第10話 返される順番

慰霊碑へ向かう坂道は、雨を含んで柔らかくなっていた。
藤堂は先を歩き、私はその少し後ろを歩いた。道の両側には伸びきった笹が張り出し、濡れた葉が肩へ触れるたび、冷たい水が首筋へ落ちてくる。山の奥から、金属を擦るような音が聞こえていた。風ではない。どこかで古い看板か、壊れた扉が揺れている音だった。
旧炭鉱事務所は、慰霊碑の裏手にあった。
屋根の一部が落ち、窓は板で塞がれている。入口だけが新しい錠に替えられていた。錆びた壁の前に、黒い傘が一本立てかけられている。
藤堂は手帳を開いた。
「真鍋さんが、ここにいるという根拠は?」
「白石さんの証言だけです」
「そうですね」
藤堂は錠を見た。
「確かめます」
扉を叩いた。
返事はなかった。
もう一度叩く。今度は奥で何かが倒れる音がした。短く、乾いた音だった。
「真鍋さん。藤堂です。確認したいことがあります」
沈黙のあと、錠が外れた。
扉を開けたのは、白髪の男だった。背は高くない。薄い灰色のシャツを着て、袖口のボタンをきちんと留めている。役場の古い写真で見た顔より、頬が落ちていた。
それでも、目だけは穏やかだった。
「警察の方が、こんな場所へ何の用でしょう」
「中へ入っても?」
「荒れていますよ」
「構いません」
真鍋は扉を大きく開いた。
事務所の中には、机と棚が一つずつ残っていた。棚の上には、空のファイル箱が年代順に並べられている。机の中央には、布で包まれた細長い箱が置かれていた。
私は、その結び目を見た。
赤い麻紐だった。
撚りは小包のものと同じで、端の三ミリだけが長く残されている。
真鍋は私の視線に気づいたようだったが、箱を隠そうとはしなかった。
「桐生さんも一緒ですか」
「桐生透です」
「存じています。深見駅の遺失物係でしたね」
「今もそうです」
「そうでしたか」
真鍋は微笑んだ。
「では、物を返しに来られた」
「返すために、持ち主を確認しています」
「持ち主が分からない物もあるでしょう」
「分からないままにしてはいけない」
私が言うと、真鍋の目の奥から、わずかに笑みが消えた。
「それは、誰のためですか」
「物を失った人のためです」
「失った人が、もういない場合は?」
「いない人にも、名前はあります」
言葉を置くと、事務所の奥で雨水が一滴落ちた。床の金属皿に当たり、薄い音がした。
藤堂が机の前へ進んだ。
「早瀬栞さんについて、確認します」
「古い話です」
「古いから確認する必要があります」
「記録は残っています。彼女は事故の前日に家を出て、その後、行方不明になった。町史にも、警察の記録にも、そうあります」
「駅務日誌には、事故前日の七月七日に、少女が駅裏へ向かったとあります」
「駅務員の記憶違いでしょう」
「保線員の供述もあります」
「自分の責任を軽くするための話では?」
「町史の頁を差し替えたのは誰ですか」
真鍋は答えなかった。
藤堂は手帳から写真を出し、机の上へ置いた。駅務日誌の剥離痕、受付印の残る紙片、配線図の金具。真鍋は順に見たが、どれにも触れなかった。
「証拠というほどのものではありませんね」
「ええ。単独では」
「なら、何をしに来たのです」
「複数の記録が、同じ方向を指しているからです」
藤堂の声は低かった。
「七月七日、線路に異常があった。臨時停車があった。乗車予定者が乗せられなかった。駅裏へ少女が向かった。翌日、事故が起きた。少女は事故記録から外され、日付は一日ずらされた。あなたは当時、町役場の総務係でした」
「町を守る必要がありました」
真鍋は、あまりにも自然にそう言った。
その言葉を聞いた瞬間、私はみどりの店で見た三つ目のカップを思い出した。誰かを守るために置かれた席。けれど、守るという言葉は、時に座る場所ごと奪う。
「町を守るために、栞を消したのですか」
「消したのではありません。混乱を防いだ」
「名前を名簿から抜くことが?」
「事故の被害者ではなかったからです」
「事故の現場にいた」
「確認できていない」
「あなたが確認させなかった」
真鍋は私を見た。
目が合っただけなのに、胸の奥が冷えた。幼いころ、誰かに袖をつかまれて歩いた記憶が、濡れた布のように浮かんだ。隣には赤い紐があった。前を歩く大人の手には、黒い帳面があった。
