7話 空の封筒、濡れた朝

夜明け前から、雨が細く降り続いていた。

屋根瓦を打つ音は、眠りの浅いところへ絶えず触れてきた。強い雨ではない。それでも、途切れない音には人を起こしておく力がある。私は午前四時過ぎに目を覚まし、しばらく布団の中で天井を見ていた。旧宅の天井は低く、雨漏りを修理したばかりの箇所だけ、白い漆喰が新しかった。

雨の火曜日。

五十年前の日付メモに書かれていた言葉が、眠りの底から浮かんでいた。

私は起き上がり、階段を上って書斎へ入った。

窓硝子には細い水の筋がいくつも走っていた。庭の松が雨に濡れ、枝の先から雫を落としている。書斎の中は冷えていた。紙と古い木と、乾ききらない壁の匂いが混ざっている。机の中央には、昨夜から動かしていない灰色の封筒があった。

私は封筒を伏せず、宛名の側を上にして置いていた。

朝倉ミツエ様。

その名前を見ていると、文字の向こうに人の顔があるような気がしてくる。顔は知らない。写真でさえ、まだ見ていない。けれど、名を呼ばれなかった人間の存在は、呼ばれ続けた人間よりも強く残ることがある。

私は祖父の控え帳を開いた。

紙は湿気を吸って、頁の中央がわずかに膨らんでいた。左端には、日付と作業内容が細い字で並んでいる。古い町内会名簿を整理した日、電報の控えを分類した日、喪中葉書を受け取った日。どれも事務的な記録だった。

五十年前の日付の前後だけ、書き方が違っていた。

その日の欄には、何も書かれていない。正確には、書いたものを消した跡がある。消しゴムではない。刃物の背で薄く削り、紙の表面を別の紙片で擦ったような、白くならない消し方だった。

私は机の引き出しから細い定規を取り出し、頁を傷めないよう控え帳の上へ置いた。削られた部分に斜めから光を当てる。文字の溝はほとんど残っていなかったが、最後の一画だけが見えた。

「北」という字の一部に似ている。

私はすぐに手帳へ書き留めた。

――判読不能。北の字に似た筆圧痕。推測として扱わない。

書いたあとで、祖父ならこの注意書きを見て何と言っただろうと思った。

たぶん、「分からないものは分からないまま置け」と言う。だが、その言葉を守り続けた結果が、いま目の前にある。分からないものは、五十年分の埃をまとって、私の机へ戻ってきた。

封筒へ目を移す。

封は切られていない。けれど、糊の中央だけが妙に柔らかく見えた。私は薄い手袋をはめ、封筒の端を持ち上げる。紙は冷たく、乾いたざらつきが指の腹へ残った。表面には古い埃がこびりついているのに、宛名の周囲だけ、何度も撫でられたように滑らかだった。

祖父が触ったのか。

それとも、別の誰かが。

私は封筒を机へ戻した。

この家では、朝になる前から、誰かが私の判断を待っているようだった。

階下で、玄関の呼び鈴が鳴った。

音は一度だけだった。続いて、門扉の金具が揺れる。私は時計を見た。六時四十分。こんな時間に訪ねてくる者を、思いつかなかった。

階段を下りると、玄関の磨り硝子越しに、人影が二つ見えた。

「どなたですか」

声をかけると、外から理香の声が返った。

「宮田です。開けてもらえますか」

扉を開けると、理香は濡れた髪を片手で押さえて立っていた。もう一人は、杖をついた佐伯義人だった。佐伯の傘は古く、布の端から水が細く垂れている。濡れた靴先へ視線を落とし、彼は一度だけ咳払いをした。

「朝早くにすみません」

理香が言った。

「資料室へ向かう途中、佐伯さんと会いました。雨の中で立ち往生していたので、こちらへ連れてきました」

「立ち往生じゃない。道を間違えただけだ」

佐伯が言った。

「この坂は、昔から曲がっている」

「坂は曲がっていません」

「道のほうが曲がっているんだ」

「同じことでは?」

「年寄りには違う」

理香は佐伯の傘を受け取ると、玄関脇の傘立てへ差し込んだ。水滴が床へ落ちないよう、傘の先を古い布で包む。私が何か言う前に、彼女は玄関の隅に置かれていた新聞紙を一枚取り、濡れた靴の下へ敷いた。

