第1話 林道の湯気

長尾沢へ向かう朝の林道で、私は最初に杉の匂いではなく、濡れた土の冷えを嗅いだ。
雨は夜のうちに上がっていた。雲はまだ谷の底に低く垂れこめ、杉林の枝から落ちる雫が、車の屋根をときどき小さく叩いている。エンジンを切ると、沢の音が急に近くなった。水の流れは見えないのに、岩へ当たる音だけが斜面を這い上がり、耳の裏側まで濡らしてくるようだった。
私は車を降り、靴底で路面を確かめた。砂利の下に泥が沈んでいる。右の斜面には新しい崩れがあり、茶色い土の中から杉の根が何本も露出していた。根の一つに白いビニール片が絡んでいる。誰かが以前、通行止めの印に結んだものだろう。結び目はほどけ、端だけが風に揺れていた。
林道管理小屋は、旧庄屋の家を改修した建物だと聞いていた。軒の低い木造家屋で、玄関脇に薪が積まれ、濡れた合羽が一本、戸口の内側に掛けられている。小屋の前では黒田守が薪を割るでもなく、薬缶を火にかけて待っていた。
「松原さんか」
黒田は私の名前を呼ぶ前に、ほんの一拍だけ間を置いた。四十代の後半に見える男で、日に焼けた頬には深い皺がある。作業着の袖をまくり、針金を曲げて何かの取っ手を直していた。私の車を見ると、荷台へ回り、調査用のケースを一つ持ち上げた。
「それは私が持ちます」
「持てるかどうかじゃない。濡れる前に入れたほうがいい」
黒田はケースを土間へ運び、蓋についた泥を雑巾で拭った。私が礼を言うと、彼は返事の代わりに薬缶の蓋を少しずらした。白い湯気が立ちのぼる。番茶の香りに、薪の煙と古い木の匂いが混じっていた。
「上は昼でも暗い。落石も天気も、気分で動く」
「沢口家まで、歩いてどのくらいですか」
「道が無事なら二十分。無事じゃなければ、戻る時間も含めて考えたほうがいい」
「雨は、しばらく降らない予報です」
「予報は町の空を見て言う。ここは山の腹だ」
黒田は卓上の地図を広げた。紙は何度も折りたたまれた跡があり、折り目だけが白く擦れている。長尾沢へ向かう道は、谷に沿って細く描かれていた。途中から線が途切れ、古い集落の位置を示す丸印のところで終わっている。
私はその丸印の脇に書かれた「沢口家」という文字を指でなぞった。
「ここに泊まる許可は、黒田さんからいただいていると聞いています」
「許可というほどのものじゃない。鍵を預かっているだけだ」
「無人の家に、調査者が一人で入ることについて、何か注意はありますか」
黒田は地図の折り目を指先でならした。紙の下に空気が入り、ふくらんだ部分を、何度も同じ場所へ押し戻している。
「戸締まりをする。火を使うなら、火を見ている。帰るときは、使ったものを元の位置に戻す」
「それだけですか」
「それ以上のことは、現場で決める」
「現場で決める、というのは少し曖昧ですね」
「山で曖昧じゃないものは、だいたい人間が勝手に決めたことだ」
黒田は湯呑みに番茶を注いだ。濃い茶の表面に、窓から差し込んだ灰色の光が揺れている。
「松原さんは、火の習俗を調べるんだろう。炭火送りとか、送り火とか」
「はい。記録では、年越しの行事として残っています。ただ、廃村になる直前に途絶えているので、行事の意味が変わった可能性もあります」
「意味は、あとからつけられる」
「では、もともとは何だったんですか」
黒田は笑った。けれどその笑顔は口元だけで、目の奥には届かなかった。
「さあな。昔のことだ」
「黒田さんは長尾沢をご存じなんですよね」
「道を知っているだけだ」
「村の人たちがどの家から出ていったか、最後に誰が残ったかも?」
「道を見ていれば、人が出ていく順番くらいは分かる」
「それなら、記録と照合できます。行政の資料では全戸避難になっていますが、家ごとの移動時期が曖昧で――」
「役場の紙は、紙の上ではきれいだ」
黒田は湯呑みを私の前へ置いた。湯気が眼鏡の端を曇らせる。
