第3話 空白の朝

朝、浅井悠真はいつもの時刻より早く目を覚ました。寝室の窓越しに見える旧市街は、まだ青白い霧の中に沈んでいる。商店街のシャッターは閉ざされたままで、街角を吹き抜ける風が、古びた看板を断続的に揺らしていた。まるで古い建物の軋みを聞くような、頼りない音だ。
身支度を整え、グラン・ソレイユ桜坂のエントランスに足を踏み入れたのは、午前五時五十五分だった。管理会社の臨時スタッフとしてこのマンションに関わってから、私の日常は少しずつこの建物の時間軸に侵食されている。
三〇四号室の郵便受けの前で、私は立ち止まった。午前六時十二分。毎朝、きっかりその時刻にだけ届くはずの「宛先のない朝刊」が、そこにはなかった。受け口は空っぽで、内側を覗き込んでも、あの湿った紙の感触は微塵も感じられない。
たった一日だけ、あの新聞が届かなかった。それだけで、私の胸の内には針のような違和感が鋭く突き刺さった。これまでの朝刊は、配達員が普通に届けたものではなかったのだ。誰かがこのマンションのどこかで一度受け取り、入念に折り直し、指定された時刻にここへ戻していた。今日の空白は、誰かがその一連の儀式を怠ったのか、あるいは、何かを隠すためにあえて「なかったこと」にしたのか。空白という事実は、過去に積み重ねられた行為の存在を、逆に鮮明に証明していた。
管理人室へ向かう廊下で、蛍光灯がひとつだけ明滅し、遅れて白く輝きだした。その光の先に、藤堂の背中があった。彼は巡回の途中で足を止め、使い古した古い鍵束を指先で丹念に確かめている。金属同士が触れ合うかすかな音が、静寂の中で妙に大きく響いた。
「藤堂さん」
私が声をかけると、彼は一度だけ鍵束を握り締め、それからゆっくりと振り返った。表情はいつも通り、感情という濾過装置を通した後のような、味気ない無機質なものだ。
「昨日の朝、三〇四号室に新聞が届いていなかった件ですが」
私がそう切り出すと、藤堂はすぐに答えない。彼は壁際で少しだけ視線を逸らし、その視線の先で古びた配電盤の蓋がわずかに傾いているのを確認した。

「それは……そうでしょうな。時折、そういうこともあります」
「そういうこと、ですか。配達のルールが急に変わるとは思えませんが」
私の追及に、藤堂は沈黙した。言い訳を探しているのではない。知っている真実を、あえて言葉という形にすくい上げることを拒んでいるのだ。彼は喉の奥で何かを飲み込み、再び鍵束を握り直した。その手つきは、まるで誰かの秘密を鍵穴に押し込んでいるようにも見えた。
「浅井さん。このマンションは、何事もない平穏な建物として維持されている。それが私の仕事だ。それ以上を問うのは、あなたにとっても得策ではない」
短く切られた言葉には、管理人としての職務を超えた、自己防衛の冷たさが混じっている。彼は知っているのだ。かつて北見静香が失踪した時、どのような手続きが闇の中で処理されたのかを。そして、その沈黙を維持することが、この共同体における唯一の掟であることを。
廊下を去る藤堂の背中を見送りながら、私は確信した。この朝の空白は、誰かが隠したくて隠した痕跡ではない。隠し続けてきた者が、あまりに長い反復の末に、うっかり自分の呼吸の乱れを見せてしまった跡なのだ。
私はエントランスを出て、冷え切った外気に触れた。ポケットの中で、以前、図書館の閉架資料から見つけた北見静香のメモの断片が、小さく紙の音を立てた。彼女が残したのは、消えゆく記録の断片ではない。このマンションに住む人間たちを縛り付ける、終わらない過去の残響だ。
「見逃さない」
私は自分に言い聞かせるようにそう呟き、商店街の角を曲がった。誰かが静香の気配を新聞という媒体で繋ぎ止めているのなら、私はその糸の末端を必ず見つけ出してみせる。たとえ、その先に待っているのが、私自身の平穏を破壊する真実であったとしても。冷たい風が、古い街並みの匂いを運んできた。それは、インクの匂いと、誰かの秘められた罪の匂いが混じり合った、独特の、湿った匂いだった。私は足早に歩き出した。午前六時十二分は過ぎた。だが、私の探索はまだ始まったばかりだ。
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