直接触れずに、物の位置だけを整える。

その所作が、祖父を思わせた。

「寒いでしょう。上へどうぞ」

私は二人を書斎へ案内した。

理香は部屋へ入るなり、机の上を見た。封筒、控え帳、手帳、定規。彼女は何も言わず、濡れた袖口を押さえながら机の端へ立った。

「まだ開けていませんね」

「はい」

「状態は変わっていない?」

「私が触れた範囲では」

「触れた範囲、という言い方をするようになりましたね」

「昨日、教えてもらいましたから」

理香はわずかに口元を動かした。笑ったのかもしれないが、すぐに表情は元へ戻った。

「紙は、触った人間の手順を覚えています。誰が、いつ、何のために触ったかまでは分かりません。でも、触り方の違いは残る」

佐伯は机から少し離れた椅子へ腰を下ろした。杖を膝の脇へ立てかけ、濡れたズボンの裾を見ている。

「源蔵さんも、こういうふうに紙を並べていた」

彼が言った。

「祖父を知っていたんですね」

「知っているというほどじゃない。町で何度か会った。あの人は、話を聞くときに相手の顔を見なかった」

「では、どこを?」

「手元だ。封筒を持っている人間なら、封筒を見る。帳面を持っている人間なら、帳面を見る。顔を見るより、そっちのほうが嘘が出る」

私は祖父の机へ視線を向けた。文鎮の脇に、細い鉛筆が一本置かれている。芯は短く削られ、先端だけが黒い。祖父は大事な話をする前に、よく鉛筆を削った。話す代わりに、刃物を動かしていた。

「佐伯さんは、朝倉ミツエのことを覚えていますか」

私が訊くと、佐伯はすぐには答えなかった。

雨が窓を打つ音が、三人のあいだへ入り込んだ。理香は封筒から目を離さず、佐伯は濡れた靴先を見ている。私は返事を急がなかった。

相手が答える前の沈黙を、私はいつからか覚えるようになっていた。電話の向こうの母、北条の屋敷にいた使い、古書店の店主。誰もが、言葉を選ぶ前に一度だけ沈黙した。その長さには、言うべきことより、言ってはいけないことが現れる。

佐伯の沈黙は長かった。

「覚えている」

ようやく、彼は言った。

「顔は、もうはっきりしない。だが、雨の日の靴音は覚えている。工場の裏手から川へ下りる道で、誰かが走った。女の靴だった。革底が濡れた石を叩く音が、三度、四度……いや、もっとかもしれない。私はその音を聞いて、追わなかった」