「桐生さんは、何か思い出しましたか」
「あなたは、私を知っていた」
「駅前の子どもは、たいてい知っています」
「栞も?」
「もちろん」
「私の母も?」
真鍋は一拍置いた。
「あなたのお母さまは、取り乱していました」
「栞を探していた」
「多くの人が、あの子を探していました」
「あなたは探さなかった」
「私は、町全体を見ていた」
その言葉に、藤堂がペンを止めた。
「町全体を見るために、個人の名前を消した」
「一人の名前を残せば、炭鉱会社、役場、鉄道、保線。責任の所在を巡って町は割れていたでしょう。失業者も出ていた。補償が止まれば、残った家族まで生活を失う。私は、全体を壊さないために必要な処置をした」
「栞さんを通路へ追い込んだことも、処置ですか」
真鍋の指が、初めて動いた。
机の上の赤い紐を、端から端までまっすぐに伸ばす。
「私は、あの子を追っていません」
「沢村さんは見たと言っています」
「逃げたのは、あの子自身です」
「あなたが道を塞いだから」
「危険な場所へ入るなと注意しただけです」
「では、なぜ救助記録に名前がない」
「確認できなかったからです」
「確認できなかったのではなく、確認しなかった」
藤堂の声が、わずかに硬くなった。
真鍋は反論しなかった。代わりに机の箱へ手を置いた。
「田沼さんから聞いていないのですか」
「何を」
「小包のことです」
私は息を詰めた。
「あなたが送っていたのですか」
「私ではありません」
「では、なぜ知っている」
「始めたのが誰かを知っているからです」
真鍋は箱を開けた。
中には、古い切符、押し花、封筒、赤い紐、そして小さな鈴が入っていた。
鈴を見た瞬間、耳の奥で音がした。
遠い線路の向こうから、かすかに呼ばれたような音だった。
「これは、栞さんが持っていたものです」
真鍋が言った。
「事故のあと、通路の入口で見つかりました。彼女が誰かに渡そうとしていたのでしょう」
「誰に」
「あなたに、ではありません」
真鍋の声が、初めて揺れた。
「あなたのお母さまにです。栞さんは、あなたのお母さまへ紙を渡そうとしていた。紙には、事故前の線路異常と、役場が搬送路を使わせたことが書かれていた。あなたのお母さまは、それを受け取る前に、栞さんを失った」
私は鈴へ手を伸ばさなかった。
触れれば、何かが決まってしまう気がした。
「小包は、誰が送った」
「田沼さんです。途中からは、何人かが手を貸した」
「あなたは?」
「私は、返せる物を返しているだけです」
「返している?」
「栞さんのものを、あなたのところへ」
真鍋は鈴を布の上へ置いた。
「告発ではありません。あの子が残したものを、順番に戻している」
「あなたが、順番を決めた」
「ええ」
「名前を消した人間が、返す順番まで決めるのか」
真鍋は答えなかった。
その沈黙は、北見や白石のものとは違っていた。責任を抱えた沈黙ではない。自分がまだ手順の中心にいると信じている人間の沈黙だった。
藤堂が箱の中の封筒を確認した。
「これは任意提出でよろしいですね」
「持っていってください」
「真鍋さん」
「私は、町を守ろうとした」
「その判断の結果を、あなた一人の言葉で決めることはできません」
藤堂は鈴を証拠袋へ入れた。
私は、赤い紐を見た。
結び目の端が、三ミリだけ長い。
栞は、物を渡す前に一度だけ相手の顔を見たという。ならば、この鈴も、誰かの顔を見てから手放されたのだろう。
私は真鍋ではない誰かの顔を、思い出そうとした。
けれど、まだ見えなかった。
事務所を出ると、慰霊碑のほうから風が吹いた。雨の匂いに混じって、乾いた花の匂いがした。
藤堂が証拠袋を閉じる。
「次は田沼さんから話を聞きます」
「小包のことを?」
「それと、栞さんが最後に誰へ何を渡そうとしたのか」
私は頷いた。
坂の下に、深見駅の屋根が見えている。
駅へ戻れば、まだ台帳の空白が残っている。けれど、その空白は以前のように何もない場所ではなかった。削られた繊維、糊の跡、誰かの指の温度が、確かに残っている。
私は鈴の入った証拠袋を見た。
音はしなかった。
それでも、失われた名前のそばで、何かがようやく持ち主へ向かって動き始めていた。
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