第9話 成瀬の奥の席

成瀬恒一の喫茶店は、夕方になると海風でドアベルが小さく鳴る。
正確には、ベルは鳴らない。鈴の根元に巻かれた布が、金属の震えを途中で吸い取る。扉が開けば、音の代わりに古い蝶番が軋み、閉じれば、店内のどこかでレコードの針が一度だけ跳ねる。
私はその店の奥の席へ通された。
窓際よりも暗く、外の海風が直接当たらない場所だった。椅子の背には、何度も拭かれた木の滑らかさが残っている。座ると、床板が私の体重を測るように低く鳴った。
成瀬は注文を訊かなかった。
カウンターの内側で、白い布を使って銀色のコーヒースプーンを磨いている。表面を一度光へ向け、曇りが残っていないことを確認し、また布を折り直す。その手順を、急ぐことなく繰り返していた。
私は手帳を開かなかった。
開けば、成瀬はそこへ視線を落とす。視線を落としたあと、何を語るかを選ぶ。彼はそういう人間だった。言葉を選ぶ前に、相手が何を記録しようとしているかを測る。
店内には、古いジャズとコーヒーの苦い匂いが沈んでいた。豆を挽いたばかりの香りに、雨を含んだ木材の匂いが混じっている。海風通りの霧がガラス戸を白く曇らせ、外の人影を輪郭のないものへ変えていた。
「コーヒーをお願いします」
「砂糖は?」
「いりません」
「前にも、そうおっしゃいましたね」
「苦いほうが、考えやすいので」
「考えるために飲むものではありません。飲んだあとに、考えが残るだけです」
成瀬は水の入ったグラスを先に出した。グラスの底が木の天板へ触れる位置を、指一本分だけ動かす。それからカウンターへ戻り、豆を挽き始めた。
ミルの音が、店の静けさを一定の幅に削っていく。
私は窓の外を見た。
霧の向こうに、海風通りの古いポストが見える。赤い塗装は剥がれ、上部の角に白い錆が浮いていた。団地へ戻る道の途中に、あのポストがある。手紙が人の手から離れ、別の手へ渡る前に、いったん時間を止める場所。
成瀬がコーヒーを運んできた。
カップの縁を布で拭いてから、私の前へ置く。湯気が細く立ち上がり、窓の外の白い霧と重なった。
「先日は、神崎の名前を出してしまいました」
成瀬が言った。
「謝っているんですか」
「謝るほどのことではありません。ただ、名前は出した人間より、聞いた人間のほうに残ることがある」
「相沢さんも、そう言っていました」
成瀬の指が、カップの取っ手へ伸びた。
持ち上げるつもりはなかったのだろう。取っ手に触れ、すぐに離した。右手で触れたものを左手で押さえ直すような、わずかな動きだった。
「相沢さんに会ったんですね」
「彼女は、私の部屋へ来ました。手紙を取りに」
「どの手紙ですか」
「最初に届いたものです。神崎悠人の名を差出人にした封書」
「返した?」
「はい」
「すぐに?」
「彼女が帰る前に」
成瀬はカップの縁を見た。自分が置いたばかりのカップなのに、もう一度布で拭っている。
「相沢さんは、手紙を読んだんですか」
「読んだというより、触れた。文面を確かめる前に、封の端や紙の波打ちを見ていました。自分のところへ戻ってきたものを、壊さないように扱っていた」
「彼女らしいですね」
「ご存じなんですか」
「知っているというほどではありません。けれど、部屋に残っていた布巾や封筒の束を見れば分かります。あの人は、何かを隠すときでさえ、乱雑にはできない」
「隠していたと思いますか」
「隠すという言葉に、少し違和感があります」
「では、何をしていたと?」
成瀬はコーヒーへ口をつけなかった。
「整えていた。整えられないものを、整えられる形へ近づけようとしていた。けれど、そういうものは、折りたたんでも折り目が残る」
「十年前の夜のことですか」
成瀬はすぐには答えなかった。
ミルの内部から、残った豆の粉が小さく崩れる音がした。店の奥で、古いレコードが針飛びを起こす。旋律が一拍だけ乱れ、成瀬は立ち上がって針の位置を直した。
