第1話 雨の靴跡

海から吹き上げてくる雨は、坂道をまっすぐ下りてこなかった。風に押されて斜めに流れ、浜見坂高校の古い校舎を横から叩いていた。
昇降口の庇の下に入っても、制服の袖は細かく濡れていた。傘を閉じると、骨の少し曲がった折りたたみ傘が、手の中で頼りなく軋んだ。床のタイルには、出ていく靴と戻ってくる靴の跡が重なっている。黒い水たまりの中に、誰かの上履きの白い縁や、泥のついたローファーの踵がぼんやり映っていた。
私は鞄の中を確かめた。駅前の図書館へ返す文庫本。貸出票が挟まったままの、読み終わっていない本。母が朝、何も言わずに入れておいた薄いタオル。
今日は図書館に寄って、本棚の間を少し歩く。それからコンビニで新作の菓子パンを確認して、気が向いたらひとつ買う。帰宅時間はいつもと同じ。文化祭前日でも、私の放課後はそのくらいで終わるはずだった。
「ねえ」
背中に声が当たった。
振り向くと、相馬結衣がいた。小柄な身体に似合わない大きさの黒いクリップボードを抱え、濡れた前髪を片手で耳にかけている。その仕草が一度で終わらず、二度、三度と繰り返された。焦っているときの結衣は、髪を耳にかける回数が増える。
「……私?」
「他に誰がいるの。今この靴箱の前にいるの、あんたしかいないでしょ」
結衣はそう言いながら、私の返事を聞く前に近づいてきた。クリップボードの端には、赤いペンで書かれた時間や矢印がびっしり並んでいる。彼女の指が紙を押さえるたび、爪の先に乾いた絵の具が見えた。
「藤崎、熱出した。立てない」
「藤崎って……蓮?」
「そう。朝からちょっと変だったけど、さっき保健室で測ったら三十九度近くあった。先生が家の人に連絡して、今は帰る準備。明日の本番は無理」
結衣はそこで一度息を吸い、私の胸元を見た。まるで、そこに空いている場所でもあるかのように。
「だから、あんたが代役」
手にしていた傘の水滴が、タイルへひとつ落ちた。
「……えっと」
返事の前に息を吸ってしまった。驚いたときの私の癖だった。結衣はその音を聞き逃さなかった。
「昨日、見学に来てたでしょ。後ろの席じゃなくて、袖。舞台の右側。蓮が二場でどこまで出るか、ちゃんと見てた」
「見てたっていうか、見えてただけで」
「同じこと」
「全然違うよ。私は演劇部じゃないし、舞台に立ったこともないし、台詞だって――」
「覚える」
「いや、そういう問題じゃなくて」
「じゃあ何の問題?」
結衣の声は大きくないのに、昇降口の奥まで届いた。廊下のどこかで、ガムテープを裂く音が止まる。すぐにまた、びりっ、と乾いた音がした。
私は制服の裾をつまんだ。濡れた布が指に冷たい。
「私より、他にいるでしょ。演劇部なんだから」
「いるなら探してる。三年は全員、別の役か照明か音響に入ってる。二年は私が舞台監督で、衣装の子は台詞を覚える時間がない。男子の役を女子がやる案も出たけど、蓮の役は出ずっぱりだから声が持たない。先生は代役を立てるなら今夜から立ち稽古をしないと無理だって言ってる」
そこまで一息で言って、結衣は喉を鳴らした。焦っているのに、言葉だけは妙に整理されていた。頭の中で何度も同じ説明を繰り返したのだろう。
「だから、あんた」
「私、名前もちゃんと覚えられてないよ」
思ったより先に言葉が出た。
結衣が黙った。
「演劇部の人たち、私のこと、たぶん二組の静かな人くらいにしか知らない。そんな人を主役にするの、変じゃない?」
「名前は知ってる」
「いつ?」
「今、確認した」
結衣はクリップボードの隅を見た。そこには、クラス別の準備担当表が貼られていた。私の名前があるのかと思ったが、目で追う前に、結衣が台本を取り出した。
第二稿。
表紙は雨を吸って波打っていた。蛍光ペンの線が黄色、桃色、緑色と重なり、余白には細い字がびっしり書き込まれている。「一拍」「ここで客席を見る」「息が浅い」「袖、遅れない」。誰かの鉛筆の跡を、別の誰かが赤ペンで直し、その上からまた別の誰かが新しい指示を書いていた。
結衣はそれを私の胸へ押しつけた。
紙の冷たさが、制服越しに伝わった。
「昨日、あんたが見てた位置、蓮の入りと重なる。たぶん、舞台を見る目がある」
「そんなの、見てただけだよ」
「見てるだけって、何もしてないことじゃないでしょ」
結衣の言葉は、そこでわずかに揺れた。
けれど、すぐにいつもの鋭い調子へ戻った。
「それに、見てたなら分かるはず。蓮の代わりを誰かがやらないと、明日の舞台は途中で止まる。三年生が何週間も積んできたものが、主役ひとり抜けただけで全部止まる」
「……私がやったら、止まらないの?」
「止まるかもしれない。でも、やらなかったら確実に止まる」