「でも、山の泥はきれいに並ばない。誰がいつ出たかなんて、靴跡や、残した薪や、戸口の草を見なきゃ分からん。そういうものを見たいなら、見ればいい。ただし、見たものを全部持ち帰れると思わないほうがいい」
「私は記録を持ち帰るために来ました」
「そういう顔をしている」
黒田は穏やかに言った。その言葉が褒めているのか、咎めているのか分からなかった。
私は湯呑みに口をつけた。番茶は濃く、少し苦かった。舌に残る渋みが、山へ入る前の緊張をかえってはっきりさせた。
「見たものを曖昧にしたまま残すほうが、私は嫌いです」
「曖昧なものを曖昧なまま書くのも記録だろう」
「それでは、読む人が判断できません」
「判断するのは読む人だ。書く側が親切にしすぎると、事実の形まで決めてしまう」
私は返事をしなかった。黒田の言い方は乱暴ではない。むしろ、こちらの仕事をよく知っている人の言葉に聞こえた。そのことが気に障った。
私はノートを開き、到着時刻、天候、路面状況、管理小屋の位置を記した。文章を書く前に、匂いから始めるのが私の癖だった。
〈濡れた土。杉の樹皮。沢音。薬缶の湯気に混じる古い灰の匂い〉
そこまで書いたところで、黒田が私の手元を見た。
「匂いまで書くのか」
「匂いは残りやすいです。目に見えるものより、生活の実態に近いことがある」
「なるほどな。じゃあ、沢口家では何を嗅ぐと思う」
私は顔を上げた。黒田の視線が、谷の奥へ向いている。そこには杉林しかない。だが彼の目だけが、見えない家の輪郭を追っていた。
「行ってみないと分かりません」
「そうだな」
黒田はそれ以上言わなかった。
私はケースを背負い、車から寝袋と食料の袋を取り出した。黒田は荷物の紐を見て、結び目を一つ締め直した。余計な手出しをされるのは好きではなかったが、彼の指があまりに手慣れていたので、礼を言うしかなかった。
「沢口家の鍵は?」
「先に行って、玄関脇の石の下を見ろ。黒い鍵がある」
「誰でも取れる場所ですね」
「誰でも行ける場所じゃない」

黒田は初めて、私の目をまっすぐ見た。
「夕方までに戻れそうになかったら、無理に戻らないこと。沢が増えたら道は消える。携帯は谷の中では使えない。何かあったら、朝まで待つ」
「黒田さんは来てくれないんですか」
「朝になっても戻らなければ行く」
「夜は?」
「夜の山へ入る理由はない」
「家の中に誰かいたとしても?」
言ってから、私は自分で妙な質問をしたと思った。黒田は笑った。今度の笑いは、隠すためのものだった。
「誰もいない」
「確認したんですか」
「している」
「いつですか」
「昨日だ」
「昨日から今日までの間に、誰かが入った可能性は?」
「長尾沢へ入る道は一本しかない。車は来ていない。歩いて入った跡もない」
「では、誰もいないと断定できますか」
黒田は帽子のつばを指でなぞった。
「人間はな」
その言葉のあとに、短い沈黙が落ちた。
「人間は、いないところへ戻ることがある。用事がなくても、帰る場所だったから戻る。だが、沢口家へ戻る人間はいない」
「それは、亡くなったという意味ですか」
「そういう意味で言ったんじゃない」
「では、どういう意味ですか」
黒田は湯呑みを片づけ、薬缶の火を弱めた。質問に答える代わりに、火のつき方を見ている。
「松原さん。学者は、分からないものを見ると名前をつけるだろう。習俗とか、信仰とか、怪異とか。名前をつければ、少し安心できる。だが山には、名前をつける前に触れてはいけないものがある。触れたあとで、名前のほうが変わることもある」
「それは脅しですか」
「忠告だ」
「私が調べるのは、人ではなく火です」
「火は人より長く残る」
黒田の声は低かった。湯気が消え、薬缶の口から細い煙だけが立っている。
私はノートを閉じた。聞き取りはまだ始まっていないのに、これ以上ここで話を続けても、彼は核心を渡さないだろう。必要なことは整えてくれるが、記憶そのものは決して差し出さない。そういう人間だった。
