第10話 もう一歩、家の奥へ

「紬」
声は台所の奥から来た。息を吸う音のあとに、私の名前だけが乗っていた。母がいつも私を呼ぶときの調子とよく似ている。語尾が少し下がり、次に何か用があるときの、あの落ち着いた低さだった。
けれど私は返事をしなかった。
草履の鼻緒を見ていた。片方は深く擦れ、片方は浅い。母の右足は、左足より少し外側へ流れる癖がある。台所に長く立ち続けるうちに、身体が覚えた歪みだった。誰にも真似できない、生活の重みそのものだった。
その重みだけを、私は信じようとしていた。
「紬、こっちにおいで」
二度目の声は、さっきより近かった。台所の戸のあたりからではなく、上がり框のすぐ向こうから聞こえた気がした。私は顔を上げなかった。上げれば、そこに母の姿があるだろうと分かっていた。分かっていたから、なおさら上げられなかった。
背後で、祖母の足音がした。
いつもより静かな足の運びだった。土間へ降りる音がせず、上がり框の板が一度、軋んだだけだった。祖母は私の隣に立たず、少し離れた柱のそばで止まった。息を殺しているのが分かった。
私はようやく顔を上げた。
台所の戸口に、母が立っていた。
白い夏着。耳へ払った髪。手の甲で額の汗を拭う、いつもの仕草。灯りは薄いのに、輪郭だけがくっきりと浮かんでいる。
「お帰り」
母は言った。
その声に、私の身体は自然と動きかけた。三日前まで、当たり前に聞いていた声だった。台所から、庭から、隣の部屋から、いつも同じ調子で私を呼んでいた声。
だが、母は瞬きをしなかった。
私を見つけたとき、母はいつも先に目を細める。それから、左の口元にだけ小さな皺を作って笑う。目の前に立つものは、口の端をまっすぐ持ち上げただけだった。皺はできない。目も細まらない。ただ、笑みの形だけが、そこに置かれていた。
「久代さんが、水の中でお前を見たと言っていた」
母の声が続いた。
「怖かっただろう。もう戻ってきたから、大丈夫」
言葉は優しい。中身は空っぽだった。母はこんなふうに、自分から怖かっただろうと確かめる人ではない。怖い思いをしたかと聞く前に、濡れた手拭いを持ってきて、黙って私の頬を拭く人だった。
私は喉の奥で、母の名を呼ぼうとした。
声が出なかった。
出そうとした瞬間、影の輪郭がわずかに揺れた。私の喉の動きに合わせて、向こうの喉も同じ形に動いた。まるで、私が発する前の音を、先に吸い取ろうとしているようだった。
「久代」
祖母の声が、低く外へ向かって放たれた。
答える声はすぐには返らなかった。玄関の戸が開き、湿った夜気とともに久代が入ってきた。杖の先が土間の湿りを一度叩き、それから止まった。
久代は台所の戸口に立つ母を見て、動かなかった。
「見えるか」
祖母が訊いた。
「見える」
久代は答えた。
「志乃の形をしている。だが、足元が違う」
私は視線を下げた。
母の――いや、母の姿をしたものの足は、床から浮いてはいなかった。ただ、爪先の向きが、上体の向きより半歩遅れていた。歩こうとする前に、身体の中の何かが先に動き、足だけが取り残されている。
草履の鼻緒が、土間で小さく音を立てた。
振り向くと、母の草履が二足とも、台所の方へ向きを変えていた。ゆっくりと、誰かが手で押したのではなく、内側から引かれるように。
「あと少しだ」
久代が言った。
「あれは、もう一歩でこの家の内側に馴染む。名を呼ばれ、草履に迎えられ、台所の位置を得れば、志乃の名で居座り続ける」
「母さんは」
私の声は掠れていた。
「母さんは、どこにいるの」
久代は答えなかった。答えの代わりに、杖の先を土間の湿りへ強く押しつけた。水気が音もなく沈み、その奥から、もう一つの気配が微かに動いた気がした。輪郭のない、もっと薄い、けれど確かに人の形をした揺らぎだった。
祖母が私の肩に手を置いた。
「今夜だ」
乾いた声だった。
「送り火を、やり直す」
台所の戸口で、影が笑みの形のまま、私を見ていた。
草履は、もう半分以上、家の奥を向いていた。
← 横にスクロールして読み進められます