雨音が、庇の端から連続して落ちていた。昇降口の外では、坂を下る自転車のブレーキが濡れた音を立て、誰かの笑い声が風にちぎれて消えた。
私は台本の端を親指で押さえた。紙に残った書き込みが、指先へ引っかかる。
結衣の言っていることは乱暴だった。頼み方として正しくない。私の都合も、できるかどうかも、ほとんど聞かれていない。
それなのに、断る言葉が出てこなかった。
断ればいい。今日は帰る。図書館へ行く。何も知らない顔で本棚の前に立つ。明日の朝、演劇部の公演が中止になっていても、それは私の責任ではない。
そう考えれば考えるほど、廊下の奥から聞こえてくる音が近くなった。
椅子を引く音。誰かの足音。笑い声。短い怒鳴り声。
「そこ、違うって!」
結衣が振り返った。
「結衣、どこ行った!」
男子の声が飛んでくる。
「今行く!」
結衣は反射的に返事をした。それから私を見る。目の中に、時間を測る針のような焦りがあった。
「藤崎が倒れたって聞いてから、みんな、誰も口にしないけど、明日のこと考えてる。中止にするのか、台本を変えるのか、誰かが無理して出るのか。三年生は最後だから、簡単に止めるって言えない。先生は無理なものは無理って顔してる。でも、誰も帰ろうとしない」
「それは……演劇部の人たちが決めることでしょ」
「そうだよ。だから、あんたにも決めてほしい」
初めて、結衣の声から命令の形が消えた。
「やるか、やらないか。私は、あんたを舞台に押し出したいんじゃない。押し出すしかないくらい、時間がないだけ。だけど、舞台に立つかどうかまで私が決めたら、あんたの代役じゃなくて、私の操り人形になる。それは嫌」
思いがけず長い言葉だった。結衣は途中で髪を耳にかけることも、クリップボードを見ることもしなかった。
「……信じてるの?」
聞いてから、変な質問だと思った。
結衣は眉を寄せた。
「何を」
「私ができるって」
「できるとは言ってない」
即答だった。
「でも、できないとも言ってない。そこを今から確かめる。確かめる前に帰られたら、私が困る」
「結局、自分が困るからじゃん」
「そう。私は困りたくない。三年生の最後を、主役が熱出したからって畳みたくない。蓮が、ずっとこの役のために声を作ってきたのも知ってる。何度も立ち位置を直して、照明の角度まで覚えて、後輩に『客席は敵じゃない』とか偉そうに言ってたのも知ってる。あいつがいないからって、残った人間が何もできない顔をして終わるのが、一番嫌」
そこまで言って、結衣は少しだけ視線を逸らした。
「だから、あんたを使う。使えると思ったから」
雑な言い方だった。
でも、その雑さの奥に、私を人として見ているのか、部品として見ているのか分からない危うさがあった。私はそれが嫌だった。雑に扱われるのは、思っていたより腹が立つ。
「……使うって、言い方」
「じゃあ訂正する。頼む。今夜だけ、私たちに貸して」
「もっと悪くなった」
結衣の口元が、ほんの少しだけ歪んだ。
笑ったのかもしれない。すぐに消えたので、確信は持てなかった。
そのとき、鞄の中で携帯電話が震えた。
母からだった。
《傘ある?》
短い文章の下に、少し間を置いてもう一件届く。
《雨ひどいから、帰り遅くなるなら連絡して》
私は画面を見つめた。いつもなら「ある」「了解」と返すだけだ。けれど今は、何をしているのか説明する必要があった。
《演劇部の手伝いになった》
送ってから、すぐに後悔した。手伝い、という言葉では足りない。主役の代役を頼まれた。そう書けば、母はもっと心配するだろう。
返信は早かった。
《何時に帰るの》
続けて、

《食べた?》
その現実的な問いに、喉の奥が少し緩んだ。舞台だとか主役だとか、そんな言葉が浮かんでいるのに、母はまず食事の話をする。私は「まだ」と打ちかけ、消した。
結衣が画面を覗き込む。
「帰る?」
「母から」
「知ってる。顔に出てる」
「帰る時間、聞かれた」
「正直に言えば」
「何時か分からない」
「じゃあ、分からないって送ればいい」
「そんな簡単に……」
「簡単だよ。分からないものは分からない。舞台も同じ。明日どうなるかなんて、今の私たちには分からない。でも、分からないからって何もしない理由にはならない」
結衣は台本の表紙を指で叩いた。
「返事して。帰るなら、今。残るなら、視聴覚室。曖昧なまま立ってると、濡れるだけ」
母へ《まだ分からない。終わったら連絡する》と送った。
既読がつく。
《タオルある?》
私は鞄の中のタオルに触れた。
《ある》
《ならいい。冷めるけど、夕飯は置いとく》
その文章を読んでいるうちに、結衣が先に歩き出した。
「ちょっと、まだ返事してない」
「今したでしょ」
「そうじゃなくて、演劇部の」
「歩きながらでいい。あんた、立ち止まると考えすぎるから」
