第8話 湯気のある証言

藤堂に電話をした翌日の夕方、私は年ごとの小包をまとめた箱を抱えて、駅前の喫茶店へ向かった。
雨は降っていなかったが、空気にはまだ湿り気が残っていた。廃線跡の草は重く垂れ、線路を失った枕木の隙間に、薄い水が光っている。跨線橋の錆びた手すりからは、赤茶色の粉が雨の名残のように流れ落ちていた。
私は一段ずつ階段を下りた。
箱の中には、切符、紙片、押し花、封紙、麻紐。どれも小さい。両手で抱えるほどの重さはない。それなのに、駅から店までの短い道が、以前より長く感じられた。
持ち主の分からないものを、私は何度も運んできた。
だが、これは違う。
この箱の中には、私が持ち主であるかもしれない物が混ざっている。そう考えるだけで、腕の内側に力が入り、箱の角が掌へ食い込んだ。
店の扉を開けると、鈴が鳴った。
みどりはカウンターの奥で、何も言わずにカップを並べていた。二つではない。三つだった。
「誰か来るのか」
「来ないよ」
「では、なぜ三つ」
「昔からの癖。空いている席にも、先に置いておくの」
みどりは三つのカップへ順番に湯を注いだ。白い湯気が立ち上がり、店内の古い時計と窓の外の駅舎をぼかしていく。誰も座らない席の前にも、湯気だけが静かに揺れていた。
私は箱をテーブルへ置いた。
みどりは蓋を見た。開けようとはせず、角の擦れ方と、赤鉛筆で書かれた年号を確認した。
「全部持ってきたんだね」
「一度、並べて見たかった」
「駅ではできなかった?」
「できた。でも、駅だと物が台帳の一部に見える」
「ここなら?」
「ここなら、誰かの生活の中に置かれていたものに見えるかもしれない」
みどりは少しだけ目を伏せた。
「それ、栞が言っていたことに似ている」
私は箱の留め具へ手を伸ばした。指先で金具の位置を確かめ、蓋を開く。
薄紙に包まれた断片が、年代順に並んでいた。みどりはその並びを崩さず、ひとつずつテーブルへ移した。切符、花、紙片、封紙、紐。彼女の指は、私よりさらに慎重だった。栞に関わる品だけは、他の物よりも長く触れず、布を介して位置を変える。
「これは、怒ってる包みじゃないね」
みどりが言った。
声は低く、湯気の向こうで少しだけ曇っていた。
「怒っている包みは、結び方が違うのか」
「結び方じゃない。中身の置き方」
「置き方?」
「怒っている人は、受け取る相手がすぐ分かるようにする。名前を書く。日付を書く。読めば誰の責任か分かるように、順番も揃える。これは反対。分かる人にしか分からないように、でも、分かる人が見れば間違えないように置いてある」
「誰かに見つけてほしいのに、誰にでも見つけてほしいわけではない」
「そういうこと」
みどりは切符の角を見た。
「それに、切符を折っていない。花も、潰れないように二重に包んである。紙片も、文字が内側になるように折られている。送る人は、証拠を残したいんじゃなくて、壊さずに渡したいんだと思う」
「誰に」
「それは、あんたが考えたほうがいい」
私は返事をせず、駅名印の残る硬券を取り上げた。紙の冷たさが、指の腹からゆっくり染みてくる。あの切符には、臨時停車印があった。記録にはない列車。存在を消された停車。
「栞は、何かを見つけると、必ず誰かに渡そうとしたのか」
「何でもじゃないよ。自分だけが知っていることを、ひとりで持っているのが嫌だったんだと思う。あの子は、黙っている人のそばにいることはできた。でも、自分まで黙ることはできなかった」
「事故の日も?」
「事故の日は、いつもより黙っていた」
みどりは三つ目のカップへ湯を足した。誰も座らない席の前で、湯気がひときわ高く立った。
「朝から、町の大人たちは声を低くしていた。炭鉱のほうで何かあったらしい、という話が流れていたけど、誰もはっきり言わなかった。栞は店の隅にいて、窓の外ばかり見ていた。氷が溶ける音を聞きながら、何度も紙を折っていた」
「何を書いていた」
「見せてくれなかった。ただ、折り目を二度つけていた。濡れても開かないようにする、あの折り方。あんたの小包に入っていた紙片も同じだったでしょう」
