第2話 廊下の声

律がペンキ皿を取りに教室を出たのは、ただの使い走りのはずだった。ペンキが乾いたことで、教室内の匂いは少しだけ薄まっていたが、廊下の冷えた空気と混ざり合うと、また別の重たさがまとわりついてくる。
旧体育館へ続く廊下の途中で、足が止まった。壁の向こう側、物陰になった美術準備室の方から、木戸澄の低く、しかし驚くほど澄んだ声が漏れ聞こえてきたからだ。聞くつもりはなかった。だが、その声は薄い壁をいとも簡単に越えて、夜の静まり返った校舎に、まるで冷たい水を撒くように落ちてきた。
「東京……うん。そう決めてる。お母さんにも、もう伝えたから」
足元の床板が、不意に軋んだ気がした。律は動けなくなる。息を止め、自分の鼓動がうるさすぎることに苛立ちを覚える。
「迷うことはない。ただ、今の作業を完成させる責任があるだけ。終わったあとのことは、そのあとに考える。それが一番、自分にとって嘘のないやり方だから」
誰か大人と話しているのだろうか。それとも、進学先に関わる誰かだろうか。断片的な言葉だけで、律には十分すぎた。澄はもう、自分の未来を確かな輪郭として描き、それを自分の手でつかみにいっている。その揺るぎなさが、律の胸を静かに、けれど確実に冷やしていく。
手の中にあるペンキ皿が、妙に重たく、そして冷たい。指先だけがじわじわと熱を持ち、関節が強張る。乾きかけた絵の具の匂いが、今度は急に、土に埋もれた魚のような生臭さを伴って鼻腔を突いた。

「東京か」
律は小さく呟いた。自分の声が、廊下の闇に吸い込まれていく。その一言が、これまでの自分を切り裂くような感覚を覚えた。彼がずっと恐れていたのは、進路を決められないことではなく、決めた相手と自分とのあいだにできる、どうしようもない距離だったのだ。
廊下の窓には、校門の街灯が夜霧に滲んで、ぼんやりとした黄色の輪を作っている。遠くで鳴り響いていた運動部の掛け声や部活の雑音は、いつの間にか消え失せていた。校舎は巨大な箱のように広く、深く、そしてあまりに静かだ。律だけが、その静寂の真ん中で取り残された標本のように立ち尽くしている。
「……自分でも、情けないな」
誰に向けるでもない自嘲を飲み込み、律は皿を持ったまま数秒間、暗闇と対峙した。視界がぼやける。いや、ただの疲れかもしれない。彼は意識を無理やり作業へ引き戻し、何事もなかったかのような顔を作って歩き出す。廊下を渡る足音が、やけに硬く響く。歩幅がいつもより狭く、ぎこちない。自分の体が、自分のものではないように感じられながら、彼は「あとの作業」を終えるために、またあの教室へ戻らなければならなかった。
廊下の角を曲がると、再び教室のドアが見えた。そこには、まだあたたかな蛍光灯の光が漏れている。律は深呼吸をし、喉の奥で詰まった重りを飲み込んだ。澄が東京へ行く。その事実を、せめて今夜、この背景画を完成させるまでは、自分の心の中に鍵をかけてしまっておこうと決める。それが、彼なりの不器用な誠実さだった。
ドアノブに手をかけたとき、指先にわずかな絵の具の湿り気がついていることに気づく。それは夜の海の、冷たい波の記憶のように、律の指先でじっとりと輝いていた。
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