第1話 鞄の底の青

引退試合の前夜。県立桐野高校の旧体育館は、すべての部活動の熱が引き、まるで巨大な墓標のように静まり返っていた。高い天井に吊り下げられた蛍光灯は、半分が切れて不規則な点滅を繰り返している。その下で、床板が上げる軋み音だけが、誰の足音とも判別できないまま、冷え切った空気に反響していた。
私は、最後の片付けを終えたつもりで、ベンチの脇に置いた鞄の口を開いた。洗濯済みのユニフォーム、幾度となく絞ったタオル、泥を拭いすぎて革が硬くなったスパイク。それらを丁寧にしまい込み、鞄の隅を整えようとしたとき、指先が妙な感触を捉えた。
それは、鞄の底で押し潰されていた青地の布だった。
「…しまった」
私は自分の声を、自分で拾いきれなかった。掌の中に、キャプテンマークが吸い付くように収まる。昼練のあと、渡すつもりだった。一ノ瀬莉央へ。そう心の中で手順を組んでいたはずだった。それが、記念メンバー表の配布という事務的な作業で中断され、ビブスの回収という名目の雑務で大きくずれ込み、最後には三年生同士の感傷的な挨拶という嵐の中に飲み込まれて、完全に崩れてしまったのだ。
私は布を指に引っかけて、宙に放り投げてみる。重力に従って落ちてくる布は、まるで今の私の心のように硬く、無愛想だった。汗と砂を吸い込み、何度も洗われ、角が少しずつ丸くなったこの布地の感触は、誰の指にも馴染む準備ができているのに、私の掌にだけは異物のようにこびりついている。
棚を整える。靴を並べ直す。必要のない確認をしては、また布に指を伸ばす。巻く。ほどく。巻く。
自分の手つきが、言うはずだった言葉の代わりとして、同じ場所を何度も回り続けていた。渡しそびれたのは布そのものではない。明日から、誰かに移るはずだった「重さ」だ。私は主将という役目を、単なる青い布だと思っていたのだろうか。いや、そうではない。この布を手放すことは、自分の輪郭まで失うことだと、無意識のうちに怖がっていたのだ。
倉庫の奥で、真柴健人がボールの数を数え直している気配がした。カサカサという、空気を整理するような乾いた音がする。
私は気づいていた。真柴が、私の様子を伺いながら、一歩踏み込むべきかどうかで迷っていることを。あいつは、呼ばれればすぐに来るのに、踏み込むべき一番大切な場所では必ず足を止める。それは副主将としての誠実さであり、同時に、核心に触れることを恐れる臆病さでもある。
「瀬川さん、あと少しで終わります。先に帰ってもいいですよ」
倉庫の奥から響いた真柴の声は、驚くほど透明だった。私を気遣うための、完璧な距離感。
「ああ、悪い。手伝う」
私はそう答えたが、その場からは動けなかった。布を握る手が、体温でじっとりと熱を帯びていく。体育館の静けさが、今は刃物のように鋭く、私の周囲を閉ざしていった。このまま夜が明ければ、私は「主将」ではなくなり、ただの進路未定の生徒になる。それが怖くて、私はこの青い布を、もうしばらく手元に留めておきたかったのかもしれない。
私はもう一度、キャプテンマークを畳み、鞄の底へ押し込んだ。今夜は、まだ手渡す時ではない。そう自分に言い聞かせるたび、胸の奥で重い音がした。
倉庫から戻ってきた真柴の足音が、床を規則正しく鳴らしている。その音に導かれるように、私は自分の場所を整理し始めた。終わりの準備とは、こんなにも淡々と進むものなのだろうか。私は布を握ったまま、誰もいない体育館の闇を見つめ続けた。自販機の白い光が、外の校庭からぼんやりと窓を照らしていた。
明日の朝、この場所へ来たとき、私は笑ってこの布を渡せるのだろうか。それとも、また明日を先延ばしにするのだろうか。その答えさえ見えないまま、私は冷えた体育館の空気を肺に吸い込んだ。体育館の軋み音は、私の迷いを嘲笑うかのように、ただ静かに響き続けていた。
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