私はその背中を見ていた。
彼が音を直すのは、音楽が好きだからだけではない。乱れたものを、そのままにしておけないのだ。けれど、目の前の過去だけは、十年経っても直せずにいる。
「神崎さんと相沢さんは、同じ通りを歩いていたんですね」
成瀬は針を戻しながら言った。
「神崎は印刷所へ行くとき、海風通りを使いました。相沢さんは、少し遅れて同じ道を歩くことがあった。二人が一緒にいたのか、たまたま道が重なったのか、私は知りません」
「見ていたのに?」
「見ることと、知ることは違います」
「二人の名前を口にしたとき、成瀬さんの手が止まる」
「手が止まることと、記憶があることも違う」
「では、何が同じなんですか」
「あなたは、違うものを同じ場所へ並べる癖があるようですね」
成瀬は奥の棚から、古い地図を取り出した。海沿いの旧市街を描いた、退色した地図だった。紙の端は何度も折られ、折り目の一つが大きく裂けている。
彼は地図を奥の席のテーブルへ広げた。
海風通り。旧印刷所。潮見台ハイツ。古いポスト。
現在の道路から外れた細い線が、いくつもの建物の裏側を通って団地の東側へ伸びている。線の終点は、古いポストの位置で途切れていた。
「これは、昔の配達導線です」
「高瀬さんからも、似た経路を見せてもらいました」
「郵便局の人は、道を線で見ます。私は、誰がその道を歩いたかで覚えています」
「神崎さんも?」
「神崎は道を覚えるというより、道のほうを覚えていました。店から印刷所まで、印刷所から団地まで。歩幅が一定で、急いでいるようには見えないのに、いつも予定より早く着く」
「相沢さんは」
「彼女は、神崎の少し後ろを歩いていた」
成瀬は地図の上で、鉛筆の線を指でなぞった。
「近すぎず、離れすぎず。誰かに見られても、一緒に歩いているとは言えない距離です。けれど、神崎が角を曲がると、彼女も同じ角を曲がる。そういう歩き方でした」
「二人は、何を話していたんですか」
「声までは聞こえません」
「聞こえない距離にいた?」
「聞かないようにしていた、と言ったほうが正しいかもしれません」
「その言い方だと、聞けば聞こえた」
「町では、聞こえるものをすべて聞いていいわけではないんです。隣の家の夫婦喧嘩、夜中に帰ってきた人の鍵の音、店の前を通る客のため息。聞こえても、聞かなかったことにする。それが大人の礼儀だと、昔は思っていました」
「今は?」
成瀬は窓の外へ目を向けた。
「聞かなかったことにしたものは、消えません。自分の中で、別の音になります。豆を挽く音、カップを置く音、扉の蝶番が鳴る音。そのどこかに混じって、十年前の足音が戻ってくる」
私はカップへ触れた。
磁器は熱かった。指先へ伝わる熱が、冷えた階段で触れた手すりを思い出させる。
「神崎さんは、何を見たんですか」
「屋上の話をするために来たんですね」
「はい」
「屋上へ行ったという証拠は?」
「住民の証言。夜十時三十分の照明交換を示す紙片。鍵穴の新しい擦り傷。相沢さんの手帳に残った二本の線。そして、彼女が倒れる前に言った言葉です」
私は、手帳を開かずに続けた。
「屋上の鍵は、あの人が戻した。相沢さんは、そう言いました」
成瀬の顔から、わずかに温度が消えた。
手がカップから離れ、砂糖壺の蓋へ移る。蓋を開け、閉じる。中身を確かめる必要はない。砂糖は先ほどから一度も減っていない。
「その言葉を、誰のことだと思いましたか」
「田所さんか、成瀬さんか、神崎さん本人ではない誰か」
「なぜ、私を含めたんですか」
「成瀬さんは、十年前の夜に屋上へ向かう人影を見た。そういう気配があります」
「気配だけで、人を疑う」
「疑っているのではありません。確かめています」
「確かめることは、疑うことより穏やかに聞こえます。けれど、確かめられる側にとっては、同じ扉を何度も開けられるのと変わらない」
