10話 新たな盤上、ライバルとの序幕

# 第1幕 異世界への駒落ち ## エピソード10 新たな盤上、ライバルとの序幕

エーベルシュタイン領の参謀という、我ながら突拍子もない役職に就いてから、数週間が過ぎた。俺、藤井桂馬の生活は、大学のアナログゲーム部室で盤面を睨んでいた頃とはまるで違う、現実の重みと手応えに満ちていた。

執務室に運び込まれる羊皮紙の束。税収の報告、村同士のいさかいの調停記録、街道の補修計画。それら一つ一つが、俺にとっては盤上の駒だった。どの駒をどう動かし、どう配置すれば、この「エーベルシュタイン領」という盤面がより有利になるか。将棋の定石や手筋を応用して書類を捌いていく俺のやり方は、当初こそ奇異の目で見られていたが、いくつかの懸案を解決するうちに、城の文官や兵士たちの見る目も少しずつ変わってきた。

「桂馬殿、おはようございます!」 「参謀殿、昨日の水路の件、村人たちが大変感謝しておりましたぞ」

廊下ですれ違う彼らの声には、以前のような訝しむ響きはなく、確かな信頼の色が混じり始めていた。それは、将棋で相手の守りを崩し、自分の攻め筋が通った時のような、静かな達成感を俺に与えてくれる。

もちろん、全ての駒が俺の意のままに動くわけではない。特に古参貴族のヴェルフ・グリフィン卿。あの老練な貴族は、いまだに俺を値踏みするような、氷のように冷たい視線を向けてくる。まるで盤面の隅でこちらの玉将をじっと睨む、動かざる大駒のようだ。まあ、それもまた一興か。どんな盤面にも、一筋縄ではいかない駒はいるものだ。

俺にとって最も手強く、そして最も面白い駒は、間違いなく彼女だった。

「桂馬殿。少々お時間よろしいですわね?」

執務室の扉をノックもそこそこに開け放ち、凛とした声と共に姿を現したのは、この城の姫君、リーゼロッテ・フォン・エーベルシュタイン。金の髪をきりりと結い上げ、腰には愛剣のレイピア。その美貌にはいつも、挑戦的な光が宿っている。

「これは姫殿下。ええ、構いませんよ。どうぞ」

彼女は俺の机に、数枚の羊皮紙を叩きつけるように置いた。それは、俺が先日提出した、領内兵士の新しい集団訓練計画書だった。

「拝見しましたわ。相変わらず、貴方の考えることは机上の空論ばかりですわね。陣形? 連携? 兵士一人一人の武勇こそが、戦場の勝敗を決するのです。剣もろくに振れぬ者が考えた絵空事など、実戦では何の役にも立ちませんわ」

彼女の言葉は鋭く、そして真っ直ぐだ。将棋で言えば、初手から角道をこじ開けてくるような、居飛車急戦。受けて立つこちらの腕が鳴る。

「お言葉ですが、姫殿下。個々の駒の強さが重要であることは、俺も否定しません。金将は強いし、飛車は強力です。しかし、それだけでは勝てないのが将棋であり、戦ではないでしょうか」

俺は立ち上がり、彼女の挑むような視線を真っ直ぐに受け止めた。

「例えば、どんなに屈強な兵士でも、一人で敵陣に突っ込んでも犬死にするだけです。しかし、歩兵が壁を作り、槍兵がそれを支え、弓兵が後方から援護する。そうした『形』を作って初めて、個々の兵士の力は倍増する。将棋の『囲い』が玉将を守るように、陣形は兵士たちの命を守り、そして勝利を呼び込むのです。俺が提案しているのは、個の力を殺すことではありません。個の力を最大限に生かすための『盤面』の作り方です。あなたは剣の達人だ。ならば分かるはずです。力任せに振り回すだけでは、真の好敵手は討てない。相手の動きを読み、間合いを計り、最適な一撃を繰り出す。それもまた『形』ではありませんか?」

俺の言葉に、リーゼロッテは一瞬、言葉を詰まらせた。彼女の蒼い瞳が、わずかに揺れる。その表情の変化を見逃すのは、戦略家として三流だ。ほんの少し、彼女の瞳の奥に宿る警戒心が和らぎ、代わりに純粋な知的好奇心が顔を覗かせた気がした。

「……詭弁ですわ。ですが、面白い視点ではありますわね。あなたの言う『形』とやらが、どれほどのものか。このリーゼロッテが、訓練場で直々に見極めさせていただきますわ」

