一度だけ擦った。
私たちは全員、そちらを向いた。
地下書庫は、踊り場からさらに奥へ続いていた。現在の図面にはないため、どこまで広がっているのか分からない。懐中電灯の光は、古い書架の列をいくつか照らしたところで、黒い壁に飲み込まれている。
黒瀬さんが低く言った。
「いるな」
久保田さんの声が、階段の上から返ってきた。
「動くな」
「久保田さん、上を頼む」
「分かっている」
黒瀬さんは私の前へ出た。
「瀬戸、ここからは俺が先だ」
「さっきは私が先に行くと言いました」
「状況が変わった」
「何が変わったんですか」
「相手が、こちらを待っている可能性が出た」
「待っているなら、話をする準備がある」
「罠かもしれない」
「罠なら、ここまで証拠を残しません」
「証拠を残して、こちらを誘い込んでいる可能性もある」
私は黒瀬さんの肩越しに、暗い書架を見た。
紙束の端が、一度だけ揺れた。
誰かが触れたのか。地下の空気が動いたのか。判断できない。だが、その揺れの直後、奥から声がした。
「……そこに、藤堂さんはいるか」
低く、乾いた声だった。
藤堂さんが立ち上がった。
「いるわ」
「白石さんも?」
白石さんは階段の途中にいた。声が届いたのか、足を止める。
「いる」
「黒瀬という刑事は?」
黒瀬さんが答えた。
「いる。あんたは誰だ」
奥から返事はなかった。
しばらくして、書架の隙間に人影が現れた。先ほど第三閲覧室で見た輪郭より、はっきりしている。痩せた男だった。髪には白いものが混じり、頬は地下の乾燥に削られている。黒い上着の袖口は擦り切れ、手には古い革の腕章が巻かれていた。
夜間整理員の腕章。
男は私たちから数メートル離れたところで立ち止まった。懐中電灯の光を避けるように、顔を半分だけ影へ置いている。
「久我慎一さんですか」
私が言うと、男の視線がこちらへ向いた。
「その名前は、まだ残っていたのか」
「完全には消えていません」
「消した側が、そう言っているのか」
「違います。紙に残っていました」
久我さんは、私の手元のメモ帳を見た。
「それを返してくれ」
「切り取られた頁です。あなたが使っていたものですか」
「返してくれ」
「返す前に、聞きたいことがあります」
黒瀬さんが、私へ視線を向けた。制止ではなかった。話を続けるなら、根拠を崩すなという目だった。
久我さんは少しだけ笑ったように見えた。疲れた顔の中で、口元だけが動いた。
「君は、聞く順番まで決めているのか」
「順番を決めないと、記録が混ざります」
「記録は、混ざったんじゃない。混ぜられたんだ」
久我さんは机の上の控えを見た。
「廃棄された本が、本当に廃棄されたのかを調べていた。記録では、処分済みになっている。だが現物は棚に残っている。逆に、棚から消えた本が、別の番号で登録されている。誰かが蔵書を移動し、台帳を書き換え、移動の痕跡を消していた」
「誰が?」
「相良だ」
名前が地下の空気へ落ちた。
白石さんが階段の途中で息を呑む音がした。藤堂さんは目を閉じた。黒瀬さんは手帳を開いたが、すぐには書かなかった。
「相良元館長が、すべてを?」
黒瀬さんが尋ねる。
「すべてではない。最初に手を入れたのは、もっと前の人間だ。相良は、それを引き継いだ。館長になったとき、改ざんを止めることもできた。だが、止めれば過去の責任が一度に出る。事故の報告、廃棄資料の横流し、補助金の申請に合わせた蔵書数の調整。いくつもの小さな嘘が、帳面の上で一つの秩序になっていた」
「あなたは、それを見つけた」
「見つけたから、報告した」
久我さんは机の上の紙束へ近づいた。
「相良は、私の報告書を受け取った。内容を読み、紙を揃え、こう言った。『君の見たことは正しい。しかし、正しいだけでは館を守れない』と」
「その言葉を、信じたんですか」
「信じたかった」
久我さんの声に、初めて疲労以外のものが滲んだ。
「図書館は、誰か一人の都合で動いているわけではない。利用者がいる。職員がいる。寄贈者がいる。行政もいる。ひとつの記録を開けば、多くの人間の生活が崩れる。相良はそう言った。私は、秩序を守るための猶予なのだと思った」
「でも、記録は戻らなかった」
「戻らなかった。むしろ増えた。私の勤務記録が抜かれ、夜間整理の担当表から名前が消え、報告書は別の綴りへ移された。私は抗議した。すると、事故が起きた」
白石さんが階段の途中から言った。