「それでも、開ける人間が必要です」
「開けた扉の向こうに、誰かの暮らしがあったとしても?」
「だから、乱暴には開けない」
「あなたはそう思っている」
「思っているだけです」
「その自覚があるなら、まだ危うさは少ない」
成瀬はカップを持ち上げた。ひと口飲み、ゆっくり受け皿へ戻す。磁器が触れた場所は、さきほどと数ミリ違っていた。彼はそれに気づき、指で位置を直した。
「神崎は、記録に残るものを嫌っていたわけではありません。むしろ、残すことに執着していた。ただし、他人の手で整理されるのを嫌っていた」
「成瀬さんは、神崎さんの言葉を覚えている」
「長く店に来ていた客の言葉くらいは」
「手紙の文面と似ています。余白が広く、短い。部屋の風向きや傷を、説明せずに置いていく」
「神崎の書き方を知っている人間は、私だけではありません」
「相沢さん、田所さん、それから成瀬さん」
「あなた自身も、もう知っている」
その言葉に、私は返事をしなかった。
神崎の文体を知るということは、彼の不在を知ることでもある。本人がいないからこそ、残された短い文の癖が、本人の代わりに働き続ける。
「神崎さんは、最後にこの店へ来たとき、何を頼んだんですか」
成瀬は私を見た。
「今日は、屋上のことを聞くのではなかったんですか」
「あなたがそう言ったからです。神崎さんが最後に店へ来た日のことから始めろ、と」
「覚えていたんですね」
「書く前に覚えています」
「書かないことも、記録になりますか」
「なります。書かなかった理由が残る」
成瀬は、しばらく黙ってから答えた。
「神崎は、いつもと同じものを頼みました。砂糖なしのコーヒー。焼き菓子は頼まなかった。奥の席に座り、窓の外を三度見た」
「何を待っていたんですか」
「人を待っていたのか、時間を待っていたのかは分かりません」
「相沢さんは?」
「その日は来ていません」
「では、神崎さんは一人で?」
「一人で来て、一人で帰りました」
「帰り際に、ライターを置いていった」
成瀬の指が、砂糖壺の蓋から離れた。
「それを誰から聞きました」
「成瀬さんからです」
「私は、まだ言っていません」
「前に言いました。私が帰るときに」
成瀬は目を伏せた。
「そうでしたか」
「忘れていたんですか」
「忘れたかったのかもしれません」
「ライターは今も持っていますか」
「持っています」
「見せてもらえますか」
「それは、あなたが持ち帰るためですか」
「確認するためです」
「確認したものは、どうします」
「元の場所へ戻します」
「元の場所が、もうない場合は?」
「元の場所を探します」
「場所は、いつまでも場所ではありません。誰かが出ていけば、部屋は別の人間のものになる。誰かが死ねば、机は片づけられる。誰かが消えれば、残ったものだけが持ち主を示し続ける。あなたが探しているのは、ライターの置き場所ですか。それとも、持ち主がいた時間ですか」
「どちらもです」
「欲張りですね」
「欲張りでなければ、空白は埋まりません」
「空白を埋めることが、いつも正しいとは限りません」
成瀬はカウンターの下から小さな木箱を取り出した。黒ずんだ木の蓋には、古い鍵穴がある。彼は鍵を差し込み、回した。金属が擦れる音が、店内の静けさを細く裂いた。
蓋を開ける。
中から、小さな銀色のライターを取り出した。
傷の多い、古いものだった。側面に黒い煤が付着し、蓋の縁だけが擦れて白くなっている。成瀬はそれを掌に載せたまま、私へ渡そうとはしなかった。
「神崎は、これを屋上で拾ったと言っていました」
「誰のものですか」
「分からない、と言っていた」
「それで持っていた?」
「拾ったものを、すぐ捨てる人間ではありませんでした。落とし物には、落とした人間の時間が残っている。そう言っていた」
「神崎さんらしいですね」
「あなたは、会ったことがないのに」
「紙と記録から、少しだけ」
