6話 町史編纂室の余白

町史編纂室へ向かう坂道は、雨のあとだけ歩幅を乱す。

舗装の割れ目に水が残り、靴底がそこへ触れるたび、薄い泥が跳ねた。役場へ続く石垣には苔が広がり、古い掲示板の画鋲だけが、紙を失ったまま錆びている。かつて炭鉱の求人や臨時列車の時刻が貼られていた場所だと、みどりから聞いたことがある。今は町営バスの減便案内が一枚、風にめくれていた。

私は封筒を胸元に抱えていた。

中には、保線倉庫で沢村から受け取った配線図の写しと、事故当日のメモを撮影した紙が入っている。藤堂に渡す前に、町史の記録と照合する必要があった。配線図に描かれた線路が本当に存在したのか。沢村の記憶が、煤と後悔の中で形を変えたものではないのか。私は、ひとつの証言だけで人を疑うことを避けたかった。

けれど、坂を上るほど、足元よりも封筒の重さが気になった。

紙は薄い。中身も、数枚の複写にすぎない。それでも、町が長いあいだ押さえつけてきたものが、そこへ折り畳まれているように感じた。

役場の奥にある編纂室の扉は、半分だけ開いていた。

ノックをすると返事がない。私はもう一度、少し強く叩いた。

「どうぞ」

白石澪の声がした。

室内は駅舎より乾いていた。窓は閉め切られ、古い除湿機が低く唸っている。紙の匂いに、糊と防虫剤の匂いが混ざっていた。棚は天井近くまで届き、背表紙の色はほとんど同じだ。白、灰、褪せた青。そこに年代の違う資料が、同じ顔をして並んでいる。

白石は机の上に資料を広げ、三度、角を揃えていた。

「お待たせしました」

「待ってはいません」

「それでも、時間を取っていただきます」

「こちらが頼んだことです」

彼女はそう言って、私の持つ封筒を見た。封の糊跡へ一瞬だけ視線を落とし、それから机の端へ薄い布を敷いた。

「資料は、直接その上へ置いてください。紙粉が付着します」

私は封筒から配線図の写しを出した。

白石はすぐに手を伸ばさなかった。まず紙の厚みを確かめ、角の擦れ方を見て、裏返す。印刷された線よりも、紙そのものを見ている。

「これは複写ですね」

「原本は保線倉庫にありました」

「沢村さんが保管していたものですか」

「本人は、事故の前に自分が見た図面だと言っています」

「本人が、そう言った」

「疑う理由がありますか」

「疑わない理由もありません」

白石は配線図を机の中央へ移した。線路の描かれた部分を指先で押さえ、駅舎裏から炭鉱側へ伸びる細い線を追った。

「この分岐は、町史に収録した図面にはありません」

「存在しなかった?」

「そうは言っていません。記録に載っていないということです」

「では、なぜ載せなかった」

白石は配線図から指を離し、ペン先を布で拭った。

「町史は、すべてを残す場所ではありません」

「駅の構造を記録するなら、あったものは残すべきでしょう」

「構造と呼べるほど正式なものではなかったのでしょう。臨時の搬送路、私設の引込線、工事の途中で使われなくなった分岐。町には、図面から外されるものがいくらでもあります」

「事故の日に使われた可能性があるものも?」

白石は一拍置いた。

「桐生さん。あなたは、記録があることを正しさの証明にしている。でも、記録されていないものが存在しなかったことにはなりません。逆に、記録されているからといって、その記述が事実の全部とも限らない」

「それは、町史にも言えることですか」

「言えます」

即答だった。

声は静かだったが、その静けさの底に、紙を裁断する刃物のような硬さがあった。

「町史は、町の顔です。顔は傷を隠すことがある。けれど、隠した傷が消えるわけではない。だから私は、記録を整えるとき、何を残し、何を外すかを選ばなければならない」

「選ぶというのは、削ることですか」

「削る場合もあります」

「人の名前を?」

白石の指が止まった。

私は持ってきた事故記録の複写を、配線図の隣へ置いた。

「ここを見てください」

複写は、深見炭鉱事故に関する町史の抜粋だった。発生日時、坑内の崩落、負傷者数、救助活動。そこに早瀬栞の名前はない。行方不明者については、事故とは別の欄に、家出として一行だけ記されている。

