7話 参謀への一歩、リーゼロッテの挑戦状

# 第1幕 異世界への駒落ち ## エピソード7 参謀への一歩、リーゼロッテの挑戦状

クレイン・フォン・エーベルシュタイン伯爵から参謀の座を打診された俺は、数日の逡巡の末、その申し出を受け入れた。戸惑いがなかったと言えば嘘になる。現代日本の、しがないアナログゲーム部部長だった俺が、ファンタジー世界の領主の参謀だなんて、コミカルを通り越してシュールですらある。だが、それ以上に俺の心を捉えたのは、純粋な好奇心だった。将棋の定石、孫子の兵法、マキャベリの君主論。俺が愛してやまないこれらの戦略と思想が、この剣と魔法の世界でどこまで通用するのか。それを試してみたいという欲求は、元の世界への未練や、未知の環境への不安を凌駕していた。まるで、これまで盤上でしか動かせなかった駒を、初めて現実という広大な盤面で動かす権利を得たような、高揚感があったのだ。

「桂馬殿、準備はよろしいかな」 伯爵の執務室で、クレイン伯爵が穏やかな声で俺に問いかけた。窓の外には、エーベルシュタイン領ののどかな田園風景が広がっている。あの日、騎士たちの諍いを収めてから、俺の生活は一変した。 「はい、伯爵。覚悟はできています。まあ、ルールも知らずにタイトル戦に臨むような気分ですが」 俺がそう言って肩をすくめると、伯爵は「はっはっは」と快活に笑った。 「そなたのそういうところが良い。凝り固まった我々にはない、柔軟な視点。このエーベルシュタイン領には、今、それが必要なのだ」 伯爵は立ち上がると、重厚な扉に向かって歩き出した。「さあ、行こうか。皆に、我らが新たな頭脳を紹介せねばな」

伯爵に導かれて向かったのは、城の中でもひときわ広壮な謁見の間だった。高い天井には巨大なシャンデリアがいくつも吊り下げられ、磨き上げられた大理石の床にその光が乱反射している。壁にはエーベルシュタイン家の歴史を描いたのであろう、巨大なタペストリーが掛けられ、荘厳な雰囲気を醸し出していた。 広間にはすでに、数十名の貴族たちが集っていた。色とりどりの豪華な衣装をまとった彼らは、一様に訝しげな、あるいは侮蔑的ですらある視線を俺に向けてくる。無理もない。彼らにとっては、どこの馬の骨とも知れない、異邦人の若造が、突如として領主の参謀という要職に就くのだ。盤面で言えば、序盤の駒組みの段階で、相手が突拍子もない奇襲を仕掛けてきたようなものだろう。混乱と不信が渦巻く空気は、肌を刺すように痛かった。 特に鋭い視線を送ってくるのは、白髪を綺麗に撫でつけた、いかにも古参といった風情の老貴族だ。後で知ったが、彼こそが伯爵の補佐役であり、保守派の重鎮であるヴェルフ・グリフィン子爵だった。彼の目は、俺の価値を値踏みするというより、俺という存在がもたらすであろう「変化」そのものを拒絶しているように見えた。

伯爵が玉座に着くと、広間のざわめきがすっと静まった。 「皆、集まってくれて感謝する。本日は、我がエーベルシュタイン領の未来にとって、重要な発表がある」 伯爵の声は、温厚な普段の口調とは違い、領主としての威厳に満ちていた。 「ここにいる若者、藤井桂馬を、本日より我がエーベルシュタイン領の正式な参謀として迎えることにした。彼の知恵は、必ずや我らの力となるだろう」 その言葉が放たれた瞬間、静寂は破られ、再び大きなざわめきが広間を満たした。「正気か」「異邦人を参謀に?」「伯爵もご乱心召されたか」。そんな囁きが、遠慮もなく俺の耳に届く。俺はただ、飄々とした笑みを顔に貼り付け、深くお辞儀をする。さて、どう来るか。相手の出方を待つ。将棋の序盤では、焦って攻めるのは悪手だ。

その時だった。貴族たちの人垣を割るようにして、一人の女性が凛とした足取りで前へ進み出てきた。 蜂蜜色の長い髪が、シャンデリアの光を浴びてきらきらと輝いている。体にフィットした深緑のドレスは、彼女のしなやかな肢体の曲線を官能的に浮かび上がらせていたが、その立ち振る舞いは一切の隙がなく、まるで熟練の剣士のようだった。そして何より、俺の目を奪ったのは彼女の瞳だ。深い森の湖を思わせるその翠色の瞳は、驚くほど理知的で、同時に燃えるような強い意志と、氷のような冷たいプライドを宿していた。 彼女こそ、エーベルシュタイン伯爵の長女、リーゼロッテ・フォン・エーベルシュタイン。十八歳にして、父である伯爵に劣らぬ明晰な頭脳と、領地を守るという強い自立心を持つ、この領地の若き獅子。彼女は俺の目の前でぴたりと足を止め、その射抜くような視線を真っ直ぐに俺に向けた。

