第1話 ガラス越しの均衡
今にして思えば、あの頃の僕の世界は、ひどく単純な幾何学模様で成り立っていた。その中心点は、高校二年の教室、窓際最後列にある僕の席。そして、そこから斜め前方に引かれた一本の視線の先に、世界のすべての意味は収斂していた。水瀬詩織。それが、僕の観測対象であり、僕の宇宙の太陽だった。
ヘッドホンを装着すると、ビル・エヴァンスのピアノが外界のノイズを洗い流していく。クラスメイトたちの他愛ない会話、廊下を駆ける足音、遠くグラウンドから聞こえる号令。それらすべてが、繊細なピアノの和音に濾過され、意味を剥奪されたただの音響へと変わる。ここは僕だけのガラスケース。安全で、静かで、そしてひどく孤独な水槽だ。僕はそこから、ただ世界を眺める。
とりわけ、僕の視線の先にはいつも彼女がいた。水瀬詩織。艶のある黒髪、通った鼻筋、そして誰にでも分け隔てなく向けられる、完璧に計算されたような微笑み。幼い頃、この霧深い町で一度だけ出会った、僕だけの秘密の「天使」。そう信じていた少女は、高校で再会した時、誰もが振り返る「学年のマドンナ」という、陳腐だが的確な称号を冠した存在になっていた。
彼女を見る時間は、以前よりもずっと長くなった。しかし、それは僕一人の天使ではなくなってしまったことの、残酷な証明でもあった。彼女の周りには常に人がいる。快活な女子グループ、そしてバスケ部のエースである佐伯蓮。僕は、彼らが作り出す輝かしい円環の外側から、ただ焦がれるように彼女を見つめるだけだ。この距離が、僕の日常を守るための絶対的な法則だった。もどかしさと、諦め。その二つを天秤の両皿に乗せ、僕はかろうじて心の均衡を保っていた。
「おーい、相田。生きてるか?そろそろ現世に戻ってこないと、チャイム鳴っちまうぞ」
ヘッドホンの隙間から、無粋だが聞き慣れた声が滑り込んできた。高橋健太だ。彼は僕の数少ない友人で、僕が構築したガラスケースの壁を、平気な顔でノックしてくる唯一の人間だった。
「…別に。音楽を聴いていただけだ」 僕はヘッドホンをずらしながら、そっけなく答える。健太は僕の視線の先を一瞥し、ニヤリと笑った。
「へえ、その音楽ってのは、水瀬さんに合わせて選曲でもしてんのか?今日のテーマは『初恋の切なさ』、みたいな?お前さ、ほんと、そういうとこ文学的っていうか、はっきり言って面倒くさいよな。観てるだけじゃ、腹は膨れないぜ。コンビニの新作スイーツの方がよっぽど現実的な幸せをくれる」
彼はそう言って、カサカサと音を立てるビニール袋を振って見せた。転校続きだった過去を持つ彼は、「変わらない日常」の尊さを誰よりも知っている。だから、僕が非日常的な憧憬に沈んでいくのを、現実という名の錨で引き留めようとしてくれるのだ。その軽薄な優しさが、時にはありがたく、時にはひどく息苦しかった。
「天使なんだから、仕方ないだろ」
僕がぽつりと呟くと、健太は呆れたように肩をすくめた。 「出たよ、天使。まあ、確かにそう見えなくもないけどな。でも、天使だってトイレくらい行くだろ。お前は彼女のこと、そういう生身の人間として見てやらないのかよ。それって、結構、残酷なことじゃないか?」
健太の言葉は、いつも核心を突いてくる。そうだ、僕は彼女を神聖視することで、自分自身の臆病さから目を逸らしているだけなのかもしれない。彼女の孤独や、時折見せる、すべてを諦めたような儚い表情の理由を探ろうともせず、ただ美しい偶像として消費しているだけではないのか。
チャイムが鳴り、教師が入ってくる。僕は再びヘッドホンを深く装着し、ビル・エヴァンスの静謐な世界へ逃げ込んだ。窓の外では、霧ヶ崎の港から立ち上った霧が、ゆっくりと街を白く塗りつぶし始めていた。あの霧のように、僕の心も輪郭を失っていく。
この静かで完璧な均衡が、いつまでも続くはずがないことを、僕の心のどこかでは、きっと予感していたのだろう。そしてその崩壊の予兆が、一本の古びた万年筆の形をとって、もうすぐ僕の前に現れることも知らずに。
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