8話 第八話「白暁の傷」

白い傷が、台座に走った。

細い亀裂は刃の輪郭に沿って伸び、石の中へ沈んでいく。握った柄から、冷たい熱が腕を伝った。熱いのに、皮膚は凍えている。血の流れまで止まりそうだった。

「ユウ、離れなさい!」

リシェの声が石室を震わせた。

俺は首を振った。

「離したら、どうなる」

「分かりません。ですが、今のままではあなたの星脈が術式に吸われています」

「なら、止めればいい」

「簡単に言わないでください。あなたの魔力回路は、すでに通常の循環から外れている。剣へ流れているのではなく、剣と接続されているんです」

言葉の意味を考える余裕はなかった。

白暁の向こうから、何かが押し返してくる。力ではない。意思のようなものだった。抜け、と命じているのか。留まれ、と試しているのか。判断できない。

手のひらが裂けた。

柄に刻まれた紋が、皮膚へ食い込んでいる。

「ガルド!」

フィアの叫びが入口から飛んできた。

振り返ると、石室の外で魔獣の影が跳ねた。フィアが短剣で一体の喉を切り裂き、返す刃で別の獣の鼻先を払う。だが数が多い。結界杭の光はもうほとんど消え、入口の縁に刻まれた防護式が黒く焦げていた。

ガルドが俺の前へ出る。

老剣士の木剣が、魔獣の牙を横から打ち砕いた。骨の割れる音がする。続けて柄頭を獣の額へ叩き込み、倒れた身体を蹴り飛ばす。

「リシェ、どれだけ保つ」

「三十秒。長くても四十秒です」

「短すぎる」

「文句は術式に言ってください!」

ガルドが低く笑った。

「なら、三十秒で決めろ。抜くか、閉じるかだ」

その声が、俺の胸へ落ちた。

抜く。

白暁を抜けば、ここを突破できるかもしれない。けれど、抜いたあとに何が起こるのか分からない。俺の身体が持つのか。石室が崩れないのか。外の結界がどうなるのか。

閉じる。

剣を戻せば、危険は抑えられるかもしれない。だが、魔王軍がまた来たとき、この場所が利用される可能性は残る。

どちらを選んでも、何かを捨てる。

火の向こうで聞いた声が、また耳の奥に蘇った。

誰を守る。

何を捨てる。

「ユウ!」

フィアが叫ぶ。

「考えすぎ! あんた、いつもそうやって足を止める!」

「分かってる!」

「分かってないよ!」

彼女の声が、一瞬だけ掠れた。

「全部を守れるまで動かないなら、何も守れない。あたしは、それで仲間を失った」

短剣が魔獣の爪を受け、火花を散らす。フィアの身体が後ろへ滑った。耳が伏せられ、尻尾が石床を叩く。

「だから選べ! 今ここで守るものを!」

石室の中が静かになった。

俺は柄を握る手に力を込めた。

白暁を抜くことが、守ることなのか。

違う。

剣を持つことそのものが、答えになるわけじゃない。剣に選ばれたとしても、使う俺が間違えば、守るための力は誰かを傷つける。

なら、今ここで選ぶべきなのは剣ではない。

ここにいる人たちを、生きて外へ返すことだ。

「リシェ」

「何ですか」

「この剣を抜かずに、術式だけ止められるか」

彼女の眼鏡の奥で、瞳が揺れた。

「……可能性はあります。ただし、あなたが接続を維持したまま、流入してくる魔力を逆向きに返す必要がある」

「できる?」

「理論上は」

「実際には」

「一度も試していません」

入口で魔獣が吠えた。

ガルドが木剣を構え直す。

「試すしかねえな」

「ガルド、あなたまで」

「若造一人に未知の術式を任せるほど、俺は無責任じゃねえ。やるなら、俺の合図でやれ」

老剣士は俺の手元を見た。

「剣を抜かない覚悟はあるか」

問いかけの意味が、すぐには分からなかった。

「抜けないんじゃない。抜かないんだ」

「そう言えるなら、まだ手を離すな」

ガルドが入口へ向き直る。

「フィア、三体だけ引きつけろ。倒すな。時間を稼げ」

「三体だけ? あたしを何だと思ってるの」

「逃げ足の速い獣」

「正解!」

フィアが笑い、石室の外へ飛び出した。足音が遠ざかり、すぐに魔獣の唸りが重なる。

リシェが床へ膝をつき、白い線の上に指を走らせた。線が一本、また一本と青く灯る。

「ユウ。私が合図したら、魔力を剣から床へ流してください。押し込むのではなく、戻す。あなたの中へではなく、術式の起点へ」

「分かった」

「分かっていない顔です」

「たぶん、分かってない」

「……正直さは、時々、腹立たしいですね」

彼女の指先が震えていた。

俺は柄を握ったまま、呼吸を整える。吸う。吐く。ガルドに何度も叩き込まれた呼吸。フィアが危険を知らせる声。リシェの術式が描く白い線。

魔力は俺だけのものではない。

預けて、返す。

「今!」

リシェの声と同時に、俺は魔力の流れを反転させた。

腕の奥が焼けた。血管の中を針で掻き回されるような痛みが走る。白暁の紋が強く輝き、石室全体が鳴動した。

刃が、さらにわずかに動く。

抜ける。

その感覚に、身体が反応した。力を込めれば、白い剣は台座から外れる。

けれど俺は、握りを緩めた。

「ユウ!」

リシェが叫ぶ。

「抜かない!」

白い光が、俺の手のひらから床へ流れ落ちた。

台座の亀裂が閉じていく。白暁の刃は石の中へ戻り、柄だけが静かに残った。入口の防護式が一斉に灯り、飛び込もうとしていた魔獣を白い壁が弾き返す。

外から、フィアの声がした。

「今のうち! 逃げるよ!」

石室の天井が崩れ始めた。

ガルドが俺の腕を掴む。

「走れ!」

手を引かれ、俺は入口へ駆けた。背後で白い石が砕け、台座の周囲から土砂が噴き上がる。最後に振り返ると、白暁の柄頭に刻まれた紋が、消えかけの朝のように一度だけ明滅した。

石室を飛び出した直後、入口が崩れ落ちた。

土煙が晴れる。

そこには、白い亀裂だけが残っていた。

リシェが膝をつき、荒い息のまま帳面を開く。羽ペンを持つ手が震えている。

「記録します」

彼女は白い亀裂を見つめた。

「白暁は、ユウを拒絶しなかった。ですが、選定も完了していない」

「それは、どういうことだ」

俺が訊くと、リシェはしばらく黙った。

「剣があなたを選んだのではありません」

白い手袋の指先が、帳面の上で止まる。

「あなたが、抜かないことを選んだ。その結果として、剣が反応した」

遠くで、王都の鐘が鳴った。

城壁の向こうから、新たな角笛が重なる。

ガルドが崩れた石室を見下ろした。

「敵が戻る」

フィアが短剣の血を払い、俺の手のひらを覗き込む。

「で、どうする? 白い剣を置いて逃げる?」

傷口から、細い白い光が滲んでいた。

俺は拳を握った。

「逃げる。でも、戻る」

フィアの耳が立つ。

ガルドが鼻を鳴らした。

リシェだけが、帳面の余白へ新しい一行を書いた。

白暁、抜かれず。

それでも、目を覚ます。

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