10話 第10話「戻された箱」

鐘が三度目に鳴ったあと、私たちは防波堤を下りた。

灯籠の明かりはすでに岸から離れ、沖へ向かって細く並んでいる。水面に映った火は波のたびに崩れ、消えたように見えては、別の場所でまた揺れた。

椎名さんが先頭に立った。鍵束を手のひらで包み、旧倉庫へ続く道を歩いていく。祭りの明かりは背中側へ遠ざかり、倉庫の並ぶ一帯には、潮と鉄の匂いだけが濃く残っていた。

「立花さんは、来ないのですか」

私が尋ねると、佐伯さんが答えた。

「写真の説明をするため、祭りの係の人たちに呼び止められました。今夜のうちに話せることは話すそうです」

「久保田さんは」

「残りました。町の人に、何も知らない顔を続けるのが難しくなったのでしょう」

真帆が言った。

「難しくなっただけで、やめたわけではありません」

「ええ」

私は足元を照らした。夫から借りた懐中電灯の光が、濡れた石の上を細長く滑っていく。光の輪のなかに、古い釘や貝殻の欠片が浮かんでは消えた。

旧倉庫は、港の外れにあった。かつては漁具を入れていたらしいが、今は扉の板が潮で白く変色し、片側の壁には蔦が絡んでいる。椎名さんは扉の前で立ち止まり、錆びた錠前を指で確かめた。

「誰か、最近触っています」

真帆が言った。

錠前の下に、金属の擦れた跡があった。錆の上に新しい傷が走っている。

「私ではない」

影山さんが答えた。

「いつから、ここに置いたのですか」

「日記箱を持ち去った夜です」

「三十年前ではなく?」

「今回の夜です」

影山さんの声は、海風のなかでもよく聞こえた。

「倉橋さんの家から持ち出したあと、ここへ運びました。箱を開けたのは、その翌日です」

「そのとき、何を見ましたか」

「あなたの字を」

「質問を変えます。何を持ち出しましたか」

影山さんは答えなかった。

椎名さんが鍵を錠前へ差し込んだ。二度回すと、内部で重い金属が外れる音がした。扉を押すと、湿った木の匂いが押し寄せてきた。古い縄、油、鼠の糞、濡れた紙。地下書庫とは違う、海に近い暗がりの匂いだった。

倉庫の奥には、木箱や空の樽が積まれていた。椎名さんは壁際の梯子を見上げた。

「二階だ」

階段を上ると、板が一枚、ぎしりと鳴った。私は手すりを握り、暗い踊り場へ出た。天井近くの小窓から、港の灯りが細く差し込んでいる。

二階の隅に、日記箱はあった。

潮で白く擦れた角。鍵穴の脇に残る、私が何度も触れた跡。箱を見た瞬間、身体のなかから一度に力が抜けた。

戻ってきた。

そう思ったのに、足は箱へ近づかなかった。

「開けますか」

真帆が訊いた。

「はい」

私は椎名さんから鍵を受け取った。日記箱の鍵は、上着の内ポケットに入れていた。鍵穴へ差し込むと、わずかに引っかかった。三十年分の時間が、錆びた金属の奥で抵抗しているようだった。

蓋を開ける。

中には、日記の束があった。戻ってきた断片と同じように、紙は波打ち、何冊かの表紙には焦げた跡がある。ただし、すべてではなかった。

「足りませんね」

真帆が呟いた。

「何冊ですか」

「三冊。二〇〇一年、二〇〇八年、それから三十年前の八月分」

私は箱の底を見た。何もない。木の板に、細い紙片が一枚だけ貼りついている。

影山さんが、そこで初めて顔を伏せた。

「それは、私が残したものです」

真帆が紙片を剥がした。裏側に鉛筆の跡がある。

書かないことを頼んだ。  頼んだだけで、消す権利はなかった。

私は文字を指でなぞった。

「これは、いつ書いたのですか」

「今日の朝です」

「三十年前のことを、今日になって?」

「今日でなければ、書けなかった」

「あなたは三十年、書かなかった」

「はい」

影山さんは箱の前へ膝をついた。

「三冊は、私の家にあります。返します」

「なぜ、ここへ置かなかったのですか」

「読めなかった」

「あなたが?」

「ええ。あなたの日記を持ち去ったのは、書かれたことが外へ出るのを恐れたからです。でも、持ち去ったあとで、私は毎晩それを読もうとした。読めなかった。あなたが見たものを、私の都合で並べ替えたことが分かってしまうからです」