林道を歩き始めると、杉林の暗さがすぐに車道を隠した。雨上がりの枝から水滴が落ち、首筋に冷たく触れる。私は何度か振り返った。黒田は小屋の前に立ったまま、こちらを見ていた。見送っているようにも、戻る時刻を測っているようにも見えた。
林道は谷に沿ってゆるく上っていた。左手から沢の音が続き、右手の斜面には濡れた苔が広がっている。ところどころ、地面に古い轍が残っていた。車が通っていた時代のものだろう。轍の内側だけ草が薄く、道が使われなくなってからの時間を、植物が少しずつ埋め戻している。
途中、崩れた標識を見つけた。板には「長尾沢」と書かれていたらしいが、文字の下半分が泥に埋もれている。私はしゃがみ込み、泥を指先で掻いた。爪の間に冷たい土が入り、腐葉土の甘い匂いがした。
そのとき、どこからか炭の匂いがした。
私は手を止めた。
杉の湿った匂いとは違う。薪が燃えたあとの乾いた臭気でもない。火を消した囲炉裏の灰を、少し濡らしたときに立つ匂いだった。鼻の奥へ入ると、なぜか胸の奥が緩んだ。祖母の家の囲炉裏の前に座っていたときと同じ、熱に守られているような感覚が一瞬だけ戻ってくる。
だが次の瞬間、そこに誰かがいた気配だけが抜け落ちた。
私は立ち上がり、周囲を見た。霧が杉の幹の間を薄く流れている。人影はない。沢の音が、私の呼吸を隠していた。
匂いはすぐに消えた。
沢口家は、林道の終わりから少し外れた斜面にあった。軒の一部が落ち、庭には伸びた笹が侵入している。それでも玄関までの石畳だけは、誰かが歩くために残されたように草が短かった。
私は石の下から鍵を取り出した。黒い鉄の鍵は冷たく、濡れていた。錠に差し込むと、一度では回らなかった。力を込めると、内部で錆が擦れる音がした。
戸を開けた途端、ひやりとした空気が顔に触れた。
土間の隅に、古い農具が立てかけられている。壁には煤の筋が何本も走り、天井の梁には乾いた蜘蛛の巣が垂れていた。生活の音はない。冷蔵庫の唸りも、時計の秒針も、誰かが歩く床の軋みもない。
それなのに、家は完全には死んでいなかった。
囲炉裏の縁は、ほかの床板より黒く磨かれていた。仏間へ続く襖の引手には、長いあいだ触れられてきた光沢が残っている。私は土間に荷物を置き、しゃがんで囲炉裏の灰へ指を伸ばした。
冷たいと思っていた。
だが灰は、指先を沈めるとわずかに湿っていた。
表面に積もった灰は乾いている。けれど、その下には水気と、かすかな温みがある。私は指を抜き、灰を親指と人差し指でこすり合わせた。ざらつきの中に、細かな炭の粒が混じっている。古い炭は軽く、角が崩れている。ここにあるものは、崩れてはいるが、崩れ方が新しかった。
私はノートを開いた。
〈沢口家到着。屋内は無人。囲炉裏の灰、表面乾燥、内部湿潤。炭片に新しい欠け。煤の匂い、残存〉
そこまで書いて、筆先が止まった。
灰の中央に、細い窪みがあった。火箸を寝かせた跡に見える。窪みの両脇には、炭が二つ、互いに寄り添うように置かれていた。
誰かが、火を消したあとで、また起こすつもりだったのだろうか。
私はそう考え、すぐに打ち消した。火を起こすなら、薪も火種も必要になる。家の中を調べると、囲炉裏脇の薪籠には、湿った薪が数本残っていた。どれも表面に白い黴が浮いている。今夜使えるものではない。
囲炉裏のそばに膝をついたまま、私は家の静けさを聞いた。
沢の音。
屋根から落ちる雫。
梁の奥で、何か小さなものが動いた気配。
そして、消えたはずの炭が、まだそこにいるような匂い。
私は無意識に、祖母から譲られた火箸の形の栞を、胸元のポケット越しに押さえた。煤で黒ずんだ小さな金属片が、体温を吸っていた。
誰もいない家に入ったはずなのに、私は帰ってきたような気がしていた。
その親密さが、いちばん不気味だった。
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