第1話 午前六時十二分の紙

マンションの空き部屋に毎朝届く、誰も頼んでいない朝刊。この小さな習慣の積み重ねが、やがてマンションの閉鎖的な空気を切り裂くことになるとは、今の私には想像もつかなかった。
管理会社の臨時スタッフとしてグラン・ソレイユ桜坂の管理室に入ったのは、湿った空気が旧市街の商店街に溜まる、まだ人の少ない朝だった。駅前から続く緩やかな坂を上り、築三十年のマンションの重いエントランスを抜ける。廊下の蛍光灯が、私の足音に合わせて断続的に白く点滅した。壁の塗り直しが重なった古い塗料の匂いと、どこか紙の湿ったようなインクの匂いが混じり合う独特の空気感。それが、この建物の第一印象だった。
私の主な仕事は、理事会から依頼された空き室の点検と掲示板の張り替えだ。しかし、このマンションには一つだけ、説明のつかない「習慣」があった。304号室。数か月前に元住人の北見静香が急に退去して以来、未整理の荷物が残されたままになっている空き部屋の郵便受けに、毎朝きっかり午前6時12分、購読履歴のない朝刊が差し込まれるというのだ。
「新聞配達の三枝くんは、宛先があるように見えるから入れていると言っていますが、どうにも腑に落ちない」
管理人の藤堂は、そう言って鍵束を掌の中に沈めこんだ。彼は言葉を吐き出すたび、必ず一拍だけ置く。その間には、知らなくてもいいはずの建物の澱(おり)が沈んでいるようだった。
「藤堂さん、防犯カメラの記録は確認しましたか?」 「ええ。新聞が届く時刻の前後にだけ、なぜか映像に微妙な空白が生じる。故障だと言い張ることもできますがね。この建物の古い録画機が、都合よく毎朝同じ時刻にだけ停止するというのは、少しばかり出来すぎていると思いませんか」
彼は感情を表に出さない。だが、その声の端には、何かを隠し守っている者の鋭い防御が混じっていた。
私は304号室の郵便受けを指先でなぞった。内側には、「北見」という苗字のラベルが剥がされた薄い痕が、今も消しきれずに残っている。丁寧に剥がしたのか、あるいは急かされるように剥がされたのか。端の破れ方は、彼女の几帳面さを逆照射しているようだった。
私は朝刊を受け取り、折り目を確かめる。角は乱れず、束ねたゴムの痕までが完璧に配置されている。紙面を開く前に指先で角を揃えるのは、図書館司書をしていた頃からの癖だ。無意識に紙の端をなぞりながら、地域面の小さな記事に目が留まる。赤鉛筆で引かれた細い線。その線の引き方に、妙な迷いと、それ以上の執着を感じた。
「あのう、浅井さん」
背後から声をかけてきたのは、新聞配達員の三枝だった。二十代の彼は、配達ルートを指でなぞるのが日課のような若者で、困ったように帽子のつばを触った。

「あの朝刊、変なんです。ただの配達ミスじゃありません。ある朝だけ、僕が配達ルートを回る順番を少し変えたことがあったんです。普通なら、そこに気づく人なんていません。でも、あの304号室の新聞だけは、僕が順番を変えても、必ず『誰かが受け取った後のような』整った状態で戻っているんです」
「受け取った後? つまり、配達した直後ではなく、一度別の人の手に渡っている可能性があるということか」
「はっきり見たわけじゃありません。でも、誰かがドアの前に立っていたような気配は……。いえ、余計なことを言いました。僕はただ、決められた仕事をしているだけですから」
三枝はそれ以上語ることを恐れ、自転車のペダルを強く踏み込んで去っていった。私は手帳を開き、書き留める。「時刻・空白・赤線・手繰られた痕跡」。これらはすべて、誰かが「見ている」ことの証左だ。
夕刻、理事長の久保田が掲示板の張り替えを手伝う私の元へやってきた。彼女は柔らかな笑顔で茶菓子を差し出し、北見静香という名前を口にするだけで、周囲の空気をピタリと凍らせる。
「北見さんは、単に退去されただけですよ。いろいろと……個人の事情もおありだったでしょうし。浅井さんも、わざわざ過去の埃を払う必要はないのではありませんか? ここは、平穏が何より大切ですから」
彼女の言葉は、氷砂糖のように甘く、そして硬い。話を自分の都合の良い方向へ滑らせるその手つきは、まるで書類の端を整えるような正確さで私を排除しようとしていた。
私は空き部屋に入り、静香が残していった領収書ファイルを開いた。紙と紙が重なり、沈黙が堆積している。彼女は何かを見て、それを記録として残そうとした。そして、その痕跡を今も同じマンションの誰かが追いかけ、新聞という日常の中に呼びかけ続けている。
その夜、録画機の空白を確認しながら、私は背中に冷たいものが走るのを感じた。朝刊が届く6時12分。そこに生じる数分間の空白。このマンションは、忘却という名前の偽りの平和で覆われているだけだ。そして、私はその「見過ごしてきた側」の平穏を、今まさに自分で崩そうとしている。
新聞の湿りが、指先の温度を奪っていく。これは配達された新聞ではない。誰かが、静香の不在を埋めるために、あるいは彼女の痕跡を消さないために、毎朝この304号室という「過去の器」へ戻している手紙なのだ。私は手帳を閉じ、指先で折り目の鋭さを確かめた。真実に触れることは、必ずしも救いではない。だが、私はもう、この紙の湿り気を「気のせい」で片付けることはできない。
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