1話 陽菜とミルクの、いつもの朝散歩

# 第1幕 いつもの、小さな冒険のはじまり ## エピソード1 陽菜とミルクの、いつもの朝散歩

僕の世界は、音と、匂いと、そしてヒナの気配でできている。 柔らかな春の朝の光。それがヒナの部屋の床に、淡い金の絨毯を敷き詰める頃、僕の一日は始まる。僕の名前はミルク。真っ白で、ふわふわで、たぶん、すごく可愛いウサギだ。

ヒナは、佐倉陽菜。僕のご主人様で、僕の一番の親友。 彼女は今、光る大きな四角い板……ぱそこん?とかいうやつに向かって、指先を忙しなく動かしている。カチカチ、カタカタ。規則正しいその音は、僕にとっての子守唄みたいなもの。その足元、彼女のスリッパのすぐ隣が僕の特等席だ。ここからは、ヒナの全部が見える。集中すると少しだけ眉間に寄る皺も、時々、煮詰まったみたいに「あーもう!」って小さく唸る声も。

でも、そろそろ、この穏やかな時間にも飽きてきた。 窓の外。ああ、見て。光が、あんなにも楽しそうに踊っている。昨日降った雨の匂いがまだ少しだけ残っていて、土や草の湿った、甘い香りが風に乗ってここまで届いてくる。僕の小さな鼻が、ひくひくとその匂いを捕まえるたびに、足がむずむずしてくるんだ。

ぷぅ、ぷぅ。 僕は鼻を鳴らして、ヒナに合図を送る。ねえ、ヒナ。聞こえてる? ……聞こえてないみたいだ。カチカチいう音は止まらない。 僕はもう一度、今度はもう少し強く、彼女の足首に僕の真っ白な頭をすり寄せた。

「ん、ミルク? どうしたの?」

やっと僕に気づいたヒナの声は、春の陽だまりみたいに温かい。僕はその声が大好きだ。顔を上げたヒナが、僕を見てふにゃりと笑う。その笑顔を見ると、僕の心臓はきゅっとなって、嬉しくて飛び跳ねたくなる。

「お散歩、行きたいの? そうだよね、こんなにいいお天気だもんね」

わかってる! ヒナはやっぱり僕のこと、なんでもわかってる! 彼女は「よし」と一つ伸びをすると、椅子から立ち上がった。そして、部屋の隅にある棚に向かって歩いていく。僕の期待は最高潮に達する。だって、あの棚には、魔法の道具がしまってあるんだから。

ヒナが取り出したのは、水色の、僕のお気に入りの「おさんぽハーネス」。 それを見た瞬間、僕の中の何かが弾けた。ぴょん! ぴょん! 嬉しくて、意味もなく部屋の中を跳ね回る。フローリングの床が、僕の足裏を心地よく刺激する。

「こらこら、ミルク、暴れないの。じっとしてないと付けられないでしょ」

笑いながら僕を捕まえるヒナの腕の中は、世界で一番安心する場所だ。彼女の指が僕の柔らかい毛をかき分けて、慣れた手つきでハーネスを装着していく。カチッ、カチッ。バックルが留まる小さな音は、冒険の始まりを告げるファンファーレだ。

ハーネスを付け終わり、ヒナは僕を床に降ろす前に、ぎゅっと抱きしめた。 「本当に、ミルクは可愛いなぁ……」 彼女の独り言。それはいつものことだけど、今日の声はなんだか少しだけ、震えているような気がした。 「あの雨の日、道端で震えてた小さな君を見つけた時、こんなに私の毎日を照らしてくれるなんて思わなかったよ。君がいてくれて、私、本当に幸せなんだから」

雨の日。僕にはよくわからない。でも、ヒナが僕を抱きしめる力が強くなると、彼女の温かい気持ちが全部、僕の中に流れ込んでくるみたいで、胸がいっぱいになる。だから僕は、お返しに彼女の顎のあたりを、僕の鼻先でつん、と突いてあげるんだ。

「ふふ、ありがとう。さ、行こうか」

ヒナがリードを手に持ち、玄関のドアを開ける。 わあ! 一斉に飛び込んでくる、外の世界の匂い。花の蜜の甘い香り、アスファルトの乾いた匂い、どこかの家の洗濯物の清潔な匂い。そして、僕たちを呼んでいる、たんぽぽ広場の青々とした草の匂い。

「さあ、ミルク。いつもの散歩道へ、冒険に出発だね」

ヒナが僕に微笑みかける。僕はリードが少しだけ緩むのを感じて、小さな冒険への第一歩を、力強く踏み出した。

← 横にスクロールして読み進められます