「お父様、失礼ながら申し上げます」 鈴が鳴るような、しかし鋼の芯を感じさせる声が、広間に響き渡った。 「このエーベルシュタインの行く末を左右する参謀という重職に、このような出自も定かではない異邦人を据えるとは、一体どのようないお考えなのでしょうか。先の貴族間の諍いを収めたその手腕とやらは、聞き及んでおります。しかし、それは所詮、この広大な盤の隅で起きた、取るに足らない小競り合いに過ぎません。この領地が直面している問題は、長年の慣習や利権が複雑に絡み合った、もっと根深く、難解な詰みです。力も、血筋も、伝統への敬意も、そして何より、このエーベルシュタインの土を踏み、民と共に生きるという覚悟も持たぬ者に、一体何ができるというのですか?」 彼女の言葉は、単なる反対意見ではなかった。それは、この領地を背負う者としての責任感と、誇りの表明だった。彼女は、俺という不確定要素が、父が築き上げてきた、そして自らが守るべきこの領地の秩序を乱すことを、何よりも恐れているのだ。その真摯さは、俺に好感すら抱かせた。

俺は、彼女の挑戦的な視線を正面から受け止め、ゆっくりと口を開いた。 「これはこれは、姫殿下。ご高名はかねがね。手厳しいご挨拶、痛み入ります。将棋で言えば、初手から角道をこじ開けてこられたような気分です。確かにおっしゃる通り、俺はこの世界の常識も、貴族社会の作法も、何一つ知りません。いわば、ルールも知らずに将棋盤の前に座った赤子のようなもの。無知で、無力で、何の背景も持たない、ただの異邦人です」 一度言葉を切り、俺は集まった貴族たちを見渡してから、再びリーゼロッテに視線を戻した。 「しかし、姫殿下。だからこそ、見える景色というものもある。凝り固まった定跡や、過去の棋譜に囚われず、盤面全体を俯瞰し、誰も思いつかないような新手を見つけ出す。それが、俺の唯一の取り柄であり、存在価値だと自負しております。皆さんが重んじる力や血筋が、盤上を縦横無尽に駆け巡る『飛車』や、斜めに鋭く切り込む『角』のような大駒だとするならば、俺はさしずめ、ぴょんとトリッキーに跳ねて、相手の守りの隙間を突く『桂馬』といったところでしょうか。この駒が役に立つか、それともただの飾り駒に終わるかは、これからの俺の指し手、いわば『棋譜』で証明するしかありません。俺のこの命、この知恵のすべてを、エーベルシュタインという盤に賭ける覚悟はできております」

俺の言葉に、広間は再び静まり返った。リーゼロッテは、俺の将棋の比喩を完全に理解したわけではないだろう。だが、俺が彼女の批判を真正面から受け止め、その上で自らの覚悟を示したことは伝わったはずだ。彼女の翠色の瞳が、驚きと困惑、そしてほんのわずかな興味の色を浮かべて、微かに揺れた。やがて、彼女の唇に、氷が溶けるような、それでいて挑戦的な笑みが浮かんだ。 「面白いことをおっしゃるのですね、フジイ・ケイマ殿。あなたのその言葉、今はまだ戯言にしか聞こえませんわ。ですが……良いでしょう。その『桂馬』とやらが、盤面をかき乱すだけの愚かな跳躍をするのか、それとも敵玉を詰ます神の一手となるのか。このリーゼロッテ・フォン・エーベルシュタインが、あなたのその『棋譜』を、一手たりとも見逃さず、厳しく、厳しく拝見させていただきます」 彼女はそう言い放つと、優雅に、しかしどこか戦士のような気迫をまとって踵を返し、貴族たちの中へと戻っていった。その背中を見送りながら、俺は心の中で小さく笑った。 「角換わりからの激しい攻め合いか。望むところだ」 玉座では、クレイン伯爵が困ったような、それでいてどこか面白そうな表情で、俺たちのやり取りを見守っていた。

こうして、俺の異世界での新たな対局が始まった。目の前には、手強く、美しく、そして何より誇り高い好敵手。このエーベルシュタイン領という盤上で、俺は一体どんな棋譜を紡いでいくことになるのだろうか。今はまだ、壮大な戦記の序幕に過ぎない。

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参謀への一歩、リーゼロッテの挑戦状 - 『異世界の将棋戦記:戦略オタク、駒なき盤で覇を唱える』 - 誰でも作家life