「追えなかった?」

「追わなかった」

言い直した声は、乾いていた。

「その違いは、大きいですね」

「そうだ。だから覚えている」

理香が控え帳の横へ、白い台紙を置いた。

「佐伯さん。今日ここで話されたことは、記録しても構いませんか」

「警察の聴取か」

「違います。記憶の記録です。警察の記録では、あなたが何を言ったかより、何を採用したかが重要になる。でも、個人の記録なら、迷いや言い間違いも残せます」

「迷いまで残して、誰の役に立つ」

「役に立つかどうかは、後で決めます。今は、消さないことが必要です」

佐伯は理香を見た。

「宮田さん。あんたは、記録が人を救うと思っているのか」

「思っていません」

理香は封筒の端へ薄い紙を添えた。

「記録は人を救いません。救うのは人です。ただ、人が救おうとしたことも、見捨てたことも、記録がなければ後から確かめられない。私はそこを残したいだけです」

「ずいぶん冷たい言い方だ」

「温かい言い方で空白を埋めるほうが、私は怖いので」

佐伯は小さく息を吐いた。笑ったようにも、咳をこらえたようにも聞こえた。

「源蔵さんも、そんなことを言いそうだった」

「祖父は何と言っていましたか」

私が尋ねると、佐伯はまた黙った。

今度の沈黙は、さきほどより短かった。だが、短いから軽いわけではなかった。言葉を出す直前で止めたとき、人はかえってその言葉の形をはっきり残す。

「源蔵さんは、手紙を持っていた」

佐伯が言った。

私は封筒へ視線を向けた。

「この手紙ですか」

「分からない」

「見たんでしょう」

「見た。だが、宛名は見ていない」

「いつですか」

「事件の翌朝だ。署の裏口へ来た。雨は夜より弱くなっていたが、靴は濡れていた。傘を持っていなかった」

私は息を止めた。

「祖父は、何と言ったんです」

「何も」

「何も言わずに、手紙を見せた?」

「見せたというより、出した。懐から封筒を出して、机の上へ置いた。私が見ると、すぐに取り上げた」

「その封筒は灰色でしたか」

「覚えていない」

「紙の厚さは?」

「それも」

「では、何を覚えているんですか」

佐伯は左手の親指で、薬指の付け根を押さえた。

「封筒の角が、濡れて丸くなっていた。源蔵さんはその角を、何度も指で撫でていた。紙を直すように。だが、直せるものではなかった」

その光景を思い浮かべた。祖父は壊れた角を、紙束の中へ戻せる形にしようとしていたのだろうか。傷んだ紙を整えれば、起きたことまで整ったことになると信じていたのか。

「祖父は、ミツエさんに手紙を書いたんですか」

「聞かなかった」

「なぜ聞かなかったんです」

「聞けば、答えなければならなくなるからだ」

「佐伯さんが?」

「私も、源蔵さんも。手紙の宛先を聞けば、私はその先を追わなければならない。誰が何を見たのか、なぜ手紙が必要なのか、ミツエがどこにいるのか。聞いた瞬間から、事件はまた動く」

「事件は、止まっていたんですか」

佐伯は私を見た。

「止まったように見せられていただけだ。捜査書類が閉じられ、新聞が短くなり、名簿から名前が消えても、人間の中では止まらない。だが、止まらないものを追うには、追う人間が必要だ」

「あなたは追わなかった」

「そうだ」

「祖父も?」

佐伯は答えなかった。

理香が封筒の脇に、薄い鉛筆で小さな記号を書いた。開封前の状態を示すための印だろう。彼女は私の視線に気づくと、紙から手を離した。

「佐伯さん。源蔵さんは、手紙を見せたあと何か言いましたか」

「一つだけ」

「何を?」

「家族に話せば、あの人は戻りますか、と」

雨の音が急に近くなった。

私は机の縁へ手を置いた。木は冷たく、指先から体の内側へ冷気が入ってくるようだった。

「佐伯さんは、何と答えたんです」

「戻らない、と」

「どうしてそんな答えを」

「分からない」

「今でも?」

「今でもだ」

佐伯は、薄い茶の入った湯飲みを両手で包んだ。誰も茶を用意していなかったので、私は台所から急須と湯飲みを持ってきた。理香は要らないと言ったが、佐伯の前には置いた。

湯気がゆっくり消えていく。

「戻らないと言えば、源蔵さんは諦めると思った。手紙も、捜索も、告発も。だが、諦めたのは源蔵さんではない。私のほうだった」

「祖父は何を守ろうとしていたんですか」

「家族だろう」

「それだけですか」

「ミツエの家族もだ。あの町では、一人の失踪が一人分の穴で済まない。工場へ勤めている弟、病気の母親、借りている家、借金、町内会の順番。誰かが消えると、その周りの人間まで一緒に沈む」

「だから黙った」

「黙れば沈まずに済むと思った」

「実際には?」

佐伯は湯飲みを置いた。底が机に触れ、小さな音を立てた。

「沈む場所を変えただけだ。ミツエの家族から、お前の家族へ。町から、個人の胸の内へ。誰も沈まないようにしたつもりで、全員を少しずつ水の中へ置いた」

その言葉が、書斎に残った。

私は封筒の宛名を見た。朝倉ミツエ様。敬称の「様」だけが、祖父の手の中で妙に整っている。謝罪の相手へ向けた言葉なのか。もう届かない人間へ、届かないと知りながら残した言葉なのか。

「当夜、何があったんですか」

私は訊いた。

佐伯は目を閉じた。

「ミツエは、工場を出る前に何かを見た。帳面か、荷の積み替えか、それとも人の顔か。そこは記憶が混じっている」

「でも、何かを見た」

「そうだ」

「祖父も見た?」

「源蔵さんは、見たというより、見せられた」

「誰に」

佐伯の喉が鳴った。

「北条だ」

名前が出た瞬間、雨の音が一段低くなったように感じた。

「北条泰三が、祖父へ何を見せたんですか」

「それは……」

佐伯は言葉の途中で止まり、咳払いをした。指が湯飲みの縁をなぞる。何度も、同じ場所を。

「佐伯さん」

「北条は、源蔵さんの息子の仕事を知っていた。工場の帳簿を扱う部署にいたな」

「父です」

「もし源蔵さんが口を開けば、息子の帳簿に不正があったことにする。証拠は後からでも作れる。そう言われた」

「祖父は、父を守るために黙った」

「それだけではない」

「まだあるんですか」

「ミツエの家族も、同じように脅されていた。弟を工場から追い出す、母親の住む家を取り上げる。北条は、誰か一人を直接脅すのではなく、周りの人間を順番に見せた。お前が話せば、この人が困る。この人が話せば、あの人が消える。そうやって、誰もが自分から口を閉じるようにした」

