8話 第8話「一時四十分の空白」

森田が帰ったあと、廊下には缶コーヒーの甘い匂いだけが残った。

赤城は、配膳口の木枠をもう一度照らした。紙片の文字は、糊に押しつぶされて途中で途切れている。

――一時四十分より前、久我さんが。

その先に何が続いていたのか。来たのか、入ったのか、何かをしたのか。主語のあとに残された空白が、紙そのものより重く見えた。

「この紙、廊下側から差し込まれたんでしょうか」

野口がしゃがみ込み、木枠の底を覗いた。

「糊の跡が外側に寄っています。部屋側から押し出したなら、紙の先がこすれる位置と合います。ただ……」

「ただ?」

「途中で一回、引っかかってます。木枠の奥じゃなくて、手前で」

野口はライトを横から当てた。木枠の下端に、薄い擦り傷が三本並んでいる。新しい傷ではない。けれど埃の積もり方が、周囲と少し違っていた。

「紙を入れたあと、誰かが引っぱった」

「引っぱって、取り切れなかった」

「はい。ちぎれたというより、糊で止まっていた部分だけ残った感じです」

赤城は紙片を見た。

里奈は配膳口を、単なる隙間として使ったのではない。廊下を歩く誰かに、文字の端を見せようとした。だが、見つけた人間がその意図を受け取ったとは限らない。紙を引いた手は、続きが読まれることを恐れたのか、それとも別の場所へ移すつもりだったのか。

「野口さん。木枠の下に、もう少し隙間を作れますか。壊さずに」

「やってみます」

野口は小型のへらを差し込み、板をほんの数ミリ浮かせた。木が鳴った。古い家の音は、軋みながらも抵抗の順番を教える。無理に力をかければ割れる場所と、力を逃がせる場所がある。

板が浮いたとき、奥から小さな金属音がした。

野口の手が止まった。

「何かあります」

ピンセットで引き出されたのは、真鍮の薄い札だった。縁が黒ずみ、中央に数字が刻まれている。

202。

赤城は札を袋へ入れる前に、表と裏を撮影した。裏面には数字のほか、細い傷が二本あった。鍵束の札を外すときに工具を入れたような跡だった。

「これ、鍵の札ですか」

「昔の部屋番号札だと思います。鍵そのものはありません」

「二〇二号室の鍵束に、欠番があった」

「台帳に書いてあったやつですね」

野口の声が少し低くなった。

赤城は立ち上がり、廊下の突き当たりを見た。二〇二号室は二階だ。一〇一号室の真上にあたり、配膳口が使われていた時代には、階段脇の古い収納を通して各階の炊事場へ物を運んでいたらしい。いまは壁で塞がれ、ただの物置として使われている。

「二〇二の部屋は、もう空ですか」

「荷物はありません。鍵もかかってないはずです」

「確認します」

野口が先に階段へ向かった。

赤城は一度、一〇一号室を振り返った。剥がれた壁紙の下に残る文字は、廊下からでは読めない。里奈が書いたのは、部屋の外にいる人間へ伝えるためではなく、いったん隠され、あとから壁を開ける人間へ向けたものだったのかもしれない。

だとすれば、配膳口の紙は別の意味を持つ。

誰かに見せるためではなく、誰かが奪ったことを残すための印。

二階の廊下は、足場の影で薄暗かった。二〇二号室の前には、剥がれかけた部屋番号が残っている。野口がドアノブに触れると、金具が乾いた音を立てた。

室内には、家具の跡だけがあった。壁際の畳は新しく、中央だけが沈んでいる。赤城は窓、押し入れ、流し台の順に見た。二〇二号室の壁紙は、一〇一号室と同じ柄だったが、継ぎ目の位置が違う。