成瀬はライターの蓋を開けた。
火はつかなかった。内部の燃料が抜けているのか、石が摩耗しているのかは分からない。成瀬は二度、火花を散らし、それ以上は試さなかった。
「最後に来た日、神崎はこれを忘れた」
「屋上で拾ったものを、店に置いていった」
「忘れたのか、置いていったのか、今でも分かりません」
「成瀬さんは返さなかった」
「返す相手がいなかった」
「相沢さんに渡すことは?」
「彼女は、それを知らないほうがよかった」
「なぜですか」
「知れば、神崎を探す。彼女は、見たものを忘れられない人間でした。だからこそ、見たものへ近づく。近づけば、今度は彼女が消える」
「相沢さんを守るために、ライターを隠した」
「そう思いたかった」
「実際は?」
「守ったつもりの沈黙が、彼女を一人にした」
成瀬はライターを木箱へ戻した。
「彼女は、神崎がいなくなったあとも、何度かこの店へ来ました。コーヒーを頼まず、水だけ飲んで帰る。何か訊きたい顔をしているのに、訊かない。私は、訊かれなかったことを理由に黙っていました」
「それは、守ることではありません」
「ええ」
「逃げることです」
「ええ」
成瀬は否定しなかった。
「ただ、逃げた先で誰かが暮らしているなら、逃げることにも形がある。店を閉め、鍵を掛け、朝になればまた開ける。私はそうやって十年を過ごしました。相沢さんも、部屋を片づけ、鍵を確かめ、何度も引っ越した。田所は名簿を閉じ、屋上を施錠した。みんな、同じ場所から逃げて、同じ場所へ戻ってきた」
「神崎さんは?」
「戻っていない」
「だから、名前だけが戻ってきた」
成瀬の目が、窓の外へ逃げた。
私はその動きを見た。
目はカップではなく、古いポストのほうへ向いていた。霧の向こうに赤い輪郭が浮かんでいる。成瀬は長いあいだ、あのポストを見てきたのだろう。神崎の名を運び、相沢の過去を戻し、今は私の部屋へ紙を送り込む場所を。
「手紙を書いているのは、成瀬さんですか」
成瀬は答えなかった。
「一通目は神崎さんの書き方に似ている。二通目以降は、それを写したものです。成瀬さんは神崎さんの文体を知っている。旧市街の紙を知っている。海風通りから団地へ郵便を戻す道も知っている」
「それだけで、私が書いたことになる?」
「なりません」
「なら、なぜ訊くんです」
「あなたの反応を見るためではありません。言葉にしたとき、どこで息が止まるかを確認するためです」

成瀬は小さく息を吐いた。
「あなたは、田所より厄介ですね」
「田所さんは、言葉より先に書類を閉じます。成瀬さんは、言葉を閉じる前に相手の手元を見ます」
「似ていると思いませんか」
「似ているから、違いが分かります」
「二人とも、黙ることで人を守ろうとした」
「守った結果、神崎さんは消え、相沢さんは部屋を出て、記録だけが残った」
「それでも、あの夜に別の選択をしていたら、もっと多くの人間が壊れていたかもしれない」
「それは誰が決めたんですか」
「誰も決めていない。だから、みんなが少しずつ決めた」
成瀬は木箱の蓋を閉め、鍵を掛けた。
「高見沢さん。あなたは、真実を一人の所有物だと思っている。田所が隠し、私が黙り、相沢が抱え、神崎が残した。けれど、真実は誰か一人のものではない。だから、誰か一人が語れば済むものでもない」
「では、誰も語らなければ、誰のものでもなくなる?」
「そう願っていた」
「でも、手紙が来た」
「ええ」
「神崎さんの名で」
「ええ」
「成瀬さんは、手紙を止められた」
「止められたかもしれません」
「止めなかった」
「止めなかった」
成瀬の声に、初めてわずかな震えが混じった。
「なぜですか」
「一通目を見たからです」
「誰が出した手紙ですか」
「神崎が、失踪する前に書いたものだった」
私は息を止めた。
「本人の筆跡?」
