第3話 海の青が乾くまで

放課後の3年2組の教室には、絵の具の匂いがまだ生乾きのまま漂っていた。旧体育館の前に立てる巨大な舞台背景画「海と灯台のプロムナード」は、まだ下塗りの途中で、白いキャンバス地の上に青が大まかに広がっているだけだった。朝倉律はローラーを押し出すたび、右腕の筋がじわじわ熱くなるのを感じながら、隣で筆を動かす木戸澄の横顔を、何度も見てしまう。
澄は、塗る面だけを見ている。なのに線がぶれない。濁りも、ためらいも、絵の隅に逃げた跡さえなかった。律はその横顔を、海の水平線みたいだと思った。追い越せそうで、追い越せない。近いようで、どこまでも遠い。
「律、そこ、もう少しローラー寝かせて。圧が強すぎる」
立花紗季が、脚立の位置を少しずらしながら言った。彼女は絵の具皿を二つ重ね、養生テープの切れ端を指先でくるくる回している。喋りながらも手は止めない。教室の空気が少し緩む。
「はいはい。先生みたいな口ぶりだな、紗季」
「先生より厳しいからね。あんた、今のままだと波じゃなくて泥の固まりだよ。ここ、もっと空の光を意識して混ぜないと、海まで沈んじゃうでしょ」
律は笑った。笑えた。けれど澄がローラーの端を丁寧に拭うのを見た瞬間、口角だけが置き去りになる。紗季はそれを見逃さない。けれど、見抜いたことを突き刺すようには使わなかった。ただ、次の筆洗い用の水を黙って差し出す。そういうところが、紗季はうまかった。
「……澄、その灯台のライン、少し細くないか?」
律がようやく絞り出した声は、ひどく掠れていた。澄は筆を止めず、視線を水平に保ったまま静かに応じる。
「これくらいがいい。あまり太いと、光が逃げ場を失うから。遠くにあるものほど、輪郭は鋭く残したいの。律もそう思うでしょう、この先の風景を描くときは」
澄の言葉には、迷いがなかった。それは進路という名の、律にはまだ名前をつけられない未来への切符を、既に握りしめている者の響きだった。律は、ただ頷くことしかできなかった。彼女の言葉は、まるで鋭利な筆先で律の心の空白をなぞるように、容赦なく彼の停滞を暴き立てる。

窓の外では、街灯がひとつ、またひとつと点き始めている。廊下には脚立の金属音、乾きかけた青の筋、新聞が配られ始めた時刻を思わせるバイクの遠い音が混じる。校舎の広さが、日中よりもずっと深く感じられた。人の気配が抜けた分だけ、残っている声がはっきりする。
背景画の左端、まだ白いままの部分に、律はローラーを押しつけた。青が乗る。途端に、胸の奥が妙にざらつく。塗る作業は単純なのに、その単純さに自分の気持ちが追いつかない。進路希望調査の紙を、机の引き出しに入れたまま見ないふりをしていることも、澄が東京へ行くらしい気配を確かめないまま放置していることも、最後の白波祭がもう逃げられない場所にあることも、その青の上に重なって見えた。
そのとき、美術担当の藤代美和が教室に入ってきた。足音は低く、視線だけが先に全体を測る。背景画を一度見上げ、下塗りのムラを見つけると、眉ひとつ動かさずに言った。
「朝までに仕上げる。乾燥時間を逆算して、動きなさい。感傷に浸る時間は、完成してから取り返しなさい。あんたたち、この一枚にどれだけの責任があるか分かっているのか。これは単なる学校行事の飾りじゃない。白波祭という記憶そのものなんだ。最後までやり切る覚悟がないなら、今すぐ筆を置きなさい」
律は返事をしたが、その声は思ったより小さかった。美和はそれ以上何も言わず、教室の時計を見てから出ていく。ドアが閉まる音が、やけに長く残る。
残された空気が、少しだけ変わった。期限が言葉になったからだ。朝まで。たったそれだけの言葉なのに、時間の厚みが急に増える。律はローラーを握り直した。終わらせるための作業が、少しずつ、終わることを受け入れるための作業へずれていくのを、まだ自分ではうまく名づけられないままに。
「……ねえ、律」
紗季が、作業の手を止めずに小声で言った。
「あんた、今夜中に何かを決めるつもりなの? それとも、ただ今日という日を終わらせたいだけ? 澄がどこへ向かおうとしてるか、ちゃんと知ってるんでしょ。それなのに、あんたはまだここで、筆を持つ手すら迷わせてる」
律は答えられなかった。自分の気持ちを自分で認めること。それがこの夜、背景画の向こう側に隠れている本当の課題だということに、彼はまだ薄々気づいているだけだった。筆先が、かすかに震えた。自分のなかの青は、澄の迷いのない青とは決定的に違う。それは濁っていて、どこか怯えている。彼はローラーをまた押し出した。この青が乾ききるまでに、せめて自分の足元だけは見つめ直さなければならないと、誰にも聞こえない声で呟きながら。
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