第9話 佐伯義人の咳

佐伯義人の家は、駅から少し離れた坂の途中にあった。
坂の両側には、雨を吸った石垣と、古い木造家屋が並んでいる。軒先の鉢植えには水が溜まり、葉先が重たそうに垂れていた。私は傘を閉じ、玄関脇の壁へ立てかけた。雨粒が傘の骨を伝い、石の上に細い輪をいくつも作った。
表札の「佐」の字だけが、墨を重ねたように濃い。消えかけた文字を、誰かが何度も塗り直した跡だった。
呼び鈴を押す。
家の奥で、何かが倒れる音がした。しばらくして、咳払いが一つ。
「開いている。入れ」
声は低く、乾いていた。
玄関を上がると、湿った畳と薬の匂いがした。廊下の突き当たりでは、小さな石油ストーブの上で湯が沸いている。壁際には新聞の切り抜きが年代順に束ねられ、薬袋は薬袋でまとめられていた。眼鏡ケースは机の右隅、湯飲みは左隅。散らからないようにしているというより、散らかることを許さない部屋だった。
窓辺に佐伯が立っていた。
濃紺のカーディガンの肩が落ち、片手に湯飲みを持っている。外の雨を見ていたらしく、私が入ってもすぐには振り向かなかった。
「篠崎です」
「分かっている。源蔵さんの孫だろう」
「祖父とお会いしたことが?」
「何度か。お前が小さいころにも見た。源蔵さんの後ろに隠れて、こっちを見ていた」
「覚えていません」
「覚えていないほうがいいこともある」
佐伯はようやくこちらを向いた。頬は痩せていたが、目の周りには昔の刑事らしい硬さが残っている。私の顔を見てから、彼はすぐに窓の外へ視線を戻した。
「茶を飲むか」
「いただきます」
「薄いぞ。病院帰りの茶は、湯のほうが多い」
「構いません」
佐伯は急須を持ち上げ、二つ目の湯飲みへ茶を注いだ。色は薄く、湯気だけが立った。
「砂糖はない。昔は刑事も甘いものを飲んだが、今は血圧が許さん」
私は鞄から資料を出した。青柳写真店で複写したフィルム、町内会名簿の改訂部分、電報の控え。濡れないよう一枚ずつ薄紙に包んである。
佐伯は机の上を空けるため、新聞の束を持ち上げた。いったん中央へ置き、すぐに左端へ戻す。その動きが、祖父の手つきと重なった。
私は資料を一列に並べた。
写真、名簿、電報。
佐伯の喉が小さく鳴った。
「写真は、青柳のところか」
「はい。失踪当夜の坂道を写したものです。三人の影があります」
「三人?」
「若い女性と、工場帰りらしい男。それから、画面の端で切れた人影です」
佐伯は湯飲みに口をつけた。薄い茶を飲み込むまでに、妙な時間がかかった。
「写真は、証拠にならん」
「証拠とは言っていません。記録です」
「同じことだ」
「違います。証拠にするには、撮影時刻や撮影者を確認しなければならない。ですが、記録なら、何が写り、何が切られたのかを考える材料になる」
私は写真の右端を指した。
「ここは、あとから切られています。青柳さんは、祖父が切ったと言いました」
佐伯の指が、机の端を一度なぞった。
「源蔵さんが?」
「たぶん、と」
「青柳は、たぶんで話す男じゃない」
「五十年前の記憶です」
「だから余計に、細部だけは残る」
窓を雨が斜めに流れていた。医院の屋根から落ちた水が、金属の樋を一定の間隔で叩いている。
「朝倉ミツエは、失踪だったんですか」
私は訊いた。
佐伯はすぐには答えなかった。湯飲みを机へ置き、少しずれた位置を指で直した。
「たしか……」
そこまで言うと、咳が出た。
一度では終わらない。背中を丸め、左手で胸を押さえる。私は立ち上がりかけたが、佐伯が手を上げて制した。
「大丈夫だ。年寄りの咳は、返事をしたくないときにも出る」
「質問を変えます」
「変えるな。変えたら、また最初から逃げることになる」
「では、答えてください」
「失踪かどうかは、最初から分からなかった。家出の可能性もあった。男と駆け落ちした、仕事が嫌になった、家族と揉めた。そういう話は、どの町にもある」
「ミツエさんにも、その可能性があった?」
「可能性は、誰にでもある」
「でも、彼女は何かを見た」
佐伯の目が、写真の女の影へ落ちた。
「誰から聞いた」
「佐伯さんの反応からです」
「反応で事件を作るな」
「作ってはいません。名簿の空白と、電報の順番と、写真の切断面を並べているだけです。三つとも、同じ方向を向いている」
「紙は方向を向かない」
「人が向けたんです」
佐伯は口を閉じた。