白石は複写を手に取り、光へ透かした。

「これは、こちらで公開している版ですね」

「はい」

「原本ではありません」

「だから、原本を見せてください」

白石は資料を閉じず、そのまま机の上で角を揃えた。紙と紙の端が触れ合う音がした。

「なぜです」

「紙質を確かめたい」

「紙質だけですか」

「書き換えの有無も」

彼女は眼鏡の位置を直した。

「書き換えがあったとして、あなたは何をするつもりですか」

「藤堂さんへ渡します」

「警察に?」

「記録の不整合が事件に関係するなら」

「事件にしたいのですか」

「したいのではありません。事件である可能性を、最初から消したくない」

「それは言葉の問題です。実際には、町の過去を警察へ持ち込むということでしょう」

「町の過去ではありません。早瀬栞というひとりの人間が、いつ、どこから消えたかという問題です」

白石は私を見なかった。視線は、事故記録の複写に固定されていた。

「ひとりの人間の名前を戻せば、すべてが救われると思いますか」

「思いません」

「家族は、名前が戻ったことで四十年前の時間を取り戻せますか。町は、責任を認めれば崩れずに済みますか。あなた自身は、記憶の空白を埋めれば以前の自分へ戻れるのですか」

「戻る必要はありません」

「簡単に言わないでください」

初めて、白石の声に揺れが混じった。

「記録を開くというのは、閉じていた傷口を開くことです。そこには、亡くなった人だけでなく、残った人の暮らしも詰まっている。炭鉱が閉じたあと、この町に残った人たちは、事故の責任を考える余裕などありませんでした。仕事を失い、家を売り、子どもを転校させ、食べていくことだけを考えた。町の名が事故と結びつけば、外から来る人間は面白がって覗き込み、残った者は見世物になる。だから、記録を整えた。傷を広げない形にした」

「その整え方で、名前を失った人がいる」

「ええ」

白石はそう言った。

否定しなかったことが、かえって重かった。

「それでも、何も残さないよりはましだと思ったのです。歪んでいても、町の記憶を形にしておけば、いつか誰かが継ぎ目に気づく。完全に消してしまえば、探す場所さえなくなる」

「気づくまでに、四十年かかりました」

「あなたが気づいたのは、今年でしょう」

「私が遅かっただけです」

「違います」

白石はようやく顔を上げた。

「あなたが遅かったのではありません。あなたが、見ないで生きられるようにされていたのです」

その言葉が、書庫の乾いた空気を変えた。

私は指先で、配線図の端を押さえた。紙は冷たく、煤の粒が複写の表面にざらついている。

「誰に」

「それを、私に言わせたいのですか」

「知っているなら」

「知っていることと、証明できることは違います。私は、事故のあとに資料を整理した人たちの名前を知っています。けれど、その人たちが何を考えていたのかまでは知りません。町を守ろうとしたのか、自分を守ろうとしたのか、誰かに命じられたのか。ひとつの動機にまとめれば、記録はまた別の形で嘘になります」

「では、原本を見せてください。私が判断します」

白石は、長いあいだ黙っていた。

書庫の奥で、除湿機の水が落ちる音がした。一定の間隔で、金属の受け皿を叩いている。

やがて彼女は立ち上がり、最も奥の棚へ歩いた。

鍵束から小さな鍵を選び、棚の下段を開ける。中には黒い箱があった。箱の角には焼け跡があり、蓋の表面だけが新しい布で補修されている。

「これは、公開していない資料です」

白石は箱を机へ運んだ。持ち上げるとき、両手を使った。置くときも、音を立てないようにそっと下ろす。

「事故当時の町史原稿、役場の回覧、名簿の控え。すべてではありません」

「なぜ私に?」

「あなたが、ここまで来たからです」

箱の中から、白石は一冊の帳面を取り出した。表紙は黒く、背の部分だけが擦れて灰色になっている。事故関連の記録帳だった。

彼女は頁をめくった。

記録は、日付順に並んでいた。事故発生、救助、炭鉱の操業停止、町役場の会議。だが途中で、紙の色が変わる。前後の頁が黄ばんでいるのに、二枚だけ白さが残っていた。

継ぎ目に沿って、薄い糊の線がある。

私は身を寄せた。

白い頁には、事故当日の負傷者名簿が写されていた。人数は町史に記された数と一致しない。ひとり多い。

名の欄には、途中まで文字が残っていた。

早……

その下は、削られている。

紙の表面を刃物か硬い金属でこすった跡が、斜めに走っていた。削り取られた繊維が毛羽立ち、そこだけ光を吸っている。白石はその余白へ薄い布を置いた。傷を隠すためではなく、これ以上紙粉が落ちないようにするためらしかった。

