15話 コレダ!人生のプロポーズ

息を吸う。肺腑を満たすのは、春の匂いと、微かな土の香り。そして、幾千、幾万と繰り返した絶望の果てに見出した、一縷の希望の香りだ。僕は今、高校時代に僕の人生を「コレジャナイ」と決定づけた、因縁の桜並木の下に立っている。

かつて、この場所は僕にとって処刑台だった。一歩足を踏み入れるたびに、過去の失敗が亡霊のように蘇り、自信という名の脆い骨を軋ませた。だが、今は違う。ここは、僕が僕自身の選択で「コレダ!」と言い切るための、始まりの舞台だ。

ポケットの中で、父親から譲り受けた古びた万年筆の感触を確かめる。もう、あのインクで「過去の選択メモ」に失敗を書き連ねることはないだろう。床に散らばる奇書と化したノートの山も、黒崎蓮という名の越えられない壁も、時野巡が残した謎めいた言葉も、すべてがこの瞬間のためにあったのだと、今なら分かる。僕の脳内を渦巻いていた西尾維新的な言葉遊び――あの自己防衛と自己欺瞞の螺旋は、とうとう静寂を得た。言葉はもはや、僕を惑わすための迷路じゃない。想いを伝えるための、ただ一本の道だ。

約束の時間。坂の上から、白石葵が歩いてくるのが見えた。春風に彼女の髪が柔らかく揺れる。その姿を認めた瞬間、僕の心臓は甘酸っぱい痛みと共に一度だけ強く脈打ったが、不思議と、かつてのようなパニックは訪れなかった。緊張で口元に手をやる、あの忌々しい癖も顔を出さない。

「桜木君、待った?」

僕の目の前で立ち止まった彼女は、少し不思議そうな顔で僕を見ている。そりゃそうだろう。僕が彼女をここに呼び出すなんて、これまでのループではありえなかった選択なのだから。

「ううん、今来たとこ。……葵、今日は、どうしても君に伝えたいことがあって」

僕は、彼女の目を真っ直ぐに見つめた。その瞳の奥にある、人の感情の機微を見抜く鋭い光から、もう逃げない。

「あのさ、俺はずっと、自分の人生が『コレジャナイ』って思ってた。まるで、誰かが書いた脚本を、間違った役者が演じているような、そんな違和感の中で生きてきたんだ。その原因は、高校時代の、この場所での失敗にあるって、ずっと思い込んでた。君に告白して、無様に失敗した、あの過去のせいだって。だから、もしやり直せるなら、完璧な言葉で、完璧なタイミングで、完璧な俺を演じれば、きっとうまくいくはずだって……そう、信じてたんだ」

葵は何も言わず、ただ静かに僕の言葉を聞いている。考え事をする時のように、無意識に髪を耳にかける仕草が、ひどく愛おしい。

「でも、違った。何度やり直しても、何度シミュレーションを繰り返しても、全然ダメだった。問題は過去の失敗じゃなくて、今の俺自身にあったんだ。俺は、君のことなんて見ていなかった。自分のプライドとか、失敗したくないっていう恐怖とか、そんなものばかりに囚われて、君がどんな顔で、何を思っているかなんて、考えようともしなかった。本当に自己中心的で、どうしようもない男だった。……ごめん。あの時の俺も、そして、最近まで君を振り回してきた俺も、全部、君に対して不誠実だった」

僕は一度、言葉を切り、深く息を吸った。

「だけど、もう迷わない。これは、数多の失敗と後悔の果てにたどり着いた、俺のたった一つの『正しい選択』だ。君が好きだ、白石葵。君の、誰にでも優しくできるところも、少し天然で周りを和ませるところも、そして、俺みたいな人間の奥にあるものまで見抜こうとしてくれる、その真剣な眼差しも、全部が好きだ。もう『コレジャナイ人生』は終わりにする。君と一緒にいる未来、それが、俺が心の底から欲しい『コレダ!人生』なんだ。だから、俺と、付き合ってください」

ひたむきな想いを、純情な言葉を、ありったけの声に乗せた。舞い散る桜の花びらが、僕たちの間に降り注ぎ、世界から音を奪っていく。

長い沈黙の後、葵はふわりと微笑んだ。それは、僕が何百回と見てきた、太陽のような笑顔だった。

「……やっぱり、桜木君は変だよ」

彼女は言った。

「最近、ずっと変だった。ある日はすごくおどおどしてるのに、次の日は妙に積極的だったり。私が好きだって言ったばかりのマイナーな映画のチケットを突然くれたり、私が困ってると、まるで見てたみたいに助けてくれたり。正直、少し怖かったくらい。でもね、ずっと見てた。あなたの目が、日に日に変わっていくのを。何かに必死で、もがいて、苦しんで……それでも、諦めないで、前に進もうとしてる目だって、分かってたから」

彼女の言葉が、僕の心を優しく包み込む。彼女は、僕がループしていることなど知る由もない。けれど、その鋭い洞察力は、僕の魂の遍歴を確かに感じ取っていたのだ。

「あなたが何を乗り越えてきたのかは、私には分からない。難しい理屈も、よく分からない。でもね、今、私の目を見て話してくれた言葉が、あなたの本当の気持ちだってことは、分かるよ。……私も、そんなあなたから、ずっと目が離せなかった。嬉しいな。やっと、言ってくれたんだね」

葵は小さく頷き、その声は春の陽光のように、僕の心に溶けていった。

その瞬間、世界がカチリと音を立てて、正しい位置に収まったような気がした。もう時間は巻き戻らない。僕が僕自身の意志で掴み取った、新しい時間が、今、始まる。

舞い落ちる桜吹雪の中で、僕たちはただ、見つめ合っていた。それは、二度目の初恋が、本当の恋になった、甘酸っぱくて清らかな瞬間だった。

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