「それでも、持っていた」

「持っていれば、まだ戻せると思っていた」

「戻すことと、所有することは違います」

影山さんは小さくうなずいた。

「分かっています。遅すぎますが」

佐伯さんが箱の中身を確認し、手帳へ記録していく。紙をめくる音が、倉庫の梁に反響した。私はその音を聞きながら、日記の束へ手を伸ばした。

八月の頁を開く。

鐘が鳴る前、私は裏口へ出た。  倒れていた人は、まだ息をしていた。

そこで文章が途切れている。

私は息を止めた。

「まだ、息をしていた?」

真帆が読み上げた。

「ええ」

「では、事故のあと、誰かが助けを呼ぶことはできた」

「できました」

影山さんの声がした。

「でも、呼ばなかった」

倉庫の外で、波が低く砕けた。

「なぜですか」

佐伯さんが問う。

影山さんは、しばらく答えなかった。

「あの人は、港の倉庫へ入るための書類を持っていました。町内会の帳簿に記載されていない荷のことを知っていた。図書館へ資料を届ける途中で、裏口に回った。そこで、誰かに追われていた」

「誰に?」

「私です」

影山さんの顔から血の気が引いた。

「追いかけたのは、口止めのためではありません。話を聞くためでした。けれど、揉み合いになった。あの人が足を滑らせ、石段から落ちた。私は助けようとした。でも、傷を見た瞬間に、警察を呼べば町の不正がすべて明るみに出ると思った」

「だから、助けなかった」

「久保田さんを呼び、椎名さんに通路を閉じさせた。立花さんには、見たものを残さないよう頼んだ。倉橋さんには、何も書かないよう頼んだ」

影山さんは、私を見た。

「その人は、救急車が来る前に亡くなりました」

声を荒らげる者はいなかった。責める言葉も、すぐには出てこなかった。倉庫のなかに、紙の湿った匂いだけが残った。

私は日記を閉じた。

「その人の名前は?」

影山さんは、返事をしなかった。

真帆が紙片の空白を見つめている。

「名前を消したのは、影山さんですか」

「はい」

「本人が望まないから?」

「……そう思いたかった」

「本当は、名前を書けば、事故ではなくなるからですね」

影山さんの唇がわずかに震えた。

私は箱から一冊の古い台帳を取り出した。表紙の裏に、見覚えのある赤鉛筆の印がある。三十年前、私が寄贈資料を受け取ったときに使った印だった。

頁をめくると、消された寄贈者名の下に、薄く筆圧だけが残っていた。

水谷澄江。

私はその名を声に出さなかった。けれど、今度は消さなかった。

真帆がノートを開いた。文字を書く手が、少し震えている。

「名前が戻りました」

「いいえ」

私は台帳の空白を見つめた。

「戻ったのではありません。今、初めてここに置くのです」

外では、遠くの灯籠がひとつ、波に呑まれた。

私は日記の最後の頁へ鉛筆を置いた。

水谷澄江。  私はあなたを見た。息をしているのを見た。助けられなかった時間を、三十年後の今日まで書かなかった。

書き終えると、鉛筆の芯が折れた。

私は折れた先を拾い上げ、箱の隅へ置いた。すぐに削り直す気にはなれなかった。

紙の上には、まだ空白が残っている。

けれどそれは、誰かが勝手に切り取った空白ではなかった。私がこれから、何を書くかを選ぶための余白だった。

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