第10話 五分の空白

港の鐘が鳴り終わっても、会議室には余韻が残っていた。
低い音が窓ガラスを震わせ、消えたあとも机の上の紙をわずかに揺らしている。神谷さんはその揺れが収まるまで待ち、灯台日志の複写を封筒へ戻した。
「灯台へ行く」
「今からですか」
「機械油の粉が出た場所を確認する。鐘の音を聞き分けるなら、音源を見ないと始まらない」
久世さんが腕時計を見た。
「灯台守はもう帰っています」
「鍵は?」
「管理室にあります。議会の管轄ですから」
伊吹さんが穏やかに口を挟んだ。
「夜間に入る必要がありますか。機械は古い。勝手に触れば、事故になります」
「触らない。見るだけです」
「見るだけで済まない人間もいるでしょう」
その視線が僕に向いた。
僕は返事をしなかった。伊吹さんは、こちらが反発するのを待っているように見えた。だが、僕が黙っていると、彼はいつもの笑顔を戻した。
「霧島さんは、過去を急ぎすぎている」
「急いでいるのは、僕ではなく、消された記録のほうです」
口にしてから、少し言い過ぎたと思った。
けれど伊吹さんの笑顔は崩れなかった。代わりに、右手の親指が腕時計の縁を一度撫でた。
神谷さんはそれを見ていた。
「伊吹議長。あなたも来てください」
「私が?」
「灯台の管理責任者として」
「責任者は灯台守です」
「では、彼を呼んでください」
伊吹さんは、ほんの少しだけ息を止めた。
「分かりました。連絡しましょう」
その返事を聞いたとき、僕は彼が灯台へ行きたくないのではなく、灯台に誰が先に入るかを気にしているのだと思った。
外へ出ると、霧が戻っていた。
昼間の港は、夜ほど輪郭を失ってはいない。それでも、灯台へ続く坂道の先は白く途切れている。潮の匂いに、古い機械油の苦い臭いが混じっていた。
神谷さんが先を歩き、僕と久世さんが続いた。伊吹さんは少し離れたところを歩いている。革靴が濡れた石を踏むたび、一定の間隔で音がした。
「久世さん」
「何ですか」
「K‐17の荷札は、どの帳簿に記録されるものですか」
「通常なら出港記録です。ただ、あの番号は通常の貨物ではありません」
「何が違うんですか」
「荷札の頭にKが付くものは、観海運輸の正式な積荷ではない。倉庫間の移動や、回収品に使う仮番号です」
「回収品?」
「海から拾い上げたもの。漂流物、破損した荷、持ち主の分からないもの。そういうものを一時的に管理するための番号です」
「人間にも付けられた?」
久世さんは歩みを止めなかった。
「帳簿の上では、物にしか付かない番号です」
「帳簿の上では」
「そういう言葉尻を拾っても、過去は戻りません」
「戻すために拾っています」
久世さんの手が、コートのポケットの中で握られたように見えた。
「あなたは、十年前の夜に僕を見た。そのとき、僕はK‐17を持っていた」
「荷札の切れ端を」
「では、僕は何を運んでいたんですか」
「覚えていません」
「覚えているけれど、言えない?」
「違います」
久世さんは初めて足を止めた。
霧の向こうで灯台の白い壁が浮かんでいる。彼女の顔は見えにくかったが、声だけははっきりしていた。
「あなたは、何かを抱えていた。帳簿か、濡れた封筒か、私には判別できなかった。ただ、あなたはそれを落とさないようにしていた。誰かから奪ったようには見えなかった」
「守っていた?」
「そう見えました」
「それでも、僕は記録を閉じた」
「人は、守っているものを自分で閉じることがあります」
「どうして」
「開ければ、守れなくなるからです」
灯台の扉の前で、神谷さんが振り返った。
「話は中で」
管理室の鍵を開けると、湿った金属の匂いが流れてきた。狭い階段を上がり、警報鐘の機械室へ入る。窓の外では、霧の向こうに港の灯りが滲んでいた。
機械は止まっていた。
古い歯車と細い鎖が、油を含んだ黒い布に覆われている。神谷さんは手袋を替え、機械の下に敷かれた受け皿を照らした。
黒い油の底に、銀色の粉が沈んでいた。
「久世さんの話と一致する」
神谷さんは写真を撮り、受け皿の端を確認した。
「ここに紙片が挟まっている」
ピンセットで引き抜かれた紙は、濡れて縮んでいた。表面に、鉛筆で数字が書かれている。
二三一四。
僕の背中を、冷たいものが這った。
「音声メモのファイル名と同じです」
「誰かが、ここで時刻を書いた」
神谷さんが紙片を裏返す。
裏側には、細い線が二本と、途切れた文字が残っていた。
――戻せば、まだ間に合う。
息が詰まった。
記憶の中で、同じ言葉を聞いた。
戻せばいい。
けれど、声の主は僕ではなかった。
「この字……」
久世さんが呟いた。
「知っていますか」
「澪さんの字ではありません。伊吹議長のものでもない」
神谷さんが僕を見る。
「あなたは?」
僕は紙片へ顔を近づけた。鉛筆の線は薄く、湿気で膨らんでいる。それでも、数字の「二」の払い方に見覚えがあった。
資料館で何度も見た字。
帳票の余白に、時刻や番号を書き込んでいた字。
「有馬さんの筆跡に似ています」
言葉にした瞬間、機械室の外で靴音がした。
一つ。
二つ。
階段を上がる音ではない。扉の前で、誰かが立ち止まった音だった。
伊吹さんが振り返る。
「誰か来たようですね」
神谷さんは扉へ近づき、素早く開けた。
廊下には誰もいなかった。
ただ、床に濡れた紙が一枚落ちている。
拾い上げると、資料館の保管札だった。裏面に、黒いインクで短い文字が書かれている。
開けるな。
その筆跡は、僕のものに見えた。
けれど、最後の一画だけが違っていた。
僕の字よりも、ずっと丁寧で、迷いがない。
神谷さんが紙を袋へ入れる。
「有馬は、僕たちがここへ来ることを知っていた」
久世さんが言った。
「あるいは、来るように仕向けた」
灯台の機械室で、止まっていたはずの鎖がかすかに揺れた。
霧の向こうで、鐘が一度だけ鳴った。 時刻を知らせる音ではなかった。
誰かが、次に開ける場所を示すような音だった。
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