「事故の夜……地下書庫で、あなたが閉じ込められた」
久我さんは彼女を見た。
「見ていたのか」
「見ました。あなたが地下へ入るところを。相良さんと一緒に」
「一緒に?」
黒瀬さんが問う。
白石さんは手すりを握った。
「私は当直補助でした。あの夜、相良館長に呼ばれて、地下書庫の確認へ行きました。久我さんが持ち出した台帳を返すように言われた。久我さんは拒んだ。相良さんは、先に戻るよう私へ言った」
「そして、扉を閉めた」
久我さんが言った。
白石さんの指が白くなる。
「閉めました。でも、鍵をかけたのは私ではありません」
「鍵をかけたかどうかは問題ではない。記録には、私が地下へ入っていないことになった」
「あなたは、事故で亡くなったことにされた」
「死亡記録までは作られていない。だが、勤務を無断で放棄し、その後行方不明になった職員として処理された。私が地下に残っていることを知っていた人間は、相良と藤堂さんと、白石さんだけだった」
藤堂さんが、低く言った。
「私は、あなたが生きていると知っていた。でも、入口を開けることができなかった」
「なぜ」
「開ければ、相良の記録が崩れる。あなたを出せば、館の中にいる多くの人が証言を求められる。私は、誰かを守るために黙った」
「その沈黙で、私は十七年地下にいた」
「分かっているわ」
「分かっている人間は、言わない」
藤堂さんは目を伏せた。
「言えなかった」
「同じことだ」
久我さんの声は大きくなかった。だからこそ、地下書庫の壁に長く残った。
「黙る人間は、いつも事情を持っている。館を守るため。誰かを傷つけないため。混乱を広げないため。だが、黙られた側には、事情は届かない。届くのは、消されたという事実だけだ」
私は久我さんを見た。
「なぜ、毎晩本を抜いていたんですか」
彼は机上の『北辺歳時記』の控えを指した。
「改ざんされた台帳には、順番がある。廃棄されたことになった本、別の番号へ移された本、記録から抜かれた本。その順番を、現物と照合している。私が覚えているだけでは足りない。紙と本と、今の棚を並べて、誰がどこで書き換えたのかを確かめなければならない」
「だから、毎夜一冊ずつ」
「一冊ずつでなければ、分からない。まとめて動かせば、どの本がどの記録に対応するのか混ざる。私は本を読むために持ち出したのではない。照合するために、元の記録へ戻した」
「返却印は?」
「移動した時刻と順序を残した。通常の返却印と同じものを使えば、誰かが後から消す。だから、濃淡を変えた。狭い場所で斜めに押し、修復紙の端で押印を保護した。あの印は、私が自分へ向けて残した目印だ」
「栞は?」
「照合した頁だ。地名、分類番号、廃棄理由。君は気づいたな」
「はい」
久我さんは、ほんのわずかに頷いた。
「なら、続きを見せる」
彼は書架の奥へ戻り、薄い箱を持ってきた。蓋を開けると、中に一冊の台帳が入っていた。表紙は黒ずみ、背の糸が何度も補修されている。紙の端には、古い朱肉の匂いが残っていた。
藤堂さんが息を吸った。
「原本……」
「複製ではない。改ざんされる前の蔵書整理台帳だ」
久我さんは台帳を机へ置いた。
私は表紙の端へ手を伸ばしかけ、止めた。触れる前から、紙の違いが分かった。現在の複製台帳より厚く、繊維が粗い。頁をめくる前から、長く保存されていた紙の乾いた匂いがする。
黒瀬さんが言った。
「これがあれば、相良の改ざんを証明できる」
「一冊では足りない」
久我さんは答えた。
「原本だけなら、私が持ち出して書き換えたと言われる。複製台帳、現物の蔵書、返却印、監視記録。すべてを照合して、初めて改ざんの順番が見える」
私は原本の頁を開いた。
『北辺歳時記』の欄には、廃棄の記載がない。代わりに、旧地下書庫へ移管されたという記録がある。日付は、十七年前の事故の翌日だった。
その下に、夜間整理員・久我慎一の確認印が押されている。
印影は、見慣れない返却印と同じ癖を持っていた。
右側が濃く、左側が掠れている。
私は頁をめくった。
久我さんの名前は、何度も出てくる。蔵書の移動確認、廃棄候補の照合、事故後の保管記録。ところが複製台帳では、その欄が別の職員名に置き換えられている。名前が消されたのではない。別の名前が上から重ねられている。
「二重に書かれています」
私は言った。
「原本の筆圧の上に、別の筆圧がある。消したのではなく、上書きした」