怒ったようには見えなかった。言葉を探しているのではない。言葉を出したあと、何が壊れるかを測っている顔だった。
「ミツエは、工場の帳面を見ていた」
「帳面に不正があった?」
「不正という言い方は、あとからならできる。あの頃は、数字を合わせるためのやり方と呼ばれていた」
「何の数字ですか」
「原料の仕入れ、製品の出荷量、賃金の計算。細かいところで数字が合わなかった。少しずつなら誰も騒がない。だが積み上がれば、誰かが金を抜いていたことになる」
「北条家が関わっていた?」
佐伯は咳払いをした。
「北条は工場の所有者ではない」
「所有者でなければ、関係がない?」
「そうは言っていない」
「では、何を言っているんです」
「北条は、町の金の流れを止めたり、流したりできる人間だった。工場の経営者、町内会、銀行、警察。直接命令しなくても、誰かが先に顔色を見る。そういう位置にいた」
佐伯は湯飲みを両手で包んだ。指先が小さく震えている。
「事件のあと、北条は町の顔役を集めた。工場の主人、町内会長、商工会の連中。それから私も呼ばれた」
「北条家へ?」
「離れだ。雨が降っていた。畳が湿って、座布団の端が冷たかった」
「何と言われたんです」
「町のために、騒ぎを大きくしないほうがいい、と」
「それだけですか」
「それだけで十分な人間もいる」
「佐伯さんは?」
「捜索を続けると言った」
「続けたんですか」
佐伯は答えなかった。
私は名簿を写真と電報の間へ移した。三枚の紙が一直線になる。佐伯はその並びを見て、目を細めた。
「捜索はした。工場の裏、川沿い、銭湯、親類の家。だが、北条のところへ行ったあと、上から方針が変わった」
「どんな方針に?」
「事件性が薄い。本人の意思による失踪の可能性が高い。家族もそれを望んでいる。そういう文言になった」
「家族が望んだ?」
「誰かが家族へ話をしたんだろう。家出にしておけば、ミツエの弟は工場に残れる。母親は町に住み続けられる。そういう説明だった」
「それを信じたんですか」
「信じたわけじゃない」
「では、なぜ署名した」
佐伯は目を閉じた。
「署名したことは覚えている。理由は、もう正確には覚えていない」
「記憶が曖昧なんですか」
「そうではない。理由を思い出すと、今でも自分が署名する瞬間へ戻る。だから、記憶が曖昧になったふりをしている」
その言葉は、咳より苦しそうだった。
私は責める言葉を飲み込んだ。追うべきだった。記録を残すべきだった。警察官ならそうするべきだった。だが、それを口にすれば、佐伯が五十年抱えてきたものを、正義という薄い布で覆うことになる。
「祖父は、その場にいたんですか」
私は訊いた。
「いた」
「何をしていました」
「黙っていた」
「それだけ?」
「お前の祖父は、ああいう場ではよく黙った。反対しているのか、賛成しているのか、最後まで分からない黙り方だった」
「祖父はミツエさんを見捨てたんですか」
「違う」
初めて、佐伯の声に強いものが混じった。
「違うと言い切れるんですか」
「源蔵さんは翌朝、私のところへ来た。捜査本部ではなく、署の裏口へ回ってきた。濡れた靴のまま立っていた。手に封筒を持っていた」
灰色の封筒が脳裏に浮かんだ。宛名の「朝」の一画。封の甘さ。内側に貼りついた細長い影。
「その封筒は、ミツエさん宛てだった?」
「知らない」
「見たんでしょう」
「宛名までは見ていない」
「祖父は何と言ったんです」
「何も言わなかった。封筒を出して、またしまった。それから、私にこう聞いた」
佐伯はそこで一度、目を伏せた。
「家族に話せば、あの人は戻りますか、と」
「佐伯さんは?」
「戻らない、と言った」
「なぜ、そんな答えを」
「刑事の言葉ではないな」
「でも、言った」
「そうだ。戻らない。話したところで、消えた人間が戻るわけではない。そう言ってしまった」
佐伯は冷めかけた茶を飲んだ。
「今なら分かる。源蔵さんが聞いていたのは、ミツエのことだけじゃない。家族を巻き込まずに、見たことを残す方法があるかと聞いていた。私は、それを聞き取れなかった」
私は資料へ手を伸ばしかけ、止めた。
「北条は、祖父に何をしたんですか」
「何かをした、という形ではない」
「脅した?」
「脅しは、言葉にした時点で弱くなる。北条は、源蔵さんの息子――お前の父親が工場の帳簿を扱う仕事をしていたことを知っていた。騒ぎを起こせば、横領の疑いをかけられる。証拠は作れる、と言った」