私は頷いた。
「栞は、何かを私に言いかけた。けれど、店の扉が開いて、真鍋さんが入ってきた。あの人は声を荒げなかった。怒っているようにも見えなかった。ただ、栞の前に座って、帰りなさいと言った」
「栞は従ったのか」
「表面上はね。栞は大人に逆らうときほど、素直な顔をする子だったから」
「それを、みどりは見ていた」
「見ていた。でも、声をかけなかった」
みどりはカップの取っ手を、三つとも同じ向きへ直した。
「私は、栞が怖がっているのを見ていた。見ていたのに、店の中にいるほうが安全だと思ってしまった。大人同士の話に子どもが入ると、余計に危ない。そう考えた。今なら、それが自分を動かさないための理由だったと分かる」
「みどりのせいではない」
「そう言われるのが嫌なんだよ」
みどりは初めて、私をまっすぐ見た。
「私のせいではないと言われると、私は何もできなかったことまで、誰かに片づけてもらうことになる。栞を止められなかった。透があのあと町を出されるのを見ていた。事故のことを聞かれても、祖母から聞いた話だけを、噂として扱った。私はずっと、誰かが本当のことを言い始めるのを待っていた。でも、待つだけなら、黙っている人間と変わらない」
「だから、私に写真を見せた」
「写真だけじゃない。あんたが写真の中の自分から目を逸らさなかったから」
私は箱の中から、駅前写真の複写を取り出した。
薄暗い舗道。濡れた駅舎の屋根。赤い紐を手首に巻いた少女。その少し離れた場所にいる少年。写真の端に、白い花の輪郭がある。
「この少年は、私だと思うか」
「思う」
答えは早かった。
「でも、断言はできない」
「なぜ」
「写真は、あんたがあんただと証明するには古い。裏書きはあるけれど、誰が書いたか分からない。顔もはっきりしない。だから警察の証拠としては弱い」
「それでも、みどりは私だと思う」
「肩の線が同じだから」
「肩だけで?」
「肩だけじゃない。あんたは、何かを拾うときに左足を少し引く。写真の少年もそうしている。栞の隣に立つと、相手の顔ではなく、足元を見る。それも今のあんたと同じ」
私は写真を見た。
少年の視線の先には、白い花が落ちている。栞は少年ではなく、写真の外を見ていた。誰かが来るのを待っているようにも、誰かを見送ったようにも見える。
「私は、栞と何をしていた」
「分からない」
「みどりは、何か知っているはずだ」
「知っているのは、あんたが栞の近くにいたことだけ。栞があんたを弟のように扱っていたこと。あんたは栞の持っているものを見たがり、栞は見せる前に一度、必ずあんたの顔を確認していたこと」
その言葉に、指先が冷えた。
紙片を渡す前に、一度だけ相手の顔を見る。
それは栞の癖だと、私は何度も記録してきた。けれど、その仕草を自分が受けていたかもしれないとは、考えたことがなかった。
「栞は、私に何かを渡した?」
「たぶん」
「たぶんではなく」
「その先を見ていないから、たぶんとしか言えない。栞は店を出る前、紙を胸元へしまった。それから、私に押し花をひとつ置いていった。『これ、乾かしておいて』と言った」
「その押し花が、小包に入っていたものか」
「同じ種類だと思う。けれど、同じ一輪だとは言えない」
みどりは花の包みを開かず、紙越しに輪郭をなぞった。
「私はそのあと、店の裏で押し花にした。栞が戻ってきたら渡すつもりだった。けれど、戻らなかった。何年か経ってから、祖母の帳面に挟まっているのを見つけた。どうしてそこへ移したのか、祖母は何も言わなかった」
「誰かが拾って、送り手へ渡した」
「そうかもしれない」
「みどりが送った?」
彼女はしばらく黙った。
湯気が薄くなり、三つのカップの水面が見える。誰も飲んでいないのに、三つ目のカップだけが少しずつ冷めていた。
「私ではないよ」
「なぜ、そう言い切れる」
「最初の小包が届いたとき、私はまだこの店に戻っていなかった。祖母が亡くなって、店を継ぐために町へ戻ったのは八年前。小包はその前から届いていた」
