第16話 リーゼロッテの挑戦状:城の財政難
# 第2幕 盤上戦術の開花 ## エピソード6 リーゼロッテの挑戦状:城の財政難
フローラ村とリベラ村の水路問題が、俺の奇策――というよりは、マキャベリ先生の受け売りを少々捻っただけの策で片付いてから数日。参謀としての俺の立場は、微妙な安定期に入っていた。領民の一部からは「知恵者のケーマ様」などと、少し気恥ずかしい呼ばれ方をするようになり、クレイン伯爵の信頼も日に日に厚くなっているのを感じる。だがその一方で、ヴェルフ子爵をはじめとする古参貴族たちの視線は、依然として氷のように冷たいままだった。彼らにとって俺は、伝統と秩序という名の美しい盤面を引っ掻き回す、正体不明の「成り駒」に過ぎないのだろう。
その日も俺は、執務室に山と積まれた羊皮紙の書類と格闘していた。窓の外では、エーベルシュタイン領の穏やかな昼下がりが広がっている。城下町の広場からは子供たちのはしゃぐ声が微かに聞こえ、鍛冶場の槌音が規則正しいリズムを刻んでいた。この平和な光景こそが、俺が守るべき「玉」なのだと、最近ようやく実感できるようになってきた。
不意に、重厚な扉がノックもそこそこに開かれた。その傲慢な登場の仕方で、誰が来たのかはすぐに分かった。
「参謀殿。少々お時間をいただいてもよろしいかしら?」
そこに立っていたのは、エーベルシュタイン伯爵が一人娘、リーゼロッテ・フォン・エーベルシュタイン。背筋を伸ばし、腕を組んだその姿は、まるで戦場に立つ女王のようだ。白磁のような肌に、夕暮れの光を受けて艶めく金の髪。しかし、その怜悧な美貌を支配しているのは、俺の能力を値踏みするような、挑戦的な光を宿したアイスブルーの瞳だった。彼女は侍従に命じて、分厚い革表紙の帳簿を何冊も俺の机に叩きつけるように置かせた。ドサリ、という鈍い音は、これから始まる対局の開始を告げる駒音のように響いた。
「先日の水路の件、見事な手腕だったと聞いていますわ。平民同士の小さな諍いを、彼らのプライドを傷つけずに収めたとか。けれど参謀殿、それは所詮、盤の隅で起こった些細な出来事に過ぎません。このエーベルシュタイン領という盤面全体が、今、どのような状況にあるか……貴方のような異邦人に、果たして理解できるかしら?」
彼女の声は鈴を転がすように美しいが、その響きには鋼のような硬質さが含まれている。彼女の細くしなやかな指が、帳簿の一冊をトン、と軽く叩いた。その仕草には、妙な色気があった。知性が磨き上げた、人を射抜くような鋭利な色香だ。
「これは、このエーベルシュタイン領の、過去五年分の財政帳簿です。ご覧になれば分かりますわ。我が領の財政は、火の車。いえ、もはや燃え尽きる寸前と言っても過言ではない」
俺は飄々とした態度を崩さず、椅子に深く座り直した。 「ほう。それはまた、厄介な局面ですね、姫殿下」
「厄介、ですって? 貴方にはその程度の認識なのね。いいでしょう、この私が直々に説明して差し上げます。エーベルシュタイン領の歳入の柱は、農産物からの税収と、西の森から産出される木材、そして南の丘陵地帯で採れる僅かな鉱物資源。それらは長年、この領地を支えてきました。しかし、ここ数年の不作と、周辺諸国との交易不振により、税収は落ち込む一方。それに反比例するように、歳出は膨らみ続けています」
リーゼロッテは帳簿の一葉をめくり、その滑らかな指先で特定の項目をなぞった。
「例えばこれ。ゾルディック公国との国境警備にかかる費用。あの好戦的な隣人がいる限り、削ることは許されない。こちらもそうですわ。古くからの貴族たちへの俸給。彼らの忠誠心を繋ぎとめるために、父上は安易な削減を決断できずにいる。伝統と格式を重んじる祭礼の費用も馬鹿になりません。これらは全て、エーベルシュタイン領の歴史そのものであり、民の心の拠り所でもあるのです。貴方が水路問題でやったように、小手先の知恵でどうにかなる問題ではないの。これは、血と土と、幾世代にもわたる人々の営みが積み重なった、動かし難い現実ですわ」
彼女の言葉は、まるで鋭い剣先のように俺の思考を突き刺してくる。彼女はただ問題を提示しているのではない。俺という存在の根幹を問うているのだ。歴史も、血筋も、この土地への愛着も持たない異邦人のお前に、この重みが分かるものか、と。その青い瞳の奥で、プライドと、そして領地を憂う切実な想いが炎のように揺らめいていた。
