4話 孫子の兵法:不戦屈人の計

# 第1幕 異世界への駒落ち ## エピソード4 孫子の兵法:不戦屈人の計

石畳の広場を満たす熱気が、肌をじりじりと焼く。俺、藤井桂馬は、果物屋の露店の陰から、眼前の「盤面」を冷静に観察していた。将棋で言えば、まだ序盤の駒組みにも満たない、しかし下手を打てば一気に戦局が悪化しかねない、緊迫した局面だ。

中央で睨み合うのは、二人の騎士。一人は猪の紋章を胸甲に刻んだ、おそらく二十代前半の血気盛んな若者。もう一人は、熊の紋章を掲げた、五十代と思しき歴戦の風格を漂わせる古強者。彼らの腰に提げられた長剣の柄に、既に指がかかっている。

「何度言えば分かる! 南へ抜ける『翡翠街道』の通行権は、我がシュトルム家が代々管理してきた聖域だ! 貴様らヘラー家のような成り上がり者が、易々と土足で踏み入れて良い場所ではない!」

若き猪、シュトルム家の騎士が唾を飛ばさんばかりに叫ぶ。対する古強者の熊、ヘラー家の騎士は、どっしりと構えながらも、その瞳には侮蔑の色が隠せない。

「聖域、だと? 笑わせるな、小童。あの街道は、エーベルシュタイン伯爵様の領民すべてに開かれた公道。それを貴様らが勝手に関所まがいのものを設け、通行料を徴収するなど、言語道断! それは伯爵様への反逆にも等しい行為ぞ!」

「なんだと貴様! 我が家の伝統を愚弄するか!」

「事実を述べたまでよ!」

言葉の火花が散る。周囲を取り囲む野次馬たちは、固唾を飲んでその光景を見守っていた。行商人、主婦、暇を持て余した若者たち。彼らの目は、恐怖よりも好奇心に爛々と輝いている。この世界では、こういう諍いは日常茶飯事であり、一種の見世物なのかもしれない。

将棋盤なら、ここで一手指すのは簡単だ。だが、ここは現実。しかも、俺の常識が一切通用しない異世界。介入すれば、部外者として斬り捨てられる可能性だってある。将棋で言えば、玉自ら敵陣に突っ込むような自殺行為だ。

しかし、このままでは間違いなく血が流れる。どちらかが死ぬか、あるいは両者が深手を負うか。そうなれば、この街の空気はさらに険悪になるだろう。遺恨は残り、また新たな争いの火種となる。それは、どうにも「美しい手」とは思えない。孫子は言った。『百戦百勝は、善の善なる者に非ず。戦わずして人の兵を屈するは、善の善なる者なり』と。

……やってみるか。

俺のポケットには、この世界で通用する金もなければ、身分を証明するものもない。あるのは、アナログゲーム部で培った戦略論と、少々の度胸だけだ。持ち駒ゼロ。だが、盤外からの「揺さぶり」という手なら、まだ残されている。

俺は深呼吸を一つすると、露店の陰からゆっくりと姿を現した。騒ぎの中心へと、飄々とした足取りで歩みを進める。当然、すべての視線が、場違いな東洋風の顔立ちをした俺に突き刺さった。

「なんだ、貴様は?」

シュトルム家の若者が、訝しげな目を向ける。俺は構わず、二人の騎士の中間点で足を止め、わざとらしく芝居がかった仕草で天を仰いだ。

「いやはや、実に見事なまでの騎士道精神。エーベルシュタイン領の騎士は、これほどまでに己の信義と名誉に篤い方々ばかりとは。感服いたしました」

俺の唐突な賛辞に、二人の騎士も、野次馬たちも、きょとんとした顔で俺を見ている。将棋で言えば、誰も予想しない場所に駒を打ったようなものだ。相手の思考を一旦停止させ、こちらのペースに引きずり込む。

「そこのお二方、もしやその剣を抜く前に、互いの『大義』を今一度、この場にいる皆の前で示してはいただけませんかな?」

「「大義だと?」」

二人の声が重なる。俺は満足げに頷いた。

「いかにも。シュトルム家の騎士殿、貴方が守らんとする『伝統』とは、エーベルシュタイン領の永きにわたる平和と秩序の歴史そのものでありましょう。そしてヘラー家の騎士殿、貴方が正そうとする『公正』とは、この領地を治めるクレイン伯爵様の御心そのものではないのですか? お二人が掲げるものは、私的な利権争いなどという些末なものではない。どちらも、この領地を想うが故の、尊ぶべき『大義』のはずだ」

俺は、彼らが争う原因である「通行権」という具体的な問題から、敢えて話を逸らした。代わりに「伝統」「公正」「領主への忠誠」といった、彼らが否定しようのない、より大きな概念を持ち出したのだ。

