第10話 雨の火曜日、その前の名前

旧宅へ戻るころには、雨はまた強くなっていた。
坂道の石畳を打つ音が、傘の布を通して細かく響く。私は佐伯の家で書いた二行を、歩きながら何度も思い返していた。
――佐伯は、最後の言葉の手前で咳をした。 ――手前に立ち続けることも、沈黙の一部である。
書斎の鍵を開けると、湿った木の匂いがした。窓は閉めていたのに、部屋の空気は外の雨を含んでいる。机の上には、昨夜並べたままの資料が残っていた。新聞、回覧板、名簿、電報の複写。紙の端を揃えたはずなのに、右隅の一枚だけがわずかにずれている。
私はそれを直そうとして、手を止めた。
祖父なら、必ず直した。
だが、直す前に、そのずれ方を見るべきだった。
紙は電報の複写だった。原本と同じ七時四十分の時刻を、鉛筆で囲んだもの。複写の下から、薄い灰色の紙片が覗いている。抜き取ると、古い便箋を縦に裂いた一片だった。
文字は祖父のものだった。
――先に知らせたのは、朝倉家ではない。
そこまで書かれ、下の部分は切り取られていた。
私は紙片を机へ置き、しばらく動けなかった。
佐伯は、北条家へ先に連絡があったと言った。だが、それを誰がしたのかまでは語らなかった。祖父の紙片は、その順序を知っていたように見える。
いや、知っていたからこそ、書き残した。
私は書棚の前へ立った。町内会名簿、回覧板、電報控え。祖父は何かを隠すとき、必ず別の記録の近くへ置いた。ならば、この紙片も、偶然ここに挟まっていたのではない。
背表紙を一冊ずつ確かめていく。三段目の端に、町内会名簿の改訂版があった。取り出すと、背後の板に細長い傷が残っている。棚板と本の間に、何度も紙を出し入れした跡だった。
名簿を机へ運び、最後の頁を開いた。
北条家の私印が押された回覧板の下書き。その裏に、見覚えのない紙が貼りついている。薄い糊で固定され、端だけが浮いていた。
私はペーパーナイフを差し込んだ。
「それ、剥がすんですか」
背後から声がした。
振り返ると、理香が立っていた。濡れた傘を閉じ、入口の脇で水滴を払っている。
「来るなら連絡をください」
「しました。電話に出なかった」
「聞こえませんでした」
「書斎にいる人は、だいたい聞こえないふりをします」
理香は机の上の紙片を見た。私は手を止めたまま、祖父の一行を示した。
「佐伯さんのところへ行ってきました」
「それで?」
「ミツエさんは失踪したんじゃない、と」
理香は紙片へ視線を落とした。
「こちらにも、似たことが書いてあります」
「先に北条家へ知らせた」
「誰が?」
「それが分かりません」
「分からないまま、剥がそうとしている」
「剥がさなければ読めません」
「読めないからといって、急いで壊していい理由にはなりません」
彼女は鞄から薄いへらと台紙を取り出した。手袋をはめ、私の手元を覗き込む。
「糊が古い。紙の繊維ごと持っていかれる可能性があります」
「では、どうするんです」
「蒸気を当てます」
理香は小さな器具を机へ置いた。湯を張り、紙片の端へごく薄い蒸気を送る。湿った紙がゆっくり膨らみ、貼りついていた部分がわずかに浮いた。
その下から、別の文字が現れた。
――朝倉家へ知らせる前に、北条へ伺うこと。
私は息を吸った。
「命令ですか」
「文体は命令に近い。ただし、誰が書いたかはまだ分かりません」
「祖父の字ではない」
「ええ。筆圧が違う」
理香は文字を撮影し、紙の表裏を台紙へ移した。
「この紙、表面に別の文字の跡があります」
「裏写りですか」
「違います。上から重ねて書いた跡です」
彼女は斜めから光を当てた。消された文字の輪郭が、薄く浮かび上がる。
――工場の帳面を、朝倉ミツエが持ち出した。
その下に、さらに一行あった。
――取り戻すまで、家族を動かすな。
「帳面を持ち出した?」
「佐伯さんは、ミツエさんが帳簿を見ていたと言っていました」
「見ていたのと、持ち出したのは違います」
「ええ。だから、ここが重要です」
理香は消し跡を指で示した。
「誰かが、ミツエさんを帳簿の窃盗者に仕立てようとした。失踪ではなく、逃亡に見せるために」
「家出の理由を作った」
「あるいは、警察へ渡すための理由を」
私は紙片を見つめた。朝倉家へ知らせる前に、北条へ伺う。帳面を取り戻すまで、家族を動かすな。そこには、ミツエの安否を尋ねる言葉が一つもない。
人間ではなく、帳面の所在だけが問題にされていた。
「この紙は、誰が書いたんでしょう」
「北条本人とは限りません」
「でも、北条へ伺うよう指示できる人間は限られる」
「指示を受けた人間が、別の人間へ伝えた可能性もあります」
「町全体が伝言板だった」
「伝言板なら、途中で書き換えられます」
理香は蒸気の器具を片づけた。
「それに、書き換えられたものほど、元の文面を残します。紙の厚みや、筆圧の差として」
私は机の引き出しを見た。祖父はこの紙を見つけていたのだろうか。それとも、自分で書き写したのか。紙の端に残る褐色の汚れは、祖父の万年筆のインクに似ていた。
「祖父は、これを知っていた」
「知っていたから保管したのかもしれません」
「知っていて、なぜ何もしなかった」
「何もしなかったとは限りません」
「手紙を出さなかった」
「それでも、捨てなかった」
「同じことです」
「同じではありません」
理香の声が少しだけ硬くなった。
「投函しなかったことは、行動を止めたことです。でも、捨てなかったことは、未来の誰かへ渡す可能性を残した。源蔵さんは、少なくとも完全には諦めていなかった」
「五十年もかけて?」
「五十年かけなければ渡せなかった言葉もあります」
私は反論しようとして、やめた。
書斎の窓を雨が叩いている。ガラスの向こうで、庭の石灯籠が滲んでいた。
理香は新しい台紙へ紙片を移し、右下に鉛筆で記した。
――出所不明。祖父所蔵資料内より発見。改変痕あり。
「これで、誰かが書いたという事実と、誰が書いたか分からないという事実が残ります」
「分からないままでは、北条に届かない」
「届かせる必要がありますか」
「北条は、ミツエさんを逃亡者にした」
「その可能性がある」
「この紙を見ても?」
「紙は北条の手を直接示していません」
「なら、何を示すんです」
「北条へ伺うことが、町の中で当然になっていたことです」
理香は私を見た。
「個人の命令より、命令が命令に見えなくなる仕組みのほうが、長く残ります」
その言葉のあと、玄関のほうで音がした。
雨戸を叩く音ではない。濡れた靴が、石のたたきへ置かれる音だった。
理香が顔を上げる。
私は紙片を台紙ごと伏せた。
廊下の先で、呼び鈴が一度鳴った。
間を置いて、もう一度。
理香が立ち上がる。
「誰でしょう」
「分かりません」
私は書斎の鍵を握った。外から見れば、ただの古い家だった。だが、今の私には、誰かが五十年前からこの部屋の紙を探し続けているように思えた。
玄関の向こうで、穏やかな男の声がした。
「篠崎さん。少し、お話しできませんか」
北条泰三の声だった。
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