そう言い放つと、彼女は踵を返し、風のように執務室を出ていった。去り際、訓練で流した汗の匂いが、ふわりと鼻を掠める。陽光を浴びて輝く金の髪、汗でしっとりと肌に張り付いた白いブラウスの曲線が、妙に官能的に俺の目に焼き付いた。思考とは別のところで、心臓がとくん、と跳ねる。

――いかんいかん。盤面が乱れる。

俺は苦笑しながら、自分の頬を軽く叩いた。彼女は手強い。しかし、だからこそ面白い。俺たちの「対局」は、まだ始まったばかりなのだから。

その夜、俺は気分転換に城壁の上を歩いていた。昼間の喧騒が嘘のように静まり返り、眼下にはエーベルシュタイン領の穏やかな夜景が広がっている。月明かりが石畳を銀色に照らし、まるで巨大な将棋盤の上にいるような錯覚に陥る。

「あなたも、眠れないのですか?」

背後から聞こえた声に振り返ると、そこにいたのはリーゼロッテだった。夜着の上に薄いマントを羽織っただけのラフな格好は、昼間の彼女とは違う、年相応の少女の柔らかさを感じさせた。

「ええ、まあ。少し考え事を」 「昼間の訓練計画のことですの?」 「それもありますが……色々と、ですね」

俺たちは並んで、城壁に肘をついた。しばらく沈黙が流れる。それは気まずいものではなく、互いの存在を認め合った者同士の、心地よい静寂だった。

「桂馬殿」

先に口を開いたのは彼女だった。

「あなたは、なぜそこまでして、このエーベルシュタインのために知恵を絞るのですか? あなたは異邦人。故郷に帰りたいとは思わないのですか?」

それは、俺が心の奥底にしまい込んでいた問いだった。

「帰りたいですよ。もちろん。友達も、慣れ親しんだ日常も、全部あっちにある。でも、帰れるかどうかは分からない。なら、今いるこの場所で、俺にできることをするだけです。それに……面白いんですよ、ここは。俺の知っている将棋や戦略が、こうして現実の人の役に立つ。駒が、血の通った人間になる。こんなにスリリングで、やりがいのある盤面は、どこにもないですから」

俺は夜空を見上げながら、正直な気持ちを吐露した。すると、彼女はふっと、柔らかく微笑んだ。それは、俺が初めて見る、彼女の心からの笑みだった。

「物好きな方ですのね、あなたは。ですが、あなたのその奇妙な情熱が、父を、そしてこの領を少しずつ変えようとしているのは事実ですわ。……私の父は、温厚すぎると言われることもありますが、誰よりもこの土地と民を愛している。私も、その血を受け継いでいます。このエーベルシュタインを守るためなら、私はどんなことでもする覚悟があります。だから……もし、あなたのその奇妙な知恵が、本当にこの領のためになるのなら、私はあなたの『駒』になることを厭いませんわ」

その言葉は、どんな賛辞よりも俺の胸に響いた。彼女は俺をライバルとして認め、そして同時に、共に戦うパートナーとして信頼しようとしてくれている。友情。そう呼ぶにはまだ少し気恥ずかしいが、確かな絆が、俺たちの間に芽生え始めているのを感じた。

「光栄ですね。姫殿下という、最強の『飛車』を得られるのなら、百人力です」

俺がそう言って笑うと、彼女は「誰が飛車ですって!」と頬を膨らませたが、その瞳は楽しそうに輝いていた。

執務室に戻り、俺は一人、窓の外を眺めた。リーゼロッテとの間に生まれた新たな関係。それは俺にとって、この異世界で得た最初の、そして最も大きな「戦果」かもしれない。

故郷を離れ、見知らぬ異世界で、俺は将棋という最高の武器を手に、このエーベルシュタイン領という新たな「陣地」で、未来への「一手」を踏み出した。ふと、クレイン伯爵から聞いた「盤上の賢者」の伝説が頭をよぎる。盤上の駒を用いて、この地を救ったという異邦人。単なるおとぎ話だと笑い飛ばすには、あまりにも俺の状況と符合しすぎている。

まあ、いい。謎は、解き明かせばいいだけだ。

今はただ、目の前の盤面に集中しよう。リーゼロッテという頼もしい仲間と共に、俺たちはこの世界の「盤上」で、切磋琢磨していく。これはまだ、壮大な戦記の序幕に過ぎない。俺の、そして俺たちの本当の戦いは、これから始まるのだ。

夜空に浮かぶ月は、まるで盤上に置かれた玉将のように、静かに俺たちを見守っていた。

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新たな盤上、ライバルとの序幕 - 『異世界の将棋戦記:戦略オタク、駒なき盤で覇を唱える』 - 誰でも作家life