第7話 渡し口の跡

澄江が去ったあとも、写真は畳の上に置かれたままだった。古い配膳口の継ぎ目が、白黒の粒子の中に薄く沈んでいる。赤城はその位置を壁の現状と重ね、指先で下地の境目をなぞった。
「廊下側は、どうなってるんでしょう」
野口が壁の反対側、共用廊下へ回った。赤城もあとに続く。壁紙は廊下側のほうが傷みが浅く、継ぎ目もほとんど分からない。だが野口はへらの先で軽く叩き、音の変わる箇所を探し当てた。
「ここです。中が空いてる」
へらが入る。乾いた糊が切れる音がして、薄い板が浮いた。奥に、小さな木枠が見えた。配膳口の名残だった。人が手を差し込める程度の幅しかない。野口がライトを向けると、木枠の底に細い紙片が一枚、折れたまま貼りついていた。
赤城はピンセットでそれを挟み、慎重に引いた。紙は薄く、破れかけている。文字は途中までしか読めなかった。
――一時四十分より前、久我さんが。
そこで途切れていた。続きは、糊で押し潰されたのか、判読できない染みになっている。
「続きは?」
「ここにはありません」
赤城は木枠の奥まで指を這わせた。何もない。里奈はこの隙間を使って紙を廊下側へ渡した。だが誰かが、その途中で紙を引き抜き、途切れさせたのかもしれない。あるいは、里奈自身が続きを別の場所に置いたのか。
廊下の奥から足音がした。ゆっくりとした、迷うような歩き方だった。振り向くと、森田が立っていた。缶コーヒーを片手に、いつもの軽い笑みを浮かべようとして、途中でやめたような顔をしている。
「まだやってるんすね」
「森田さんは、配膳口のことを知っていましたか」
森田の視線が、赤城の手元の紙片に落ちた。長く、そこに留まった。
「知りません」
「即答ですね」
「知らないから即答したんです」
「合鍵を持っていた頃、この部屋にはよく来ていたんですか」
「昔の話ですよ」
「昔の話でも、覚えていることはあるでしょう」
森田は缶コーヒーを一口飲んだ。喉を鳴らす音が、やけに大きく響いた。
「里奈、あの部屋に何か隠すの、好きだったんですよ。手紙とか、レシートとか。捨てるのが嫌いっていうか、捨てる前に一回、誰かに見られたいみたいな。変な癖だなって思ってました」
「見せたかった、と?」
「見せたいのに、渡せない。そういうやつです」
森田の口調は軽かったが、目の動きは違った。紙片から視線が離れない。
「森田さん。失踪した夜、あなたはこの近くにいましたか」
缶を持つ手が止まった。
「いたら、まずいですか」
「まずいかどうかは、何をしたかで決まります」
「何もしてないですよ。ただ――」
言葉が途切れた。森田は廊下の奥、階段のほうへ目をやった。誰もいないのに、そこに何かを探しているようだった。
「ただ、何ですか」
「久我さんの車が、駐車場に停まってるのを見ました。夜中に。あの人、普段は現場に泊まったりしない人なのに」
「時間は」
「一時半とか、そのくらいだったと思います。里奈に会いに来たわけじゃなかったんで、俺、そのまま帰りました」
「会わなかったんですか」
「会う理由がなかったんで」
「合鍵を持っていたのに?」
森田は缶コーヒーを握りしめた。金属がわずかに凹む音がした。
「持ってたけど、使わなかった。使ったら、また揉めるだけだと思って」
「揉める、というのは」
「別れた理由、知ってるでしょう。俺があの子を怖がらせたんですよ。だから、あの夜も、車を見て、余計なことをしないほうがいいと思って、帰りました」
「久我さんの車を見た、というのは誰かに話しましたか」
「話す必要、ないと思ってたんで」
「必要がないと、誰が決めたんですか」
森田は答えなかった。缶の底を親指でこすり続けている。
「森田さん。あなたが見たのは、車だけですか」
沈黙が長くなった。廊下の奥で、足場の鉄管が風に鳴った。森田の視線が、赤城の手にある紙片へもう一度落ちた。
「……窓に、明かりが点いてました。一〇一の」
「久我さんが、部屋の中に?」
「分かりません。見えたのは、影だけです。壁のところに立って、何かを触っているような」
「何を触っていたと思いますか」
「壁紙です。まるで、剥がすみたいに」
赤城は紙片を袋にしまった。途切れた一文と、森田の言葉が、同じ夜の同じ壁の前で重なっていく。
「なぜ、今まで黙っていたんですか」
森田は缶コーヒーを飲み干し、力なく笑った。
「見たものを言ったら、俺も何かしたことになる気がして」
その声は、これまでのどの軽口よりも小さかった。
赤城は壁の継ぎ目を見上げた。配膳口の奥に残った紙片は、まだ途中で終わっている。続きの言葉は、まだこの建物のどこかに眠っているはずだった。
工事の始まる時刻まで、あと数時間しかなかった。
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