図星だった。
私は傘を鞄へ押し込み、第二稿を抱えたまま結衣を追った。
廊下には、文化祭前夜の匂いが溜まっていた。絵の具、濡れた新聞紙、古い木、汗、誰かが食べた菓子パンの甘い残り香。壁際では、衣装係の女子が学ランの袖を裏返し、糸を歯で切っている。別の男子が段ボールを抱えたまま、私たちを見て目を丸くした。
「その子、誰?」
「代役」
結衣が即答した。
「代役って、もう決まったの?」
「今決める」
「いや、結衣、それは――」
「口を動かす暇があるなら、看板の文字を乾かして。絵の具、まだ滲んでる」
男子は何か言いかけたが、結衣の声に押されて段ボールの向こうへ戻った。
私は小走りになりながら、結衣の横顔を見た。誰かに頼むより先に、自分で片づける顔。人を動かす声を持っているのに、その声の裏では、ずっと何かが崩れないよう押さえている。
視聴覚室へ続く階段の前で、結衣が急に止まった。
「ひとつだけ言っとく」
私は足を止め、階段の踊り場から窓の外を見た。雨の向こうで、海が灰色に潰れている。坂道を上ってきた人たちの靴跡が、階段の手前まで細長く続いていた。
「蓮の真似をしなくていい」
結衣が言った。
「でも、蓮の代わりなんでしょ」
「代わりだからって、同じになる必要はない。蓮は蓮。あんたはあんた。そんなこと、今さら言われなくても分かってると思ってた」
「分かってないから困ってる」
「じゃあ、今から分かればいい」
「そんなに簡単じゃないよ」
「簡単じゃない。だから時間がない」
結衣は一段上へ登り、私を振り返った。
「舞台は、できる人間だけが立つ場所じゃない。立った人間が、できないところを隠さずに、次の人の息に合わせていく場所。蓮だって、最初からできたわけじゃない。あいつが立てるようになったのも、周りが合わせたから。あんたが立つなら、今度は私たちが合わせる。だから、あんたも勝手に一人で沈まないで」
最後の言葉だけ、少し低かった。
私は返事をしようとした。けれど、また「えっと」と息を吸い込んでしまう。
結衣が先に言う。
「その『えっと』、台詞の前に出る癖?」
「知らない」
「じゃあ使えるかもね。役の癖にする」
「そんな適当でいいの?」
「適当じゃない。使えるものは使う。舞台は、準備したものだけでできてないから」
結衣の手が伸びてきて、私の台本の端を押さえた。私の指と彼女の指が一瞬触れた。濡れた紙を挟んだ近さに、互いの呼吸が聞こえそうだった。
結衣はすぐ手を離した。
「行くよ」
視聴覚室の扉が開く。
中では机が三つ並べられ、壁際に椅子が寄せられていた。天井近くの壊れかけたピンスポットが、誰もいない中央の床を少しだけ外して照らしている。古い木の床に、何人分もの靴跡が重なっていた。
榊原先生が窓際に立っていた。黒縁眼鏡を押し上げ、私の足元を見る。濡れた靴から、床へ小さな水滴が落ちた。
「靴、拭け」
「はい」
結衣がすぐに雑巾を投げてよこした。
私はしゃがみ込み、靴底と床の境目を拭いた。誰かの舞台を借りるなら、まず濡れた跡を残さないことから始めるらしい。
榊原先生が私の前に立った。
「台本」
差し出すと、先生は第二稿を開いた。蛍光ペンの線、重なった鉛筆の跡、ページの端のふやけ。先生はそこを見てから、私の顔へ視線を戻した。
「役名は」
私は答えられなかった。
結衣が横から言いかける。
「先生、まだ――」
先生は手を上げて止めた。
「本人に聞いている」
喉が鳴った。
台本の表紙に書かれた役名を見た。何度も見たはずなのに、今初めて、自分へ向けられた文字のように見えた。
「……ユウ」
声が小さくなった。
「聞こえない」
私は息を吸った。視聴覚室の雨音、椅子の軋み、遠くの誰かの笑い声。その全部が、一度だけ遠のいた。
「ユウです」
先生がうなずいた。
「立て」
結衣が机を二つずらした。ガムテープが床から剥がれる音がした。誰かが照明のスイッチを触り、壊れかけのピンスポットが一度明滅する。
私は何もない中央へ歩いた。
濡れた靴跡の続きが、そこまで伸びていた。完璧な線ではない。途中で薄くなり、別の跡に重なり、どこへ向かうのか分からない。
それでも私は、その跡の先に立った。
結衣が第二稿を開く。
「一場、最初から。私が相手役やる。先生、見てて」
「見ている」
先生は短く答えた。
私は台本を両手で持ち、最初の行を探した。紙の角が指先に刺さる。喉が乾いている。帰り道はまだ、校舎の外にある。けれど、もうそちらを見なかった。
「はい、始めるよ」
結衣の声が飛ぶ。
私は息を吸った。
そして、昨日まで見ているだけだった場所で、初めて自分の声を出した。
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