第10話 郵便受けのない部屋

翌朝、私はメイプルコートの郵便受けを一つずつ見て回った。
出勤前の短い時間だったが、いつものように階段を使った。エレベーターの点検札は外されていた。扉の隙間から、古い油と機械の熱が混じった匂いが流れている。誰かが夜のうちに直したらしい。
けれど、直ったことが安心にはつながらなかった。
郵便受けは一階のエントランス脇に、六列ずつ並んでいる。番号は一階から順に振られていた。百号台、二百号台、三百号台。四階、五階、六階。数字を目で追いながら、私は一つの欠落に気づいた。
六〇五号室の郵便受けがない。
六〇四号室の隣には、六〇六号室の箱があった。間に空白はない。だが、六〇五号室の番号だけが抜け落ちている。金属板を外した跡も、接着剤の剥がれも見えなかった。最初からそこに箱がなかったように、隣の二つが詰めて取り付けられている。
高瀬の言葉が、耳の奥で戻ってきた。
郵便受けのない部屋。
私は箱の列から離れ、管理室のほうを見た。ガラス戸の向こうで、森岡真奈美が机に向かっていた。いつものように背筋を伸ばし、台帳を開いている。鍵束は机の右端に置かれていた。
音がしない。
それがかえって不自然だった。
私は管理室の扉を開けた。
「おはようございます」
森岡さんはすぐには顔を上げなかった。台帳の行を指でなぞり、端まで来てから赤ペンを置く。
「朝から何ですか」
「六〇五号室について確認したいことがあります」
鍵束が、机の上でかすかに揺れた。
「六〇五は空室です」
「空室なのに、郵便受けがありません」
「使われていない部屋の郵便受けを外すことはあります」
「郵便受けを外した記録は?」
「ありません」
「では、なぜ外れているんですか」
森岡さんは私を見た。目が先に私の顔へ来ず、胸元、手、靴の順に移った。私が何を持っているか確かめているようだった。
「古い建物ですから。改修のときに、いくつか仕様が変わりました」
「六〇五号室だけ?」
「部屋番号にこだわる理由が分かりません」
「高瀬さんから聞きました。六〇五号室では、以前にも一晩で空室になったことがある」
森岡さんの指が止まった。
すぐに動き出したが、今度は台帳の行をなぞらなかった。紙の端を押さえ、浮き上がった角を指先で潰している。
「高瀬さんは、余計なことを言いますね」
「余計なことではありません。事実かどうかを確認しています」
「昔のことです」
「だから、確認したいんです」
森岡さんは台帳を閉じた。表紙の角が机に当たり、乾いた音を立てた。
「六〇五号室の住人は、退去しました。それだけです」
「退去した人の名前は?」
「古い記録は、管理会社で保管しています」
「ここにはない?」
「ありません」
「でも、郵便受け台帳には残っているはずです」
「郵便受け台帳は、郵便受けの管理表です。人の履歴ではありません」
「なら、なぜ六〇五号室の箱だけがないんですか」
森岡さんは答えなかった。
管理室の壁時計が、秒針を一つ進めた。小さな音だったが、室内でははっきり聞こえた。窓の外を自転車が通り、濡れたタイヤが地面の砂を弾く。
「郵便受けがないということは、郵便が届かないということです」
私は言った。
「郵便が届かない部屋は、住所として存在しないのと同じではありませんか」
森岡さんの顔から、わずかに血の気が引いた。
その変化を見た瞬間、私は確信した。六〇五号室は空室になったあとに郵便受けを外されたのではない。誰かが、住人の存在を記録から切り離すために、最初から郵便の流れへ戻れない部屋にしたのだ。
「誰が外したんですか」
「知りません」
「鍵を管理しているのは、森岡さんです」
「鍵を持っていることと、全部を知っていることは別です」
「大原さんは?」
鍵束が鳴った。
森岡さんが無意識に触れたのか、机が揺れたのかは分からない。ただ、金属音はいつもの彼女のものより軽かった。
「大原さんが何ですか」
「六〇五号室の処理に関わっていた」
「管理会社の人間ですから、退去処理に関わることはあります」
「七〇二号室の夜にも、非常階段から降りてきたところを見られています」
森岡さんは、そこで初めて私をまっすぐ見た。
「誰に聞いたんです」
「芦田さんです」
彼女の口元がわずかに動いた。怒りではない。名前を記録のどこへ置くか迷っているような動きだった。
「芦田さんは、昔のことをよく覚えていらっしゃいますね」
「森岡さんは、覚えていないんですか」
「覚えていても、言わないことはあります」
「それは、守秘義務ですか」
「生活の知恵です」
その言葉に、私は笑えなかった。
「生活の知恵で、誰かの郵便受けをなくすんですか」
「郵便受けをなくしたのは、私ではありません」
「では誰ですか」
「あなたは、誰か一人が全部をやったと思っているんですか」
森岡さんは椅子から立ち上がった。背は高くないのに、部屋が狭くなったように感じた。
「大原さんが紙を直す。佐伯さんが手続きを通す。私は鍵を預かる。住人は見なかったことにする。警察は、成人の転居として受理する。それぞれが自分の仕事をしているだけです」
「それで、人が消える」
「消えるのは人ではありません。部屋の使われ方です」
「言い換えているだけです」
「言い換えなければ、暮らせないこともあります」
森岡さんの声は静かだった。静かなまま、私の中にある古い言葉と重なった。
迷惑をかけない。関わらない。疲れている。自分には関係ない。
私はそれらを、生活のための言葉だと思ってきた。けれど実際には、誰かが消えていく音を小さくするための言葉だった。
「六〇五号室は、今も使われていますか」
森岡さんの表情が初めて崩れた。
「何を根拠に」
「高瀬さんが、記録を預けた相手がいると言いました。郵便受けのない部屋だと」
「高瀬さんが、あなたにそこまで話したんですか」
「はい」
「では、あなたはもう知っているのでしょう」
「何をですか」
森岡さんは答えず、鍵束を手に取った。
束の中から一本だけ、他より細い鍵を抜く。銀色の表面に、部屋番号の札は付いていなかった。鍵先が黒ずみ、長く使われているのに、どの扉のものか分からない。
「六〇五号室へ行くなら、非常階段を使ってください」
「鍵を貸してくれるんですか」
「貸しません。見に行くだけです」
「中へ入れるんですか」
「空室ですから、鍵は掛かっていません」
「今も?」
「今もです」
森岡さんは鍵を戻した。
「ただし、部屋の中にあるものを持ち出さないでください」
「何があるんですか」
「あなたが見つけたものです」
それだけ言うと、彼女は台帳を開き直した。
私は管理室を出た。
エントランスには、朝の郵便が届き始めていた。黒田みつえの自転車が、ガラス戸の向こうで止まる。彼女はバッグから束を取り出し、受け口へ一通ずつ差し込んでいく。六〇四、六〇六、六〇七。六〇五だけが飛ばされる。
飛ばされた一通を、黒田さんは手に残していた。
彼女は私に気づくと、封筒を見せた。宛名の欄には、部屋番号だけが書かれている。
六〇五。
「今朝、これが来ました」
黒田さんの声は低かった。
「宛名はありません。名前も、差出人も」
「配達できないんじゃないですか」
「そうです。だから、あなたに渡します」
封筒を受け取ると、紙のざらつきが指先へ伝わった。
中に何かが入っている。薄いのに、折り目のない硬さがあった。
私はまだ開けなかった。
郵便受けのない部屋へ届いた手紙を、今度は誰が、どこへ残したのか。
背後の管理室から、鍵束の音が一度だけ鳴った。
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