第4話 都市の真実と、僕の選択
# 第3幕 開示 ## エピソード1 都市の真実と、僕の選択
もはや、俺の世界は壊れているのだろう。アスファルトの継ぎ目は脈打つ血管のように見え、雑踏のざわめきは無数の「寂しい」という単語の集合体に聞こえる。現実と非現実の境界線は溶けて曖昧になり、街を行き交う人々は、その輪郭を時折ぐにゃりと歪ませる影法師の群れだった。都市が発する無数の「耳」からの囁きは、脳髄に直接流れ込むヘドロのように、俺の精神を蝕み尽くそうとしていた。ユウキには精神科を勧められ、バイト先のサオリは腫れ物に触るように俺を避ける。彼女の、あの少し潤んだ瞳で見つめられるだけで救われるような気がしたのに、その視線すら今は恐怖の対象だ。俺が孤独になればなるほど、あの声はクリアになる。まるで俺の孤独が、奴らの栄養であるかのように。
もう、まともな手段ではどうにもならない。最後の希望、いや、藁というにはあまりに細く、千切れかけた蜘蛛の糸をたどるように、俺はネットの片隅で見つけた古書店を目指していた。かつて都市伝説や未解決事件に傾倒していた元警察官が店主をやっているという、いかにも胡散臭い情報。だが、今の俺にはそれしかなかった。
錆びついた看板に「かげろう書店」と記された店は、時間の流れから取り残された澱の中にあった。扉を開けると、カラン、と乾いたベルの音と共に、黴と古い紙の匂いが鼻腔を突く。天井まで届く書架にぎっしりと詰め込まれた古書は、まるで墓標のように静まり返っていた。
「いらっしゃい」
カウンターの奥から現れたのは、瘦せぎすの五十歳くらいの男だった。古めかしい黒縁の眼鏡の奥で光る瞳は、すべてを諦めたような、それでいて何かを見通すような深い疲労を滲ませている。俺が、これまでの経緯を半ば錯乱しながら、途切れ途切れに語り始めると、彼はただ黙って、時折頷きながら耳を傾けていた。壁の落書き、ノイズ混じりの電話、思考を読まれたかのようなメッセージ、そして「都市の耳」という囁き。常人なら眉をひそめるだけの狂人の戯言を、サイトウは表情一つ変えずに受け止めていた。
すべてを吐き出し、ぜえぜえと肩で息をする俺に、彼はゆっくりと口を開いた。
「君の話は、初めて聞くわけじゃない。警察官だった頃、似たような人間を何人も見てきた。最初は些細なきっかけなんだ。拾った手帳、夢で聞いた歌、そして……壁の落書き。取るに足らない、日常に転がっているノイズの一つだ。だが、それに耳を傾けてしまった人間がいる」
彼の声は、古書の頁をめくる音のように乾いていた。
「俺はそれを『都市の耳』と呼んでいた。仮説だよ。この巨大なコンクリートの塊は、それ自体が一個の生命体なんじゃないか、とね。そして俺たち人間は、その体内を流れる血球のようなものだ。都市は生きるために栄養を必要とする。その栄養とは、俺たちの感情だ。喜び、怒り、悲しみ。中でも、もっとも濃厚で味わい深い栄養源が……『寂しさ』なんだよ」
「寂しさ……?」
「そうだ。この街に渦巻く、行き場のない無数の孤独。都市はそれを啜って生きている。そして、時々、特に感度のいい人間を『耳』として選ぶ。君のようにね。君は、落書きの電話番号というインターフェースに接続してしまった。都市の膨大な『寂しさ』をダイレクトに受信する、アンテナになったんだ。君が聞いた囁きは、一人の人間の声じゃない。この都市に生きる何百万、何千万という人間の孤独の集合体だ。だから君の思考が読める。君自身もまた、その巨大な意識の一部になったんだからな」
男の言葉は、荒唐無稽な与太話のはずなのに、恐ろしいほどの説得力を持っている。これまで体験したすべての異常なパズルのピースが、彼の言葉によって、歪で醜悪な一枚の絵として完成していく。
「じゃあ、どうすれば……どうすれば、元に戻れるんですか!?」
俺はカウンターに身を乗り出した。男は静かに首を横に振る。
「戻れない。一度繋がれば、もう切断はできない。俺の同僚にも、この謎に深入りしすぎた奴がいた。彼はある日、こう言い残して消えたよ。『街の音が、歌に聞こえる』とね。ねぇ、君の選択は、あのトイレで電話をかけた瞬間に終わったんだ。運命に弄ばれながら、最初で最後の引き金は君自身が引いた。それが、不条理でいて唯一ルールだった」
諦めろ、と彼の目は語っていた。具体的な助けは与えない。それは優しさでも冷酷さでもなく、ただの事実だった。俺はよろめきながら店を出た。西日が差し込む街は、オレンジ色のノイズで満ちている。車のクラクションも、人々の話し声も、遠くで鳴るサイレンも、すべてが同じ響きを持っていた。
――寂しいの、電話して。
それはもはや脅迫ではなく、甘美な誘惑のように、俺の耳の奥で官能的に響き始めていた。
← 横にスクロールして読み進められます