「筆跡だけではありません。紙の余白、折り目、書き始める前の癖。神崎は文章を書く前に、便箋の端を指で押さえて、紙の音を確かめた。あの封筒には、その押さえた跡があった」
「それなら、神崎さんは手紙を出していた」
「出せなかった手紙です」
「どういう意味ですか」
「神崎は、あの夜の前に何通か書いた。相沢さんへ渡すつもりだった。けれど、渡す前に屋上へ行き、戻らなかった。私はそのうちの一通を預かった」
「成瀬さんが?」
「神崎は店へ来て、封筒を置いた。『明日、戻らなかったら、これを出してくれ』と言った」
「なぜ、警察へ渡さなかったんですか」
「手紙には、名前が書かれていなかった。相沢さんの部屋番号だけがあった。内容も、屋上のことを直接は書いていなかった」
「なら、どうして相沢さんへ届いたと分かったんですか」
「部屋のことが書いてあったからです。窓枠の右端、押し入れの板、廊下から入る風。神崎は、相沢さんにしか分からない形で書いた」
「成瀬さんは、それを十年間持っていた」
「ええ」
「なぜ今になって」
「私が出したのではありません」
「では、誰が?」
成瀬は答えなかった。
木箱の鍵へ手を置く。けれど、開けることはしない。彼の沈黙は、これまでのように話題を逃がすためのものではなかった。何かを差し出す前に、最後の距離を測っている沈黙だった。
「手紙は、私の店から出ていません」
「でも、最初の一通は成瀬さんが持っていた」
「持っていた。けれど、盗まれた」
店の空気が変わった。
外の霧が濃くなり、ドアベルの布が風に擦れる。音のない鈴が、鳴ろうとして鳴れないまま、金属の内側で震えていた。
「いつ」
「あなたが引っ越してくる少し前です」
「誰に?」
「分かりません」
「成瀬さんの店から、手紙が盗まれた?」
「正確には、盗まれたかどうかも分かりません。木箱の位置がずれていた。鍵は掛かっていた。けれど、封筒の束が一つ足りなかった」
「その封筒を、誰かが複製している」
「そうかもしれません」
「相沢さんの部屋に残っていた封筒の束」
「神崎が相沢さんへ渡すはずだった、未送の封筒です」
「それを相沢さんは持ち出さず、部屋へ残した」
「残したのではなく、残すしかなかった」
「田所さんが?」
「田所だけではありません。あの夜のあと、団地の住民は相沢さんの部屋へ何度も出入りした。彼女を逃がすために、家具を動かし、壁を直し、書類を片づけた。誰かが証拠を消し、誰かが証拠を残した」
「なぜ、残したんですか」
「神崎が、残せと言ったからです」
私は成瀬を見た。
「神崎さんは、何を知っていたんですか」
成瀬は、長いあいだ窓の外を見ていた。
やがて、砂糖壺の蓋から手を離し、木箱の前へ両手を置いた。
「旧印刷所では、町の古い記録を刷る仕事がありました。町内会の議事録、工事の通知、入退去の書類。神崎は、そこに印刷される文字のズレを見つけた。誰かが原稿を差し替え、日付を変え、名前を削っていた」
「何の記録を?」
「十年前、潮見台ハイツの屋上で行われた工事の記録です。防水工事ではない。屋上の古い設備を撤去するための、夜間作業の記録」
「照明交換ではなかった」
「照明交換という紙は、あとから作られた」
「誰が?」
「田所に頼まれた業者と、団地の管理組合の一部です。屋上にあったのは、撤去されるはずの古い通信設備でした。町の防災無線の中継器に似ていたが、正式な台帳には載っていない。誰が設置したのか、誰が使っていたのか、記録がなかった」
「その設備を、神崎さんが見た」
「神崎は、印刷所へ回ってきた古い設置図を見つけた。図面には、屋上から旧市街の何軒かへ伸びる配線が描かれていた。けれど、実際の建物には、その配線が存在しないことになっていた」
「記録と現場が違っていた」
「神崎は、そういうズレを見逃さない。図面の版を確認し、修正前の紙を一枚だけ抜き取った。二本線を引いて、まだ確認が済んでいない紙として隠した」
「それが、封筒の束に残っていた線」