「それを、町のためと呼んだ?」

「そうだ」

私は立ち上がり、窓のそばへ歩いた。結露した硝子を指で拭うと、庭の濡れた石が見えた。雨は細いままだったが、地面には水が溜まり、どこから来たのか分からない流れが、低い場所へ集まっている。

町の中で流れた恐怖も、同じだったのだろう。誰かの言葉が別の家へ流れ、別の家の沈黙がさらに誰かを濡らした。最後には、誰が最初に水を流したのか分からなくなる。

「蓮さん」

理香の声が背中へ届いた。

「何ですか」

「今の話を、すぐに結論へしないでください」

「分かっています」

「本当に?」

私は振り返った。

理香は机の上の資料を、三つの束に分けていた。祖父の控え帳、封筒、佐伯の記憶。混ぜずに、少し離して置いている。

「記録と証言は、同じ場所へ置かないほうがいい」

「証言を疑っているんですか」

「疑っています。資料も疑っています。疑うというのは、捨てることではありません。互いに照らして、どこまで重なるかを見ることです」

「佐伯さんの記憶が間違っていたら?」

「間違いも記録します。間違いを正しい形に直すために、まず間違いがどこにあるか分からなければならない」

佐伯が、弱く笑った。

「宮田さんは、容赦がないな」

「容赦をすると、あとで資料のほうが困ります」

「人間は?」

「人間は、困ったことを忘れることができます。でも、紙は忘れません。破れた場所も、消された字も、触られた角も残る」

「だから、あんたは紙の味方か」

「味方ではありません。紙には味方を選ぶ能力がないので、せめて扱う人間が恣意的にならないようにしているだけです」

佐伯は長いこと黙っていた。

やがて、懐から古い革の手帳を取り出した。表紙は乾いてひび割れ、角が丸くなっている。彼は手帳を開いたが、すぐには頁をめくらなかった。

「これは、当時の手帳だ」

「見せてもらえますか」

「欠けている」

「何が?」

「その日の頁がない」

佐伯は手帳をこちらへ差し出した。

五十年前の日付の前後だけ、糸で綴じられた痕が残っている。頁を破ったのではない。綴じ糸を一度ほどき、二枚だけ抜いて、もう一度閉じたような傷だった。

私は手帳へ触れなかった。

「誰が抜いたんです」

「私だ」

「なぜ」

「北条に言われたからではない」

佐伯はそう言い、しばらく手帳の欠落部分を見ていた。

「自分で抜いた。残せば、私が何を見たか分かる。何を見なかったかも分かる。書いたことより、書かなかったことが証拠になると思った」

「それなら、なぜ捨てなかったんです」

「捨てられなかった。紙を燃やすことも、破片を捨てることもできなかった。私は、隠す人間になったが、消す人間にはなりきれなかった」

その言葉に、祖父の灰色の封筒が重なった。

投函できなかった。だが、捨てもしなかった。

残すことは、勇気とは限らない。臆病さの形を変えて、紙へ預けることもある。それでも、残したものはいつか誰かの手に渡る。

「佐伯さん」

私は言った。

「祖父は、当夜のことを何か書いていませんでしたか」

「書いていたと思う」

「どこに?」

「源蔵さんは、隠したもののそばに、別の紙を置く癖があった」

私は机の上の控え帳を見た。

「別の紙?」

「手紙を封筒へ入れたあと、宛名の裏に小さな紙を重ねる。封筒そのものへ書けないことを、別の紙へ書く。あの人は、そういうやり方をしていた」

理香が顔を上げた。

「佐伯さん。それは、誰から聞いた話ですか」

「見たんだ」

「いつ?」