「ここ、畳を替えてます」

野口が押し入れの前で言った。

「いつ頃ですか」

「表面だけなら最近。でも下の畳床は古い。持ち上げてもいいですか」

赤城が頷くと、野口は畳寄せに指を入れた。持ち上がった畳の下から、黒い埃と細い釘が現れる。さらに端をめくると、床板に白い擦れ跡があった。

「何かを引きずった跡ですね」

「重いものですか」

「重くはない。角のある箱か、工具箱みたいなもの」

擦れ跡は、部屋の中央から押し入れへ向かっていた。押し入れの奥には、壁と板の間に数センチの隙間がある。野口が手を入れた。

「紙があります」

今度の封筒は、床下のものより新しかった。茶色い封筒の表に、里奈の字で数字が書かれている。

1:40  2:05

赤城は封筒を開けず、黒田へ連絡した。

しばらくして、階下から乾いた靴音が響いた。黒田は廊下へ上がると、封筒の位置を確認し、手袋を直した。

「見つけた状況を最初から」

赤城は説明した。黒田は途中で遮らず、封筒の数字を撮影した。

「時刻だけですか」

「表には。ただ、透かすと中に紙が一枚あります」

「開封はしない」

「分かっています」

黒田は封筒を袋へ収めた。

「森田の話とつながるな。一時半頃、久我の車。水沢の部屋に明かり。壁を触る影」

「それだけでは、久我さんが何をしたかは言えません」

「そうだ。だから時刻を見る」

黒田は一〇二号室との位置関係を確かめ、廊下の窓を開けた。冷えた空気が入り、古い埃が細く舞った。

「一時四十分より前に久我が来た。森田が見た車の時間が正しければ、一時半前後。だが水沢の紙には、一時四十分に鍵を抜く音がある。誰の鍵かは分からない」

「二〇二号室の鍵かもしれません」

「札が出たからといって、そう決めるな」

「はい」

黒田は封筒を見た。

「では、二時五分は?」

赤城は答えなかった。

二〇二号室の退去前夜。荷物はもうない。そこに記された二つの時刻。久我が一〇一号室へ入った時間と、別の誰かが鍵を抜いた時間。その間に何があったのか。

「久我さんを呼べますか」

「呼んでいる」

黒田がそう言った直後、階下から久我の声がした。

「黒田さん。こちらにいらしたんですか」

久我は階段を上りきる前から、工程表を抱えていた。赤城と目が合うと、一瞬だけ足が止まる。だがすぐに視線を封筒へ移した。

「二〇二号室で何か出ましたか」

「なぜ、二〇二だと?」

黒田が訊いた。

久我は答えず、工程表の角を揃えた。

「解体前の建物です。どの部屋から何が出ても、不思議ではありません」

「この札を見ても?」

黒田が袋越しに真鍮札を掲げた。

久我の喉が動いた。

「それは古い鍵札でしょう」

「二〇二号室の」

「おそらく」

「あなたは一時四十分より前に、一〇一号室へ入った。二〇二号室の鍵を使った可能性は?」

「ありません」

「可能性を聞いている」

「私が持っていたのは、管理用のマスターキーです。部屋番号ごとの鍵ではありません」

「鍵束の記録では、二〇二号室の予備鍵が一本欠けている」

「古い記録です。紛失したのか、交換時に廃棄したのか」

「廃棄したなら、札だけが配膳口の中に残る理由は?」

久我は工程表をめくった。紙の擦れる音が、誰もいない二〇二号室に広がった。

「私は知りません」

「では、これを見てください」

赤城は封筒の数字を示した。

「一時四十分と二時五分。あなたは、この時刻に覚えがありますか」

久我の手が、工程表の端で止まった。

ほんの一瞬だった。だが、止まったあとに指が紙を押しつぶした。

「二年前の時刻など、覚えていません」

「そうですか」

「はい」

「では、二時五分に何があったかは、封筒の中身を確認してから聞きます」

久我は赤城を見た。その目に初めて、整った書類を崩される前の怯えが浮かんだ。

廊下の下で、木材が大きく鳴った。

野口が窓の外を見る。足場の向こうで、解体業者の車が一台、赤い立入禁止テープの前に止まった。

「作業員が来ました」

黒田は時計を見た。

「工事停止の指示は出している。だが、現場を長く空けると別の問題が出る」

赤城は一〇一号室と二〇二号室を交互に見た。

壁の下に残された文字。途中で奪われた紙片。欠番の鍵札。そして、まだ開かれていない封筒。

里奈は一つの出来事を、一つの場所に閉じ込めなかった。読む者が順番を間違えれば、ただの退去記録にしか見えないように、時刻と部屋を分けていた。

赤城は封筒の袋を見つめた。

二時五分に何があったのか。

その答えは、紙の中にある。

だが封を切る前に、赤城は二〇二号室の壁へ近づいた。壁紙の継ぎ目の端に、細い黒線が一本だけ残っている。誰かが鉛筆で引いた線だった。

線の先は、押し入れではなく、廊下側の壁へ向いていた。

そしてその途中に、小さな文字があった。

――先に、鍵を返したのは誰か。

赤城は指で触れなかった。

壁は、まだ証言を終えていない。

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