10話 戻る名札

部屋の前で、私はしばらく郵便受けの鍵を見ていた。

鍵穴の奥には、海風で運ばれた細かな砂が入り込んでいる。差し込んで回せば、いつも通り金属が擦れるはずだった。けれど、手を添えたまま動かずにいると、鍵の重さが昨日までとは違って感じられた。

中に何かあるかもしれない。

何もないかもしれない。

どちらにしても、開ける前の時間だけは、自分のものだった。

私は鍵を回した。

蓋の内側に、白い封筒が一通入っている。昨夜、玲子と見たものとは違った。宛名はない。差出人もない。封はされておらず、薄い紙が一枚だけ二つ折りにされていた。

取り出す前に、スマートフォンで写真を撮った。

封筒の角。郵便受けの底。紙の繊維。蓋の裏側についた、水滴の跡。

それから、手袋をはめて紙を取り出した。

表には何も書かれていない。裏返すと、中央に小さな金属片が置かれていた。長さは三センチほど。薄い楕円形で、片側に二つの穴がある。かつて何かへ固定されていたものらしい。

金属の表面には、黒い塗料が残っていた。

私は紙の端を押さえ、金属片を直接触らないようにした。

その下に、鉛筆で一行だけ書かれている。

――名札は、戻る場所を知っている。

文字は、神崎悠人のものに似ていた。

けれど、同じではない。

一行目の始まりが少し下がり、最後の「る」だけが細く伸びている。成瀬の店で見た封筒の、余白を真似た書き方に近かった。

私は紙を封筒へ戻さず、そのままクリアファイルに挟んだ。

金属片の大きさに、見覚えがあった。

管理人室の壁に掛かっていた、古い居住者名札。田所が十年前の名簿を見せたとき、その脇に小さな黒い札が並んでいた。表面の塗料が剥げ、いくつかは名前の部分だけが白く光っていた。