「ええ」
「屋上には、何があったんですか」
「設備のそばに、古い金属箱があった。中には、住民の出入りを記録した紙と、郵便の転送先を書いた一覧が入っていた」
「郵便の転送先?」
「当時、団地の一部の住民は、正式な住所変更をしないまま、別の場所へ郵便を回していた。事情のある人間を匿うためだったのか、誰かの名前を消すためだったのか、最初は分からなかった。ただ、その一覧に神崎の名前があった」
「失踪する前から?」
「神崎は、自分がいなくなったあと、名前だけが別の住所へ流される仕組みを見つけた。自分だけではない。町から消えた人間の名前が、郵便の中だけで生き続けていた」
成瀬の声は低かった。
店の奥で、古い冷蔵庫が短く唸る。カップの底に残ったコーヒーが、私の手の動きに合わせて黒く揺れた。
「神崎さんは、屋上で誰かを見たんですか」
「田所です」
成瀬は言った。
「田所が、屋上の金属箱から紙を取り出していた。そこへ相沢さんが来た。彼女は、神崎を追って階段を上がった。私は海風通りから、屋上の縁に人影が三つあるのを見た」
「その三人は?」
「神崎、相沢、田所」
「成瀬さんは屋上へ行かなかった」
「行けなかった」
「なぜですか」
「屋上から、誰かが落とした金属音が聞こえた。私は店を出ようとしたが、田所から電話が来た。『上へ来るな』と。それから、少しして神崎の声がした」
「何と言ったんですか」
成瀬は目を閉じた。
「『見たものを、見たままに残せ』」
その言葉は、店内のどこにも反響しなかった。けれど、私の中では、印刷所の古い紙のように長く残った。
「そのあと、何が起きたんですか」
「相沢さんが階段を下りてきた。手には、神崎のメモ帳があった。田所は屋上に残った。私は相沢さんを店へ入れようとしたが、彼女は首を振った」
「神崎さんは?」
「降りてこなかった」
「屋上から逃げた?」
「そう見せた」
成瀬は木箱の鍵を握った。
「田所は、神崎が自分から消えたように記録を作った。相沢さんは、その場にいたことを隠された。住民たちは、夜間工事の音を聞かなかったことにした。私は、神崎の手紙を出さずに持ち続けた」
「なぜ、神崎さんが逃げたように見せる必要があったんですか」
「金属箱の中身を持っていたからです」
「証拠を?」
「神崎は、すべてを持ち出したわけではない。紙の束を一部だけ、相沢さんへ渡した。残りは屋上に置いた。田所は、神崎が持ち去ったと思わせて時間を稼いだ」
「神崎さんは、生きている可能性がある」
「私は、そう思っています」
「それなのに、手紙を出さなかった」
「出せば、彼のいる場所へ追手が行くかもしれない」
「今、手紙が戻ってきている」
「だから、誰かが彼の場所を知ったか、彼自身がもう隠れる必要を失ったか、そのどちらかです」
「成瀬さんではない?」
「私は十年間、神崎の名を守るために黙ってきた。けれど、守った名前が相沢さんの部屋へ戻り、あなたの生活へ入り込んだ。私の沈黙が、別の人間を巻き込んだ」
「だから、私を店へ呼んだ」
「あなたが来ることを待っていたわけではありません。ただ、あなたが来たとき、もう黙り続けることができなかった」
成瀬は木箱を開けた。
中から、古い封筒を一通取り出す。紙は乾いているが、表面は波打っていた。宛名はない。差出人もない。中央に、鉛筆で二本の線が引かれている。
「これは、神崎が置いていったものです」
私は手を伸ばさなかった。
「中身は?」
「見ていません」
「十年間?」
「見ないと決めたものを、開けることはできませんでした」
「でも、渡すつもりはある」
「あなたにではありません。相沢さんへ」
「彼女は病院です」
「退院したら、渡します」
「それまでに、誰かがまた郵便を送る」
「その人間を、あなたはもう見つけかけている」
成瀬は封筒を持ったまま、私を見た。