「だから、紙の凹みが残った」
黒瀬さんが言った。
「薄い筆圧の名前と、上から押しつけた名前。閲覧票に残っていた『久我』は、消された文字の下側だ」
私はメモ帳の紙片を見た。
「名前を切り取ったのは、あなたですか」
久我さんは首を横に振った。
「私ではない。相良が最後に地下へ来たとき、記録の一部を持っていった。私の名前が残っている頁を切り、代わりに別の紙を貼った。だが、すべては持っていけなかった」
「なぜ、残った紙をそのままに?」
「時間がなかった。あなたたちが近づいてきたからだ」
「私たちを誘導した?」
「誘導したのではない。見つかる準備をした」
久我さんは、私を見た。
「毎夜、本を戻していたのは、誰かに気づいてほしかったからだ。だが、気づいた者が相良のように記録を整える人間なら、また消される。だから、紙の癖を読む人間を待った」
「私を?」
「君は最初から、本の題名だけを見ていなかった。棚の埃、背の高さ、栞の角を見ていた。そういう人間なら、原本と複製の違いを見落とさない」
私は返事をしなかった。
自分の観察が、誰かに呼び寄せられていた。その事実は、不快であるはずだった。だが同時に、初めて自分の執着が役に立ったようにも感じられた。棚を揃えることも、印影を見比べることも、ただの病的な習慣ではなかった。誰かが消そうとしたものへ、届くための手つきだった。
黒瀬さんが台帳を見たまま言った。
「久我。あんたは、これを公にするつもりだったのか」
「公にする?」
久我さんは疲れたように笑った。
「公にするには、私は存在しなければならない。名簿にない人間が提出した記録を、誰が受け取る。地下で暮らしていた人間が、十七年前の改ざんを訴えても、最初に問われるのは私がなぜ消えたまま生きているかだ」
「だから、毎晩本を戻した」
「本が戻れば、誰かが違和感を覚える。本は人間より長く残る。人間の証言は、都合よく記憶違いにされる。だが、本の位置や紙の繊維は、誰かが手を入れた順番を覚えている」
「本に、証言させた」
「そうだ」
久我さんは、机上の台帳へ手を置いた。
「私は、自分のためだけに照合していたわけではない。この館で消されたのは、私の名前だけではない。廃棄されたことにされた本、その本に書かれていた地域の記録、改ざんに気づきながら黙った職員の記憶。すべてが、整った記録の中で存在しないことにされた」
白石さんが、階段を下りてきた。
「私も、名前を出します」
久我さんが顔を上げる。
「何を」
「事故の夜、あなたを地下へ残したこと。相良さんに従い、入口を閉めたこと。私は、あなたが戻れなかったと記録に書かれた翌日、その記録を見ました。間違いだと分かっていたのに、訂正しなかった」
彼女は手にしていた封筒を机へ置いた。封筒の角を揃える仕草は、もうなかった。
「中には、事故当日の当直記録があります。私が書いたものです。正式な記録では、地下書庫の点検は二十二時三分に終了したことになっている。でも、私の控えには二十二時三十一分まで、久我さんの名前が残っている」
「なぜ、今まで出さなかった」
「怖かったからです」
白石さんの声は静かだった。
「記録を出せば、あなたを救えると思っていた。でも、同時に、館の人間が何人も責任を問われる。相良さんは退職しても、図書館には残る人がいる。私が黙れば、少なくとも新しい事故は防げると思った。そうやって、私は何年も、記録の角を揃えてきました」
彼女は封筒の上へ手を置いた。
「でも、整えるたびに、あなたが存在しなかったことだけが確かになっていった。私は、あなたを守っていたのではありません。自分が見た夜を、見なかったことにしていただけです」
久我さんは何も言わなかった。
藤堂さんが、彼の前へ古い規程集を置いた。
「私も話すわ」
「もう十分だ」
「十分かどうかは、あなたが決めることではない」
藤堂さんは、規程集の頁を開いた。
「事故の翌月、相良さんから地下書庫の運用規程を破棄するよう命じられた。私は破棄したふりをして、一部を残した。図面も同じ。廃棄箱へ入れたふりをして、別の保管庫へ移した。私は記録を守ったつもりだった。でも、あなたを戻すためには使わなかった」
「なぜ」
「怖かったからよ」
藤堂さんは白石さんを見た。
「若い職員を巻き込むのが怖かった。館が閉鎖されるのが怖かった。誰も利用できない図書館になるのが怖かった。私は、図書館を守るために、あなたを地下へ置き去りにした」