「手紙を持って署へ来た朝だ。源蔵さんが封筒を出したとき、裏側から小さな紙が落ちた。私は拾おうとした。だが、源蔵さんが先に拾った」

「紙には何か書いてありましたか」

「一文字だけ見えた」

「何の字です」

佐伯は答えようとした。

口がわずかに開き、息が漏れる。だが、声にならない。左手の親指が薬指の付け根を押さえ、もう一方の手が手帳の欠けた頁を撫でている。

私は待った。

理香も待った。

雨だけが、屋根と窓を均等に打ち続けていた。

「……北」

佐伯が言った。

「北の字だった。そう見えた。だが、半分しか見ていない。私がそう思いたいだけかもしれない」

「北条の北?」

「それは、私が今つなげただけだ」

「では、当時は何だと思ったんです」

「方角だと思った。源蔵さんが、北の坂へ行けという意味かもしれない。だが、私は行かなかった」

「なぜです」

「行けば、何かを見つけたかもしれない。見つければ、報告しなければならない。報告すれば、事件をもう一度開くことになる」

佐伯は、手帳を閉じた。

「私は、見つけないことを選んだ」

その言葉は、咳よりもはっきりしていた。

書斎の空気が、少しだけ変わった。私は封筒を見た。灰色の紙の内側にある細長い影。祖父の控え帳から削られた文字。佐伯の手帳から抜かれた頁。どれも別々の空白だったが、同じ方向へ向かっている。

北。

それが北条を指すのか、坂の方角を指すのか、まだ分からない。

私は手帳へ書き留めた。

――佐伯の手帳、当該頁欠落。封筒の裏から落ちた紙片に「北」の一字を見た記憶。証言者自身が確信を否定。

書き終えると、理香が私の手元を見た。

「それでいいです」

「何が?」

「証言の中に、証言者の疑いも残したことです。人は自分の記憶を正しい形に整えたがる。佐伯さんは、整えきれないまま渡してくれた」

佐伯は、窓の外へ目を向けた。

「渡した、というほど立派なものじゃない」

「それでも、渡したんです」

理香の声は低かった。

「あなたが五十年前に残せなかったものを、今ここへ持ってきた。持ってきた以上、もうあなた一人の記憶ではありません。私たちが照合し、間違いなら間違いとして残す」

「残すのか」

「残します」

「私の臆病さまで?」

「臆病さも、判断の一部です」

佐伯は湯飲みへ手を伸ばした。茶はすっかり冷めていた。彼はそれでも一口飲み、顔をしかめた。

「まずいな」

「薄いと聞いていました」

「薄いからまずいんじゃない。冷めたからだ」

その言葉に、私は少しだけ笑いそうになった。笑える話ではない。それでも、冷めた茶を飲み干そうとする佐伯の手つきには、妙な頑固さがあった。自分で淹れたものを、自分で最後まで片づける。祖父にも似た、黙った責任の取り方だった。

佐伯が立ち上がる。

「もう帰る」

「雨が強いです」

「弱くなるまで待つと、また何も言わなくなる」

理香が玄関脇の傘を取り、佐伯へ渡した。

「次に来るときは、手帳の欠けた頁について、覚えている範囲を話してください」

「覚えていたらな」

「覚えていなくても、覚えていないと話してください」

「厳しいな」

「曖昧なまま黙るよりは、ずっと正確です」

佐伯は返事をしなかった。靴を履き、濡れた傘を開く。玄関を出る前、彼は私を見た。

「源蔵さんは、手紙を出せなかった」

「はい」

「だが、書かなかったわけじゃない」

「分かっています」

「そこを間違えるな。出せなかったことと、書かなかったことは違う。書いた人間は、少なくとも一度は言おうとした。言おうとして、やめた。やめた理由まで、書いた言葉と同じように残る」