「父に罪を着せると」
「そういう意味だ」
「それだけで、祖父は黙った?」
「お前は、家族の一人が明日から犯罪者として扱われるかもしれないと言われたら、黙らないのか」
「黙りません」
「今のお前なら、そう言うだろう」
佐伯は私を見た。
「だが、当時の源蔵さんには、ほかにも守るものがあった。ミツエの家族だ。町を出れば追われる。残れば仕事を失う。騒げば、誰かの罪が別の誰かへ移される。北条は、そういう移し替えを人の良心にやらせるのがうまかった」
「だから祖父は、手紙を投函しなかった」
「手紙を書いたのか」
「見つけました」
「そうか」
佐伯は目を伏せた。
「書いたなら、投函すべきだった」
その言葉に、私は初めて佐伯の怒りを聞いた。祖父への怒りなのか、自分自身への怒りなのか分からない。
「あなたは、投函しろと言わなかったんですか」
「言えなかった」
「刑事だったのに」
「刑事だったからだ。警察の中で北条と正面からぶつかる覚悟がなかった。そんな人間が、他人にだけ覚悟を求められるか」
外の雨が強くなった。薄い壁の向こうで水が軒を叩き、部屋の中へ低く響いた。
佐伯は引き出しを開けた。
古い万年筆、薬の包み紙、折れた鉛筆。その奥から、小さな布袋を取り出す。紐をほどくと、掌の上へ灰色のボタンが落ちた。
「現場で拾った」
「ミツエさんの服についていたものですか」
「分からない。上着のものかもしれないし、別の人間のものかもしれない」
「なぜ保管していたんです」
「記録から落ちたものだったからだ」
佐伯はボタンを机の上へ置いた。私が並べた資料の端へ、ぴたりと寄せる。
「現場写真には写っていない。拾得物の一覧にもない。私が手帳へ書き忘れた。だから、せめて捨てなかった」
「それは証拠の保管ですか」
「きれいに言うな。記録に載せるべきものを載せなかった。載せないまま、個人的に持ち続けた。警察官としても、遺族としても、どちらにもなれないやり方だ」
私はボタンへ顔を近づけた。表面に細い赤い繊維が付着している。
「この赤いものは?」
「最初からあった」
「ミツエさんの服に、赤い布の部分は?」
「覚えていない」
佐伯は目を細めた。
「いや。覚えている。袖口の内側に、赤い糸で補修した跡があった」
私はフィルムの中の女を思い出した。雨に濡れた袖口を、片手で押さえていた。赤い補修糸は、写真には映っていない。
「それなら、このボタンはミツエさんのものかもしれない」
「かもしれない。だが、そう書くな」
「なぜです」
「分からないものを分かったことにすると、また記録を曲げるからだ」
佐伯の声が震えた。
「私は五十年前、それをした。自分が見たものを、見たまま残さなかった。北条に言われたからでも、署の命令だからでもない。最後は、自分の手で書き換えた。だから今、お前に同じことをさせたくない」
小さなボタンの中に、雨の夜と、濡れた服と、誰かが踏み出せなかった道が押し込められているようだった。
「ミツエさんは、何を見たんですか」
佐伯の指が止まった。
「そこまでは、まだ……」
「あなたは知っている」
「知っているのではない。気づいていた」
「何に」
「ミツエが、工場の帳簿だけを見ていたわけではないことに」
佐伯は窓の外へ顔を向けた。
「帳簿の数字が合わない理由を追っていた。原料の横流しだけなら工場の中の話で済む。だが、帳簿の端に、別の名前があった」
「北条?」
「名前ではない」
「では?」
佐伯は答えようとした。喉が動き、息を吸い、言葉の最初の音が口元まで上がった。
だが、出てこなかった。
代わりに咳が一度、二度と続いた。佐伯は顔を伏せ、掌で口を覆った。私は背中へ手を伸ばしかけ、やめた。触れることが、相手の逃げ場を奪う気がした。
咳が収まると、佐伯は目を閉じたまま言った。
「源蔵さんに聞け」
「もう亡くなっています」
「だからだ。生きている人間より、死んだ人間のほうが正確に残すことがある」
「祖父は手紙を投函しなかった」
「投函しなかったが、捨てもしなかった」
「それが何だというんです」
「捨てなかった理由を探せ。あの人は、何もかも隠したわけじゃない。隠したもののそばに、必ず別の記録を置いた」
私は書斎の名簿を思い出した。喪中葉書、電報の控え、名前を消された下書き。整いすぎた資料の束。その中に、まだ読んでいない順番がある。
「佐伯さんは、祖父が何を残したか知っているんですか」