久我さんは、長いあいだ黙っていた。
地下書庫の空気は乾いている。紙の匂いが濃く、呼吸するたび、古い時間を吸い込んでいるようだった。
やがて彼は、机上の原本台帳を閉じた。
「記録を戻すには、遅すぎる」
「遅いかどうかは、記録には関係ありません」
私は言った。
久我さんが私を見る。
「どういう意味だ」
「遅いから残さない、という判断をしたら、今までと同じになります。記録に残すべき時刻は、いつも過ぎています。だから、過ぎたあとでも残す必要がある」
黒瀬さんがこちらを見た。
私は続けた。
「私は、最初は図書館の秩序を戻したいだけでした。棚を整え、本を元の位置へ戻し、閉館後の記録を正しくしたかった。でも、今は違います。整っていることだけでは、正しいとは言えない。空白があるなら、空白があるまま記録する必要がある」
言葉にした途端、胸の中で何かが動いた。
私はこれまで、乱れを見つけると、すぐ元へ戻そうとしていた。だが、元の場所が誰かによって決められたものなら、戻すこと自体が隠蔽になる。欠けたままの棚、切り取られた頁、書かれていない名前。まずはその状態を、欠けたまま残すこと。それが、最初の正しさなのかもしれない。
黒瀬さんは手帳を開いた。
「久我。ここにある原本と、現行台帳、返却印、監視ログ。押収して照合する。あんたの身元も確認する。だが、俺はあんたを無条件に正しいとは扱わない」
「それでいい」
「地下に無断で住み、本を持ち出し、記録を操作した。事情があっても、手続きは必要だ」
「分かっている」
「ただし、記録から消されたことを理由に、今度はこちらがあんたを消すことはしない。証言も、資料も、全部残す」
久我さんの顔に、初めてはっきりとした変化が現れた。
笑みではない。安堵とも違う。長い間、誰かに聞かれることを諦めていた人間が、聞かれる可能性を前にしたときの、途方に暮れた表情だった。
「刑事は、そういう約束をしていいのか」
「約束じゃない。手続きだ」
黒瀬さんは淡々と言った。
「手続きなら、記録に残る」
久我さんは、机上の台帳へ目を落とした。
「なら、名前を書いてくれ」
「どこに?」
「新しい記録に」
黒瀬さんは、少しだけ黙った。
私は机の端にあった鉛筆を手に取った。紙の表面は乾いていた。指先がわずかに震える。こんな場所で名前を書くことが、誰かの人生を決めてしまうような気がした。
久我さんが言った。
「君が書く必要はない。私が書く」
彼は鉛筆を受け取り、原本台帳の空白頁を開いた。
そこには、かつて何かが消された跡があった。白い塗料の下に、薄い凹みが残っている。
久我慎一。
久我さんは、自分の名前をゆっくり書いた。
筆圧は強くない。だが、消されない程度には深かった。紙の繊維が鉛筆の芯を受け、黒い線が残る。名字の「久」の払いは長く、「我」の最後の線は右下へ沈んだ。
私はその筆跡を見て、これまで見てきた薄い凹みと同じ癖を読み取った。
閲覧票の裏。
メモ帳の末尾。
地下の貸出票。
すべて、同じ手だった。
名前は、記録の外から現れたのではなかった。
最初からそこにあり、上から別の記録を重ねられていただけだった。
黒瀬さんが、久我さんの書いた頁を覗き込む。
「筆跡の照合はできる」
「何と?」
「現行台帳の上書きされた文字と、地下の控えだ。あんたが書いた記録なら、相良が重ねた文字との違いも出る」
久我さんは鉛筆を置いた。
「それで、相良はどうなる」
「相良の判断と、組織の処理を分けて調べる。誰か一人に全部を背負わせて終わらせるつもりはない」
「そうやって、また全体の責任にする」
「しない。誰が何を見て、誰が何を書き換え、誰が黙ったかを分ける。混ぜるから、また消える」
黒瀬さんの声は硬かった。
「事件は感情でまとめない。だが、手続きで一人の存在を消すこともしない」
藤堂さんが、ゆっくり頷いた。
白石さんは封筒を開けた。中から出てきた紙には、十七年前の夜の時刻が並んでいる。二十二時三分、二十二時十八分、二十二時三十一分。最後の行には、乱れた筆跡でこう書かれていた。
地下確認、久我慎一同行。
その一行だけが、何度も消され、薄くなっていた。
私は紙の端を見た。消し跡の上から、別の鉛筆で線が引かれている。完全には消さず、あとから読めるように残した筆圧だった。
誰が書いたのかは、まだ分からない。