「だが、しかしだ! こやつは!」

シュトルム家の若者が反論しようとするのを、俺は手で制した。そして、彼の目を真っ直ぐに見据え、語りかける。

「シュトルム殿。もし貴方が、その剣でヘラー殿を斬り伏せたとしましょう。確かに、貴方がたの『伝統』は守られるかもしれない。しかし、人々は何と噂するでしょう。『シュトルム家は、力に物を言わせて道理をねじ伏せた』と。それは、貴方がたの輝かしい家門の歴史に、拭い去れぬ染みとなりはしませんか? 真の伝統とは、力で守るものではなく、人々の尊敬によってこそ受け継がれていくものではないのですか?」

次に、俺はヘラー家の古強者へと向き直った。

「ヘラー殿。もし貴方が、その正義の剣でシュトルム殿を討ったとしましょう。確かに、伯爵様の望む『公正』は一時的に示されるかもしれない。しかし、人々は何と見るでしょう。『ヘラー家は、古くからの貴族を陥れて成り上がろうとしている』と。それは、貴方が命を懸けて仕える伯爵様のお顔に、泥を塗ることにはなりませんか? 真の忠誠とは、血を流すことではなく、領内の和を保ち、領主の御心を安んじることにあるのではないでしょうか?」

広場は水を打ったように静まり返っていた。俺の言葉は、騎士たちだけでなく、取り囲む野次馬たちの心にも染み渡っているようだった。彼らの価値観の根幹を成す「名誉」という概念を、俺は盤上の駒のように動かしている。

「では、どうしろと言うのだ、この若造は!」

ヘラー家の騎士が、唸るように言った。その声には、先程までの怒気はなく、純粋な戸惑いが滲んでいる。好機だ。ここで、詰みの一手を指す。

「簡単なことです。お二方、剣を収め、共に城へ赴き、クレイン伯爵様の御前で正々堂々と申し開きをなさればよい。どちらの『大義』が、よりエーベルシュタイン領の未来に資するものか、その御裁定を仰ぐのです。それこそが、騎士としての最も名誉ある姿。領民たちも、私怨を乗り越え、法と秩序に従うお二人の姿に、惜しみない賞賛を送るでしょう。血で汚れた勝利よりも、汗で勝ち取る和解こそ、真の騎士が求めるべき栄光ではありますまいか?」

俺は言い終えると、にこりと微笑んだ。二人の騎士は、互いの顔を見合わせ、そして俺の顔を交互に見た。彼らの顔には、怒りも憎しみも消え、ただただバツの悪そうな表情が浮かんでいた。

やがて、シュトルム家の若者が、ちっと舌打ちをすると、剣の柄から手を放した。

「……今日のところは、この異邦人の戯言に免じて、引いてやろう」

「ふん。俺もだ。貴様のような若造の口車に乗せられたわけではないぞ。伯爵様への忠誠を示すためだ」

ヘラー家の騎士も、ぶっきらぼうにそう言うと、剣を鞘に押し戻した。二人はもはや互いに視線を合わせることもなく、それぞれの供回りを連れて、広場を足早に去っていった。

残されたのは、呆気にとられた野次馬たちと、俺一人。やがて、誰からともなく拍手が起こり、それはすぐに広場全体に広がった。俺は照れ隠しに頭を掻きながら、その場を離れようとした。これでひとまず、飢えをしのぐための何かしらの仕事にありつけるかもしれない。そんな安堵と達成感が、じわりと胸に広がった。

「――待ちなさい、若者よ」

その時、穏やかだが芯のある声が、俺を呼び止めた。振り返ると、そこには上質な、しかし華美ではない衣服をまとった壮年の男が、数人の供を連れて立っていた。歳の頃は五十代。手入れの行き届いた髭、温和な目元。だが、その瞳の奥には、すべてを見透かすような鋭い光が宿っている。ただ者ではない。

「見事な手腕だった。あの血気盛んな騎士たちを、言葉だけで手懐けるとは。まるで、盤上の駒を自在に操るかのようだったな」

男は、俺の心中を見透かしたかのような言葉を口にした。

「そなた、一体何者だ? その知恵、そしてその度胸。このエーベルシュタイン領では、見たことのない顔だが……。もし差し支えなければ、城で詳しく話を聞かせてもらえぬか」

男の背後には、城と思しき巨大な建造物がそびえ立っている。そして、彼の供たちが身につけている紋章は、このエーベルシュタイン領の領主、エーベルシュタイン伯爵家のものであることを示していた。

俺の異世界での人生は、詰み寸前の盤面から、予期せぬ一手指すことで、新たな局面へと動き出したようだった。俺は男――クレイン・フォン・エーベルシュタイン伯爵の好奇心に満ちた眼差しを受け止めながら、静かに頷いた。この出会いが、俺の、そしてこの世界の運命を大きく左右する「定跡の一手」になることを、この時の俺はまだ知る由もなかった。

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