「では、送り手を知っている?」
「知っている、というほどではない」
「みどり」
「田沼しずえさんという名前を、聞いたことがある」
名前が店内へ静かに落ちた。
私は切符を置いた。
「どんな人だ」
「駅前の商店で働いていた人。栞とよく話していた。事故のあと、町を出た。しばらくして、町外の郵便局で働いていると聞いた」
「小包の消印はない」
「消印がないから、郵便を使っていないとは限らない。駅の旧ポストへ直接入れた年もある。誰かに頼んだ年もある。田沼さんは、目立たない形で物を動かすのがうまい人だった」
「どうして、そんなことを知っている」
「栞が、田沼さんにだけは長く話していたから。店の隅で、二人はよく紙を広げていた。栞が見つけたものを見せ、田沼さんが包み直す。結び方を教えたのも、田沼さんかもしれない」
「なら、送り手は田沼さんだ」
「違う。田沼さんが始めたとしても、今も一人で続けているとは限らない」
「誰かに引き継いだ?」
「記憶は、ひとりで持つと重すぎるからね。途中で誰かへ渡すことがある」
みどりは、古い駅前写真を私のほうへ滑らせた。
「小包は、田沼さんが栞を忘れないためだけに送っているんじゃない。栞を知っていた人間が、順番に拾ったものを渡しているんだと思う。だから、包みの紐の撚りが毎年違う。送り手が変わっているか、少なくとも、材料を手渡されている」
「同じ結び方だけが残る」
「栞が教えた結び方だから」
私は写真の中の少女の手首を見た。
赤い紐の端が、三ミリほど長い。小包と同じだった。
「栞は、何を見た」
みどりは窓の外へ目を向けた。夕方の駅前は薄暗く、跨線橋の影が舗道を斜めに横切っている。
「事故の朝、町役場の車が駅裏へ入っていった。炭鉱のほうから来た車ではなく、役場から直接来た車。栞はそれを見ていた。車の荷台に、保線倉庫の木箱が載っていた」
「木箱」
「何が入っていたかは、私には分からない。ただ、栞はその箱を見てから、ずっと紙を折っていた。誰かに知らせるつもりだったんだと思う」
「誰に」
「透に、とは言っていなかった」
「では、誰に」
「なくした人に、って言った」
胸の奥で、古い鈴が鳴った気がした。実際には音はしなかった。けれど、音のない振動だけが、肋骨の内側に残った。
「私が、なくした人なのか」
「分からない」
「みどりは、私に何かを隠している」
「隠しているよ」
意外なほど素直な返事だった。
「何を」
「透のお母さんが、事故のあと栞を探していたこと。あんたを町の外へ連れていく前に、駅の裏へ戻ろうとしていたこと。真鍋さんが、桐生さんの家族に『栞はもう見つからない』と言ったこと」
私は息を吸った。
喉の奥に、濡れた紙が貼りついたようだった。
「母は、栞を知っていたのか」
「知っていた。栞があんたの家へ遊びに来ていたことも。あんたが栞の後ろをついて歩いていたことも」
「なぜ、誰も言わなかった」
「子どもに死んだ人の話をしてはいけない、と大人たちは決めた。あんたは事故のあと、熱を出して何日も眠っていた。目を覚ましても、栞の名前を言わなかった。だから、忘れたことにした」
「私が忘れたのではなく、忘れたことにされた」
「そう。けれど、決めた人間だけを責めるのも違う。あんたを生かすためだった人もいる。町を守るためだった人もいる。自分が責められないためだった人もいる。全部が同じ沈黙の中に混ざってしまった」
私は手元の台帳を開いた。
小包の記録。品名。日付。状態。私はそこへ、みどりの言葉を写そうとした。だが、ペン先が紙に触れたまま止まった。
「書けない」
「何が」
「母のことを、どの欄に書けばいい」
「今は書かなくていい」
「記録しなければ、また消える」
「消えないよ。あんたが聞いた」
「私が覚えているうちに書かないと」
「透」
みどりの声が、湯気の向こうから届いた。