私は管理人室へ向かった。

朝の団地は、まだ人の気配が薄い。階段の踊り場に掃除用の水が細く残り、手すりを握ると、湿った金属の冷たさが掌へ移った。管理人室の窓には明かりがついている。

扉を叩くと、少し間を置いて田所の声がした。

「開いている」

中へ入る。

田所は机の前に座り、名簿を閉じたところだった。鍵束は右手の脇に置かれている。いつもなら番号順に並べているはずの鍵が、今日は二本だけ離れていた。

私はクリアファイルを机の上へ置いた。

「郵便受けに入っていました」

田所は紙を見ず、私の手袋を見た。

「触ったのか」

「写真を撮ってから、手袋を使いました」

「そういう問題ではない」

「では、どの問題ですか」

田所は名簿の表紙を指で押さえた。

「管理人室に持ってくるものではない。警察へ行け」

「その前に、確認したいことがあります」

「確認は警察の仕事だ」

「この金属片が、何の名札か」

田所の指が止まった。

私は紙の上の金属片を見せた。彼は身を乗り出さなかった。代わりに、机の端に置かれた古い布を取り、金属片を紙ごと押さえた。

「どこで拾った」

「郵便受けです」

「誰が入れた」

「それを確認しています」

「確認ではない。詮索だ」

「神崎さんの名前を使った郵便が、何度もこの団地へ戻っています。その経路に、管理人預かりの記録がある。古い配達箱の鍵も、団地側で管理されている」

「だから俺が手紙を出したと?」

「まだ、そこまでは言っていません」

「言っていないだけで、そう考えている」

田所は名簿を開いた。十年前の欄ではなく、現在の居住者一覧だった。紙面には二〇二号室の横に、私の名前が印刷されている。

その下に、薄い擦れ跡があった。

「この部屋の前の名前は、どこへ行ったんですか」

「退去者の記録は別だ」

「相沢美咲さんの名前は、ここにはない」

「退去したからだ」

「神崎悠人さんの名前は?」

田所は答えなかった。

「失踪したから、ない?」

「居住者ではなかった」

「でも、十年前の名簿には入るはずだった」

「名簿に載っていたとは言っていない」

「載っていないことを、誰が確認したんですか」

田所は名簿を閉じた。

「おまえは、名前を見つけるたびに人間まで戻せると思っている」

「戻せるとは思っていません。ただ、消した人間がいるなら、その手つきを見たい」

管理人室の外で、誰かが通り過ぎた。足音は一度止まり、すぐに遠ざかった。

田所は鍵束を手に取った。金属音は鳴らなかった。指で押さえている。

「名札は、部屋の前に戻すものではない」

「では、どこへ戻るんですか」

「住んでいた場所へだ」

「神崎さんが住んでいた場所は?」

「知らん」

「それなのに、名札が郵便受けへ入った」

田所の目が、初めて私の顔へ上がった。

「見せろ」

私はクリアファイルを開いた。田所は金属片に手を伸ばさず、紙の上から覗き込んだ。黒い塗料の剥がれた端を見て、眉間に浅い皺が寄る。

「これは名札ではない」

「違うんですか」

「名札の裏金具だ。表の札は別にある」

「どこに?」

田所は立ち上がり、壁際の古い掲示板へ向かった。そこには新旧の居住者名札がいくつか並んでいる。空いている部分も多く、白い画鋲の跡が壁に残っていた。

田所は一番下の列から、名札を三枚外した。

そのうち一枚の裏側に、同じ二つ穴の金具がついている。

「この型は、十年前に交換した」

「神崎さんの名札も?」

「名札に名前があるとは限らん」

「どういう意味ですか」

田所は外した名札を机へ戻した。

「団地の名札は、住民の名前を示すためだけにあるんじゃない。郵便や回覧板を戻す場所を示す。誰が住んでいるか分からなくても、ここへ届ければ誰かが拾う。そういう使い方をしていた時期がある」

「誰かが、名前のない人間のために」

「名前のない人間ではない。名前を出せない人間だ」

「神崎さんは、その中にいた」

「おまえは、すぐに人を入れたがる」

「田所さんは、すぐに人を外へ出す」

田所は黙った。

私はクリアファイルの中の紙を見た。

名札は、戻る場所を知っている。

金属片は、名札の表ではなく裏側だった。名前そのものではない。名前を固定するための部分だけが、私の郵便受けへ戻ってきた。

「神崎さんの名札は、外されたんですね」

「誰の名札でも、退去すれば外す」

「失踪した場合は?」

「外さない」

「なぜですか」

「戻る可能性があるからだ」

その答えは、あまりに早かった。

田所自身も、口にしてから気づいたようだった。喉を鳴らし、壁の名札へ視線を戻す。

「神崎さんは、戻るつもりだった」

「本人がそう言ったのか」

「言っていない」

「では、誰が」

田所は鍵束を机へ置いた。今度は、金属が一度だけ鳴った。

「戻るつもりのない人間は、名札を外す」

「田所さんが外した?」

「外せなかった」

「誰に止められたんですか」

答えの代わりに、田所は引き出しを開けた。

中には古い黒表紙のノートがあり、その上に小さな透明袋が置かれていた。透明袋の中には、黒い塗料のついた名札の表面が入っている。

文字の一部だけが残っていた。

神崎――

その下は擦り切れ、読めない。

私は息を吸った。

「それを、ずっと持っていたんですか」

「管理人が預かったものだ」

「返さなかった」

「返す相手がいなかった」

「成瀬さんも同じことを言いました」

田所は袋を閉じた。

「成瀬は、何を話した」

「神崎さんが、戻らなかったら手紙を出してくれと言ったこと」

田所の顔から、わずかに血の気が引いた。

「成瀬が?」

「一通目は成瀬さんの店にあった。誰かに持ち出された。今、複製されて団地へ戻っている」

「複製?」

「最初の手紙を見た人間が、神崎さんの書き方を真似ている」

田所は名札の表面を見つめた。

「神崎は、紙を残す人間だった」

「屋上で何を見たんですか」

「知らん」

「知っているから、名札を外せなかった」

「名札を外さなかったことと、何を見たかは別だ」

「では、なぜ今も戻る場所を残しているんですか」

田所は返事をしなかった。

管理人室の時計が、秒針を一つ進める。

やがて田所は、透明袋を私のほうへ押した。

「屋上へ行くなら、これを持っていけ」

「鍵ですか」

「名札の表だ。金属の裏側だけでは、名前は戻らん」

「屋上にあるんですか」

「屋上ではない」

「どこに?」

田所は窓の外を見た。

古いポストの赤い塗装が、朝の光の中で鈍く濡れている。

「戻る場所にある」

彼はそれ以上、言わなかった。

私は透明袋を受け取らず、机の上に置いたまま立ち上がった。

名札の裏金具は、私の部屋へ戻ってきた。

表面の文字は、まだどこかに残っている。

名前は消えていない。固定する場所だけが、先に戻ったのだ。

管理人室を出ると、古いポストの前に三上蓮が立っていた。手には、いつものノートがある。私を見ると、冗談を言いかけたように口を開き、それから閉じた。

「今朝、ポストを見た人がいる」

「誰ですか」

「田所さんじゃない」

「分かる?」

「足音で」

三上はポストの下を指した。

濡れた床に、靴跡が二つだけ残っている。管理人室の方向から来て、二〇二号室の前で止まり、また戻っている。

「成瀬さんでもない。靴底の溝が違う」

「では、誰が?」

三上はノートを開いた。

そこには、見慣れない名前が一つだけ書かれていた。

相沢美咲。

「病院を出たらしい」

私は古いポストを見た。

名札は、戻る場所を知っている。

けれど、戻ってきた人間が、同じ場所へ戻るとは限らない。

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