白石さんかもしれない。藤堂さんかもしれない。あるいは、消される前に久我さん自身が残したのかもしれない。
だが、そこには確かに名前があった。
久我慎一。
記録にない人物は、幽霊ではなかった。彼は十七年間、図書館の地下で息をし、本を戻し、紙を数え、消された名前を一つずつ照合していた。
私たちが見えなかったのは、彼が透明だったからではない。
見ないことにされたからだ。
久我さんが、私を見た。
「瀬戸くん」
「はい」
「君は、明日も本を戻すのか」
「戻します」
「何事もなかったように?」
私は『北辺歳時記』の控えへ目を向けた。
「いいえ。何があったか分かるように戻します」
「本は、元の場所に置けばそれでいい」
「元の場所が、誰かによって書き換えられているなら、元の場所も確認し直す必要があります」
「面倒な男だ」
「よく言われます」
久我さんの口元が、ほんの少しだけ動いた。
「それなら、私の代わりに続きを見てくれ」
「代わりにはなれません」
「なぜ」
「あなたが見た時間は、あなたにしか分からないからです。私は、これから記録する側に回ります」
久我さんは黙った。
私は続けた。
「記録を戻すことは、過去をきれいにすることではありません。消されたものが消されたままだったことも、誰かが黙っていたことも、全部残すことです」
地下書庫の奥で、古い配管が一度だけ鳴った。
上の階では、開館時間が近づいているのだろう。遠くのどこかで、機械が起動する低い音がした。図書館が朝へ向かって動き始めている。
私たちは原本台帳、複製台帳、貸出票、封筒、メモ帳を順番に袋へ収めた。紙の角を揃えながら、私はふと、これまでなら必ず直していたはずのメモ帳の破れへ目を向けた。
切り取られた頁は戻らない。
破れた紙は、元の一枚には戻らない。
だからこそ、破れた状態を記録する必要がある。
私はメモ帳を袋へ入れ、破れた端が見えるように置いた。
黒瀬さんが、それを見て言った。
「隠さないのか」
「隠す理由がありません」
「見た目は悪い」
「見た目を整えるために、失われた部分まで消したくない」
黒瀬さんは、しばらく私の手元を見ていた。
「少しは刑事らしくなったな」
「司書です」
「まだ言うか」
「そこは譲れません」
階段を上る前、私はもう一度だけ地下書庫を見回した。
書架は薄暗く、背表紙の多くが読めない。机の上には紙の跡が残り、床には人が歩いた細い摩耗が続いている。ここで十七年間、誰にも記録されない時間が積み重なっていた。
その時間を、私たちは一晩で取り戻すことはできない。
それでも、最初の一行は書かれた。
久我慎一。
階段を上がると、第三閲覧室の蛍光灯が白く灯っていた。朝の光が窓から入り、夜の影を少しずつ薄めている。書架には本が並び、『北辺歳時記』も元の位置に戻っていた。
私はその本を抜き取った。
栞は、旧市街の境界を記した頁に挟まっている。私は栞を外し、元の第三章の冒頭へ戻した。けれど、本を棚へ戻す前に、貸出票の隅へ新しい記録を添えた。
閉館後移動あり。照合済み。旧地下書庫関連資料。
文字は、きれいに揃えなかった。
時刻も、確認できたものだけを書いた。分からない部分は空白のまま残した。その空白が、あとで誰かに埋められることを恐れながらも、今の私には、空白を空白として残す方が正しいと思えた。
本を棚へ戻す。
背表紙の高さを揃える。隣の本との間隔を測る。棚板の埃の筋を確認する。
いつもの作業だった。
だが、以前とは少し違う。
私は棚を整える前に、乱れていた痕跡を一度、目に焼きつけた。誰かが触れた跡、擦れた埃、奥へ沈んだ背表紙。そのすべてを残したまま、必要な範囲だけを戻していく。
図書館は、完全に整っている必要はない。
そこに何が起きたのかを、整えたことで消さないことの方が大切だ。
窓の外で、朝の車が走り始めた。利用者を迎える準備が進み、受付の機械が起動し、遠くで誰かが挨拶を交わしている。
私は最後に、書架の列を一度だけ見回した。
『北辺歳時記』は、元の場所に収まっている。
その背表紙の下端には、昨夜までなかった小さな傷が残っていた。私はそれを消さなかった。
白い光の中で、傷は細い線として見えた。
記録に残らなかった夜が、ようやく本の背に戻ってきたようだった。
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