「一つだけ」
「何ですか」
「雨の火曜日の夜、源蔵さんは北条の屋敷から帰ってきた。靴は濡れていたが、傘は持っていなかった。手には封筒があった。帰る途中で、誰かに追われたように何度も後ろを見ていた」
「そのあと、祖父はあなたのところへ?」
「いや。家へ戻った」
「なぜそれを知っているんです」
佐伯は答えなかった。
部屋の空気が一段重くなった。彼は見ていたのだ。祖父の帰宅を。あるいは、祖父の家までついて行った誰かから聞いたのだ。
「佐伯さんは、その夜、祖父を見張っていたんですか」
「見張ったわけじゃない」
「では、なぜ」
「北条に頼まれた」
短い言葉だった。そこだけは咳も間もなかった。
「源蔵さんが何か持ち出していないか、確かめろと言われた。私は、確かめた」
佐伯は机の上のボタンを見た。
「だから、私も沈黙の側にいた」
胸の奥に怒りが湧いた。だが、私はすぐには言葉にしなかった。祖父への敬意、佐伯への苛立ち、ミツエへの遅すぎる痛み。どれも角を揃えられず、机の上で重なった。
「追いかけたんですか」
「家まで行った。だが、声はかけなかった」
「何を見た?」
「書斎の灯りが一つだけ点いていた。源蔵さんは机に向かい、手紙を書いていた。書いて、封をして、また開けようとしていた」
「中身を見たんですか」
「見ていない」
「なのに、どうして手紙だと?」
「便箋を折る音がした」
佐伯は濡れた靴先を見下ろした。
「紙を折る音は、雨の中でも分かる。刑事を長くやっていると、そういう余計なことだけ覚えている」
祖父はその夜、手紙を書いた。封をした。開けようとした。佐伯は外でそれを見ていた。北条は、誰かを見張らせていた。
けれど、核心はまだ封の内側にある。
「持っていけ」
佐伯が布袋を私へ差し出した。
「これを?」
「お前が必要だと思うなら」
「証拠ではないと言いましたね」
「そうだ。証拠としてではなく、記録から落ちたものとして持っていけ」
私は受け取らなかった。
「佐伯さんが持っていてください」
「なぜだ」
「あなたが捨てなかったものなら、あなたの記憶と一緒に置かれているほうが正確です。私が持ち帰れば、私の推測のそばに置くことになる」
佐伯は初めて、まっすぐ私を見た。
目に、わずかな驚きが浮かぶ。やがて、疲れたように笑った。
「源蔵さんに似ているな」
「それは、褒め言葉ですか」
「分からん。あの人に似ると、ものを抱え込みすぎる」
「祖父の沈黙を、同じ形では受け継ぎません」
「そう言えるうちは、まだ間に合う」
私は資料を鞄へ戻した。写真、名簿、電報の控え。最後に、ボタンの位置だけを手帳へ記した。
――佐伯義人所蔵。現場拾得。由来未確認。赤色繊維付着。
立ち上がったとき、佐伯が背後から言った。
「篠崎君」
私は振り返らなかった。
「何でしょう」
「ミツエは、失踪したんじゃない」
声は小さかった。雨に紛れそうだった。
続きが来るのを待った。
佐伯は長く黙った。私はその沈黙を急かさずに聞いた。だが、やがて咳が出た。言葉はそこで途切れた。
振り返れば、佐伯は何かを言わなければならなくなる。言えないものを、もう一度喉の奥へ戻すことになる。
私は玄関へ向かった。
外へ出ると、雨は細くなっていた。雲の切れ目から夕方の白い光が落ち、濡れた石畳が鈍く光っている。医院の屋根から雫が一滴ずつ落ち、足元で小さな音を立てた。
傘を開く前に、私は一度だけ振り返りかけた。
やめた。
振り返らないことで、佐伯が言えなかったものを、ほんの少しだけ守れる気がした。けれど同時に、その守りがまた別の沈黙を生むことも分かっていた。
坂を上り始める。
鞄の中で、資料の角が触れ合った。写真の切断面、名簿の空白、電報の訂正。どれもまだ一つの答えにはならない。ただ、佐伯の「失踪したんじゃない」という声だけが、紙よりも重く残っていた。
祖父は、何を見ていたのか。
ミツエは、何を見たのか。
そして佐伯は、何を見ながら、見なかったことにしたのか。
濡れた石畳を踏むたび、足元から古い水が押し返してくるようだった。私は手帳を取り出し、歩きながら一行だけ書いた。
――佐伯は、最後の言葉の手前で咳をした。
その下に、もう一行を加えた。
――手前に立ち続けることも、沈黙の一部である。
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