「ここだけ、紙が違います」

「はい」

「名簿の一行が削られている」

「はい」

「早瀬栞の名前ですか」

白石は答えなかった。

「答えられないのですか」

「答えたくないのではありません。私が見た原本には、名前が最後まで残っていなかった。早瀬という姓の一部だけがあった。栞という名は、別の書類から照合したものです」

「その別の書類を」

「今は見せられません」

「なぜ」

「まだ、私の中で整理がついていないからです」

「記録を扱う人が、整理がつくまで隠すのですか」

「あなたは、記録する人間なら迷ってはいけないと思っている」

「迷うことと、隠すことは違います」

「本当に?」

白石の指が、帳面の端で止まった。

「私が若い頃、先代の編纂担当者から言われました。町史は墓場ではない。死者を並べて、生きている者に罪を見せるためのものではない、と。私はその言葉を信じました。誰かの家が壊れるなら、少し削ってでも残す。誰かが町を捨てるなら、言わなくてもいいことを外す。そうして記録を守ってきたつもりです」

「でも、削った頁は残っています」

「ええ。残っている」

「なぜ捨てなかった」

白石は、帳面の余白を見つめた。

「捨てれば、私たちは本当に何も知らなかったことになるからです」

その声は平坦だった。けれど、平坦であろうとする努力が、むしろ彼女の疲れを伝えていた。

「町を守るために削ったのなら、削った痕跡まで残す必要はなかったはずです」

「誰かが、いつか見ると思ったのかもしれません」

「白石さん自身が?」

「分かりません」

「では、誰が削ったのですか」

白石は箱の中へ手を入れ、別の紙束を取り出した。

「この頁の紙は、役場の標準用紙ではありません。事故の翌年、町史の初稿を作るときに差し替えられたものです。紙の仕入れ記録を調べると、発注者は当時の総務係でした」

「真鍋宗一」

白石は否定しなかった。

「真鍋さんは、記録の並びを整えるのが上手でした。異なる証言をひとつの文章にまとめ、複数の日付を一日に揃え、責任の所在を曖昧にする。嘘をつくというより、矛盾を見えなくする人でした」

「その指示に、白石さんも従った」

「私は当時、補助でした。拒める立場ではなかった」

「今は?」

「今も、町史編纂室の職員です」

それだけで十分な返答だった。

白石は、帳面の次の頁を開いた。そこには駅前の写真の複写が挟まっていた。みどりが見せたものとは別の写真だった。

駅前に人が集まっている。商店の看板、深見駅の屋根、濡れた路面。写真の左端に、栞が立っていた。手首には赤い紐。少し離れたところに、幼い私がいる。

私は写真を受け取らなかった。

「これも、事故の前日ですか」

「裏書きには、そうあります」

白石は写真を裏返した。

日付の下に、鉛筆で短い文字があった。

七月六日。駅前。早瀬栞、桐生透。

私の名前が、そこにあった。

ひらがなでも、略称でもない。戸籍に記された漢字で、はっきりと。

呼吸が浅くなった。

「この記録は、誰が書いた」

「分かりません。ただ、事故後に整理された写真の複写です」

「なぜ、私の名前が」

「あなたがそこにいたからでしょう」

「事故の日にも?」

「その写真は前日です」

「栞と一緒にいたことを、私は覚えていない」

「記憶にないことと、存在しなかったことは別です」

みどりと同じ言葉だった。

けれど、白石の口から聞くと、それは慰めではなく、書類の欄外に押された判定のように響いた。

「私の家族について、何か記録がありますか」

白石は写真を机へ戻した。

「あります」

「見せてください」

「今は、できません」

「また、今はですか」

「あなたは、すぐに全部を見ようとする。けれど、資料は順番を間違えると、人を壊します」

「資料が人を壊すのではありません。隠した人間が壊すんです」

白石の眉が、ごくわずかに動いた。

「その言葉を、真鍋さんにも言えますか」

「会えるなら言います」

「真鍋さんは、もう町役場にはいません」

「どこにいるかは分かるでしょう」

「分かります」

「教えてください」

「教えません」

私は立ち上がりかけた。

白石は手を上げなかった。ただ、机の上の黒い帳面を閉じた。厚い表紙が頁を押さえつけ、紙の内部で空気が抜ける音がした。

「あなたが真鍋さんを責めることは、簡単です。私も、沢村さんも、北見さんも、責める理由を持っています。けれど、責める相手をひとりに絞れば、町はまた安心して眠れる。真鍋だけが悪かった、あの人間が記録を歪めた、私たちは仕方なく従った。そういう形に整えてしまえば、今度は私たちの沈黙が消える」

「消えてはいけない」

「ええ」

白石は答えた。

「だから、あなたに見せたのです。全部ではない。けれど、削られた頁と、差し替えられた紙と、あなたの名前だけは。これで十分とは思っていません。ただ、最初から全体を渡せば、あなたは真鍋を探しに走り、栞がどこにいたかを見失うでしょう」