「人は、記録される前に生きている。紙へ移さなければ存在しないわけじゃない。あんたは長いあいだ、紙に書けないものを、なかったことにしてきた。でも、今度は急いで全部を書かなくていい。書けないまま持っている時間も必要なんだよ」
「私は、そうやって持ち続けたから、十年も見なかった」
「前とは違う。今のあんたは、見たものを見たまま置いておける。空白を埋めないことと、空白から逃げることは違う」
その言葉を聞きながら、私は三つ目のカップを見た。
誰も座っていない席の前に、まだ湯気が残っている。みどりは最初から、そこへ誰かがいるようにカップを置いた。死者なのか、栞なのか、戻らなかった人々なのか、私は尋ねなかった。
尋ねれば、名前をひとつに決めてしまう気がした。
私は代わりに、写真の裏へ目を向けた。
薄い紙背に、押し花と同じ輪郭の影がある。花は、写真の中でも、現実の小包の中でも、誰かの手を通っている。栞が持ち、みどりが預かり、誰かが包み、駅へ戻した。
失われたものは、消えたのではない。
ただ、渡される途中で、何度も置き去りにされただけだ。
私は台帳へ短く書いた。
久米みどり、証言。 早瀬栞は事故当日、駅裏へ向かった。 町役場車両と保線倉庫の木箱を目撃。 栞は、見たものを誰かへ渡そうとしていた。 小包は、複数の手を経て送られている可能性あり。
書き終えてから、私はその下に、みどりの名をもう一度書いた。
久米みどり。
それは証言者としてではなく、今ここにいる人間の名前として書いた。
みどりは、私が書く音を聞いていた。何も言わず、冷めかけたコーヒーを一口飲む。
「それ、私の証言を記録したんじゃないね」
「違うのか」
「私が、見なかったふりをしていた時間を記録したんでしょう」
私は答えなかった。
みどりは三つのカップを片づけ始めた。最後に、誰も座らなかった席のカップを両手で持ち上げる。底には、わずかな湯気の跡が残っていた。
「透」
「なに」
「栞の名前を呼ぶなら、死んだ子どもの名前としてじゃなくて、そこにいた子の名前として呼んで」
「どう違う」
「死んだ子どもの名前は、過去へ置いていくために呼ぶ。そこにいた子の名前は、今いる私たちが受け取るために呼ぶ」
みどりはカップを布で拭った。
「呼んだあと、何かが戻ってくるとは限らない。でも、呼ばなければ、誰かが代わりに別の名前をつける。行方不明、事故関係者、町の恥。そういう名前で、栞のいた場所を埋めてしまう」
私は写真の少女を見た。
赤い紐を手首に巻き、こちらではなく、写真の外を見ている。
私は初めて、声に出して名前を呼んだ。
「早瀬栞」
店の中で、その名前は思ったより小さく響いた。
けれど、みどりは目を逸らさなかった。
窓の外では、夕暮れの跨線橋が、濡れた鉄の色を深くしていた。駅舎の向こうに沈む光が、舗道の水たまりへ細く伸びている。
私は箱の中身を元の順番へ戻した。
切符を台紙へ置き、花を紙ナプキンで包み、紙片を文字が内側になるよう二つ折りにする。麻紐は結び直さず、そのまま封筒へ収めた。ほどけたものを、同じ形へ戻す必要はないと思った。
店を出ると、みどりが後ろから声をかけた。
「透」
振り返る。
「次は、誰かと一緒に来て」
「藤堂さんか」
「誰でもいい。ひとりで記録を抱えないで」
私は頷いた。
帰り道、空は暮れかけていた。跨線橋の階段を上ると、濡れた鉄の匂いが強くなった。手すりには、赤い錆が細い筋になっている。
その上に、赤い麻紐が一本だけ結ばれていた。
風に揺れているわけではない。けれど、端の三ミリだけが、階段の下を指していた。
私は触れなかった。
ただ、そこにある形を目で確かめた。
駅舎へ戻ると、私は台帳を開いた。
今日の証言を書いた頁の端に、まだ細い余白が残っている。
私はそこへ、もう一行だけ加えた。
早瀬栞。名を確認。
その文字の下に、赤鉛筆で線を引いた。
線は少し曲がった。
私は書き直さなかった。歪んだ線もまた、書いた手の記録だった。
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