佐伯はそこで言葉を切った。

続きがあるように見えた。だが、彼は喉を鳴らしただけで、何も加えなかった。

「それでも、やめた責任は残ります」

私は言った。

佐伯はうなずいた。

「そうだ。だから、許すな」

私は顔を上げた。

「祖父を?」

「誰もだ。すぐに許すと、何を許したのか分からなくなる」

それだけ言って、佐伯は雨の中へ出ていった。

傘の濃紺が、坂の下へ少しずつ遠ざかる。杖が石畳へ触れるたび、雨音の中に乾いた音が混じった。理香はしばらく玄関に立っていたが、やがて扉を閉めた。

書斎へ戻ると、机の上の封筒が先ほどより重く見えた。

理香は封筒の両脇へ指を置き、持ち上げずに位置だけを直した。宛名が窓のほうを向くように、数度、角度を調整する。

「開けないんですか」

彼女が訊いた。

「まだ」

「佐伯さんの話を聞いても?」

「だからこそ、まだです。今開けると、彼の記憶を手紙の中へ探してしまう。書かれていないものまで、書かれているように読む気がする」

理香は私を見た。

「それは、珍しい慎重さです」

「編集者なので。読者が本文にない一行を発見したと思ったとき、実際には自分で書き足していることがある」

「では、本文を先に読むべきですね」

「はい」

「それでも、読めないことがあります」

「何がですか」

「書かれた言葉の背後に、書かなかった理由がある場合です」

理香は封筒から手を離した。

「その理由を、紙だけで読むことはできません。けれど、紙の周りに残っているものなら、少しずつ拾える。欠けた頁、消された名、濡れた角、誰かの咳。そういうものを並べていくしかない」

私は控え帳と手帳を並べた。佐伯の欠けた頁の記憶、祖父の削られた日付、封筒の内側に貼りついた細長い影。

紙の端を揃える。

だが、今日はそこで止めた。

揃えすぎれば、欠けた部分まで見えなくなる気がしたからだ。

窓の外では、雨が少しずつ弱くなっていた。川の音はまだ近い。坂道を流れる水が、旧宅の石垣へ当たり、低い音を返している。

理香は資料を台紙へ戻し、最後に封筒だけを机の中央へ残した。

「佐伯さんは、当夜の記憶がまだ残っていると言いました」

「はい」

「正確には、記憶そのものではなく、記憶の欠け方が残っているのかもしれません」

「欠け方が?」

「何を覚えていないか。どこで言葉が止まるか。人は、忘れた部分より、忘れたことを隠そうとした部分に癖が出ます」

私は灰色の封筒を見た。

祖父も同じだったのだろうか。書かなかったことではなく、書こうとして削った跡に、いちばん深い記憶が残っている。

理香が帰ったあと、私は一人で書斎に残った。

台所へ下りる気にはなれなかった。空腹はあったが、胃の底に冷たいものが沈んでいる。私は窓辺へ行き、結露を指で拭った。高台から見える町は、雨の膜の向こうで輪郭を失っていた。家々の軒先、古い商家の看板、川沿いの電線。どれも水に濡れて、記憶の中の景色のようにぼやけている。

机へ戻り、手帳を開く。

私は今日のことを書いた。

理香、封筒を「まだ開けていない」と確認。  佐伯、当夜の記憶を保持。  祖父は翌朝、封筒を持って署へ来た。  佐伯は「戻らない」と答えた。  封筒の裏から落ちた紙片に、北の一字。  当時の手帳、その日の頁が欠けている。  佐伯は見つけないことを選んだ。

最後の行を書いたあと、鉛筆を置いた。

窓の外で、雨がまた少し強くなった。

私は灰色の封筒へ手を伸ばし、今度は伏せなかった。宛名をまっすぐ見た。

朝倉ミツエ様。

祖父は、この人へ何を書いたのか。

謝罪か。証言か。助けを求める言葉か。

どれであっても、封筒は五十年間、開かれなかった。届けられなかったのではなく、誰かが届けないことを選んだ。その選択の重さが、封の甘い匂いとなって残っている。

私はペーパーナイフを取り出した。

刃先を封の端へ置く。

しばらく、そのままにした。

開けることは、祖父の沈黙を破ることではない。祖父が破れなかった場所へ、私の手で入ることだ。そこには、ミツエの名前だけでなく、母の言葉も、佐伯の欠けた頁も、町の湿った沈黙も一緒に入っている。

私は刃を抜いた。

まだ、今日ではない。

封筒を台紙へ戻し、控え帳の横へ置く。祖父がしたように、紙の端を揃えようとして、途中で手を止めた。

揃わないものを、揃ったことにしない。

雨は夕方まで降り続いた。

薄暗い書斎の中で、灰色の封筒だけが白く浮いている。宛名の文字は、何も語らない。けれどその沈黙は、初めて私の前で閉じたままではなかった。

誰かが書いた。

誰かが受け取らなかった。

誰かが見て、見なかったことにした。

私は手帳の最後に、もう一行だけ記した。

――雨の火曜日は、終わっていない。

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空の封筒、濡れた朝 - 雨の封印 - 誰でも作家life