「神崎の名を使うことができ、古い紙を扱い、屋上の鍵と郵便の導線を知り、相沢さんが残した封筒の束へ触れられる人間。田所だけではありません」
「成瀬さんも」
「私も含まれます」
「相沢さんも」
「彼女も含まれる」
「では、誰が手紙を出したのか、まだ分からない」
「分からないままでも、分かったことはあります」
「何ですか」
「神崎の手紙は、帰る場所を失っていない。誰かが、戻る場所を残している」
成瀬は封筒を木箱へ戻した。
「そして、相沢さんは逃げたのではなく、逃がされた。田所が記録を削ったのも、神崎を消すためだけではない。彼が残したものを、誰かが拾い直す時間を作るためだった」
「それは、田所さんを擁護していますか」
「いいえ。記録を消した責任は、消えません」
「成瀬さん自身も」
「ええ。黙った責任も、なくなりません」
店の外で、ドアベルが鳴ろうとして鳴らなかった。
布に遮られた金属の震えが、扉の向こうで短く止まる。
私は立ち上がった。
「この封筒は、持って帰らないんですか」
「あなたが持つものではありません」
「では、誰が」
「今度は、相沢さん自身が決めるべきです」
「彼女が決められる状態になるまで、また誰かが黙る」
「黙らない方法を、あなたが考えてください」
「成瀬さんは、私を巻き込んでいる」
「あなたは、もう巻き込まれています。違うのは、誰かに手を引かれて入ったのか、自分の足で入ったのかだけです」
私は手帳を開いた。
成瀬は止めなかった。
神崎悠人と相沢美咲は、十年前、同じ道を歩いていた。 神崎は屋上で、記録にない設備と郵便の一覧を見た。 田所は鍵を戻し、記録を削った。 成瀬は手紙を預かり、十年黙った。 相沢は、神崎を守ったつもりで沈黙した。 手紙は、今も古いポストを経由して戻っている。
私は最後の行の下に、鉛筆で線を引いた。
確認できていない。誰が手紙を出しているのか。
成瀬が、その線を見た。
「そこへ、名前を書かないんですね」
「まだ書けません」
「高見沢さんは、少し変わりました」
「何がですか」
「最初に会ったときは、空白を見つけると、すぐ埋めようとしていた。今は、空白の形を残している」
「埋める前に、何が削られたかを見たいだけです」
「それが、知ることと壊さずに知ることの違いかもしれません」
私は手帳を閉じた。
店を出ると、霧雨は止んでいた。海風通りの路面には水が薄く残り、街灯の光を歪めている。古いポストの赤い塗装が、霧の中で一度だけ鮮やかに見えた。
成瀬の店のドアが背後で閉まる。
今度も、ベルは鳴らなかった。
私は歩き出した。団地へ向かう道の途中で、何度も振り返りそうになった。けれど、振り返れば、店の奥に置かれた封筒を確認したくなる。紙の角、二本の線、十年前から閉じられている木箱。
確認できるものを、すべて確認してはいけない。
そのことを、私は初めて自分の判断として受け入れつつあった。
潮見台ハイツへ戻ると、管理人室の窓に明かりがついていた。田所がまだ起きている。机の上で名簿を閉じ、鍵束を数えているのだろう。
古いポストの前で、私は足を止めた。
蓋は閉まっている。
けれど、内側には白い紙の繊維が残り、二本の線が薄く沈んでいる。誰かの手がここを通り、誰かの名前がここから戻った。
私はポストを開けなかった。
手帳に、成瀬の言葉を一行だけ書く。
守るために隠したものは、隠したままでは守れない。
その下へ、もう一行を書いた。
ただし、暴けば守れるとも限らない。
海から吹く風が、廊下の奥へ流れていった。古い木の扉が低く軋み、どこかで紙の擦れる音がした。
私はその音を聞きながら、自分の部屋へ戻った。
郵便受けの前で、鍵を回す手を止める。
中に何かあるかもしれない。
何もないかもしれない。
今の私は、以前のように、すぐには扉を開けなかった。
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