俺は黙って彼女の言葉を受け止めた。そして、目の前に積まれた帳簿に手を伸ばす。羊皮紙の乾いた感触が、指先に妙な現実感を与えた。インクで几帳面に記された数字の羅列。それは、この世界の無機質な現実の断片だ。
「なるほど……」
俺はゆっくりと口を開いた。
「姫殿下のおっしゃることは、よく分かりました。確かにこれは、一筋縄ではいかない。将棋で言えば、相手はガチガチの『穴熊囲い』といったところでしょうか。玉は深く、金銀で幾重にも守りを固め、攻め入る隙がまったくないように見える。こちらの攻め駒は少なく、持ち駒もない。一見すれば、投了寸前の局面です」
俺の例えに、リーゼロッテは怪訝な顔で眉をひそめた。「穴熊……? また貴方の訳の分からない遊戯の話ですの?」
「ええ、俺の故郷のボードゲームです。ですが、どんなに堅い囲いにも、必ず崩すための『急所』というものが存在する。そして、その急所を見つけるためには、まず盤面を正確に把握しなくてはなりません。どの駒が、どこに利いているのか。どの駒が、遊んでいるのか。金の流れも、人の感情も、盤上の駒の利き筋と同じ。一つ一つ、丹念に読んでいく必要があります」
俺は帳簿の一冊を手に取り、ゆっくりとページをめくった。 「この数字の羅列が、俺には駒に見えます。歳入という名の『歩』、軍事費という『飛車』、貴族への俸給という名の『角』……。そして、この盤面にはまだ、俺たちが気づいていない『隠れた駒』や『眠っている駒』があるかもしれない。あるいは、今まで定石だと思われていた指し手が、実は悪手だったという可能性もある」
俺は顔を上げ、リーゼロッテの目をまっすぐに見つめた。 「姫殿下。貴方の挑戦、お受けいたします。この詰みのような盤面、この藤井桂馬が、必ずや打開してみせましょう。少し、お時間をいただけますか? この城の『棋譜』を、じっくりと読ませていただきたい」
俺の言葉に、リーゼロテは一瞬、虚を突かれたような顔をした。彼女の青い瞳が、わずかに揺れる。それは驚きか、あるいは呆れか。やがて彼女は、ふっと息を吐き、唇の端に微かな笑みを浮かべた。それは嘲笑ではなく、どこか面白がるような、しなやかな獣が獲物を見つけたときのような笑みだった。
「……面白いことをおっしゃるのね、参謀殿。よろしいでしょう。その『棋譜』とやらを、心ゆくまでお読みなさい。ですが、もし貴方がこの難局を打開できなかった時は……その時は、父上がいかに貴方を信頼していようと、この私が、貴方をこの城から追い出して差し上げますわ」
そう言い残し、彼女は長い髪を翻して部屋を出て行った。扉が閉まると、部屋には再び静寂が戻ってきた。しかし、その静寂は先ほどまでの穏やかなものとは違い、張り詰めた緊張感をはらんでいた。
俺は机の上に広げられた帳簿の山を前に、不敵な笑みを浮かべた。面白い。実力もプライドも、そして領地を愛する心も、すべてが一級品の姫殿下。彼女との対局は、最高にスリリングだ。
夜が更け、城が寝静まっても、俺の執務室の蝋燭だけは燃え続けていた。一枚、また一枚と羊皮紙をめくる。数字を追い、金の流れを読み解いていく。それはまさしく、難解な詰将棋を解く作業に似ていた。支出の多さ、収入の少なさ。伝統という名の動かせない駒。貴族たちの思惑。その全てが、俺の玉に王手をかけようと迫ってくる。
だが、俺の思考は不思議と冴えわたっていた。絶望的な盤面であればあるほど、燃えてくるのが戦略オタクの性分というものだ。窓の外に広がる闇に沈んだ城下町を見下ろす。眠る民の寝息が聞こえるようだった。
「待ってろよ、ギルバート。そして、見ていてください、姫殿下」
俺は帳簿の片隅に、誰も気づいていなかった小さな収入源――領内の特産品である香草と蜂蜜の項目を見つけ出していた。それはまだ盤面の隅で眠っている、取るに足らない『歩』のような存在だ。しかし、将棋では『歩』が『と金』に成って、戦局をひっくり返すことなど日常茶飯事なのだ。
俺は蝋燭の揺らめく灯りの下で、静かに呟いた。 「さて、次の一手で、この『穴熊』の急所を突いてみますか」
新たな対局の幕が、静かに上がった。
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