「栞の居場所を知っているのですか」

「知っているのは、記録の上での移動だけです」

「それでも、教えてください」

白石はしばらく私を見た。

「駅前から、駅舎裏へ。午後三時四十分頃。そこから先は、町史にはありません」

沢村のメモと同じ時刻だった。

白石はその一致を、私の顔から読み取ったのかもしれない。

「沢村さんが、そう言ったのですね」

「はい」

「なら、次に見るべきは、事故記録ではなく、駅の運行記録です。臨時停車の有無、封鎖の時刻、役場車両の出入り。人の記憶より、順番を確認してください」

「白石さんは、何を隠していますか」

「隠しているのではありません」

「では?」

彼女は黒い帳面を箱へ戻した。

「まだ、持ち主が決まっていない記録です」

「記録にも持ち主がいるのですか」

「あります。名前を削られた人間がいるなら、その記録は町のものではない。その人のものです。私たちは長いあいだ、勝手に預かっていた」

その言葉に、私は遺失物棚を思い出した。

持ち主の分からない切符。煤けた弁当箱。誰かの手の温度が抜けきらない品。私はそれらを駅のものとして保管してきたが、本当は、駅が預かっているだけだった。

白石は箱の蓋を閉じ、焼け跡のある鍵を掛けた。

「この記録は、持ち出せません」

「では、もう一度来ます」

「来るでしょうね」

「次は藤堂さんと一緒に」

「それがよいと思います」

私は封筒を持ち直した。帰ろうとして、机の端に置かれた写真へ目をやる。幼い私は、栞のほうを見ていなかった。地面の何かを拾おうとしている。栞はその少し先で、こちらを振り返っていた。

名前を呼ばれるのを待っているように見えた。

私は写真の複写を指差した。

「この写真を、写し取ってもいいですか」

「複写は渡せません」

「理由は」

「裏書きの一部が、別の資料と照合できていないからです。確定していないものを、あなたの記憶の穴へ入れたくない」

「私の記憶は、もう空白のままではありません」

「空白に見えないものを詰めることと、埋めることは違います」

私はそれ以上、言わなかった。

白石は写真を布で包み、箱の中へ戻した。栞の赤い紐が、黒い布の上で一瞬だけ見えた。細く、濡れた血のような色だった。

部屋を出ると、廊下は薄暗かった。役場の窓から入る午後の光が、床のワックスに白く伸びている。遠くで職員の電話が鳴り、誰かが短く笑った。町の仕事は、過去の傷とは無関係な顔で続いていた。

坂を下りる途中、雨がまた降り始めた。

私は傘を開かなかった。湿った風が頬を撫で、役場で嗅いだ防虫剤の匂いを洗い流していく。代わりに、濡れた木と、遠い煤の匂いが戻ってきた。

深見駅の屋根が見えた。

駅舎の窓は閉まっている。遺失物棚の切符も、弁当箱も、誰かの帰りを待つように、決められた場所に置かれているはずだった。

けれど私は、町史編纂室で見た一行を思い出していた。

七月六日。駅前。早瀬栞、桐生透。

私の名前は残っていた。

栞の名前は、削られていた。

駅舎へ戻ると、私は濡れた封筒を机の上へ置き、遺失物台帳を開いた。町史の記録について書く欄はない。事故の名簿に何人いたかを書く場所も、削られた名前を写す場所もない。

それでも私は、今年の小包の控え紙の裏へ、見たものを記した。

町史編纂室にて、事故当日の名簿を確認。  頁の紙質に差異あり。  名簿一名分、削除痕。  別紙複写に、早瀬栞および桐生透の名を確認。  日付、七月六日。

最後の行を書き終えたところで、私はペンを置いた。

その下に、もうひとつ書くべきことがある気がした。

白石澪、原本を保管。

私はしばらく迷い、書かなかった。

書けば、白石を疑う記録になる。書かなければ、彼女が何を守ろうとしているのかを見失う。私はその間で、赤鉛筆の先を紙へ触れさせたまま動かせずにいた。

やがて、台帳の余白に小さく記した。

資料は、廃棄されていない。

雨が窓を打ち始めた。

私は駅舎の窓を少しだけ開けた。濡れた木の匂いが入り、紙の乾いた匂いと混ざる。机の上では、私の名前と栞の名前が、四十年の空白を挟んで並んでいた。

栞の名を、私はまだ声に出していない。

けれど、書かれた名前は、もう一度削ることができなかった。

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