第3話 太陽と、隅の小さな影
# 第2幕 ささやきの調律 ## エピソード2 太陽と、隅の小さな影
私の世界は、静寂を希求する心と、それを許さない現実とのせめぎ合いで成り立っている。大学のカフェテリア。ここは、あらゆる感情のサイレント・ボイスがごちゃ混ぜになる坩堝だ。昼下がりの気怠い空気、誰かの恋愛の悩みから漏れる甘ったるい溜息、間近に迫ったレポートへの焦燥が放つ、乾いた紙が擦れるような音。私はそのすべてから身を守るように、テーブルの隅で背を丸め、ノイズ・キャンセリング・ヘッドフォンを深く装着する。これが私の鎧であり、私の檻だ。
「青井さん、みーっけ!」
その声は、私の防壁をいとも容易く飛び越えてきた。太陽をそのまま声にしたような、一点の曇りもない明るさ。橘陽菜さん。彼女は、私の対極にいる生き物だ。常に人の輪の中心で、向日葵のように笑う。彼女から発せられるサイレント・ボイスは、他の誰とも違っていた。不快なノイズではなく、炭酸水の泡がシュワシュワと弾けるような、軽やかで楽しげな音だけが聞こえる。
「こんな隅っこで何してるの? もしかして、また難しい本?」 「……別に、普通の本」 「またまたー。でもさ、青井さん、本が好きならちょうどよかった! 今度の日曜、駅前の子供センターで読み聞かせボランティアやるんだけど、人手不足でさ! 青井さん、本が好きでしょ? 言葉を紡ぐのが得意な人が来てくれたら、子供たち、絶対喜ぶって! だから、お願い!」
太陽の引力はあまりに強い。断るという選択肢は、彼女の笑顔の前に蒸発してしまった。私は、ただ頷くことしかできなかった。
そして日曜日。子供センターは、私の想像を絶する地獄だった。 子供たちの剥き出しの感情は、濁流となって私に襲いかかる。「ママはまだ?」「これ嫌い!」「あっち行きたい!」。その一つ一つが、鋭利なガラス片のように私の鼓膜を突き刺す。純粋で、だからこそ容赦のないサイレント・ボイスの奔流。目眩がして、呼吸が浅くなる。壁際に後ずさり、無意識にヘッドフォンを強く握りしめる。そうだ、ここは、あの日のステージの上とよく似ている。大勢の期待と不安が形のない怪物となって私を飲み込んだ、あの発表会の記憶が、悪夢のように蘇る。
逃げ出したい。その衝動に駆られた時、混沌としたノイズの嵐の中に、ふと、一本の細く震える弦のような音を聞き取った。輪から外れ、部屋の隅で膝を抱える一人の少年。彼の小さな背中から、痛々しいほどのささやきが聞こえてくる。
『うまく言えない……みんなみたいに、できない……』
その小さな絶望は、刃となって私の胸に突き刺さった。それは、私がずっと抱えてきた叫びそのものだったから。社会の輪に馴染めず、自分の殻に閉じこもるしかなかった、かつての、そして今の私の姿。私は吸い寄せられるように、少年の隣に静かに腰を下ろした。
カバンの中から、大切に持ち歩いている一冊の本を取り出す。幼い頃、母がくれた、ページの端が擦り切れた小さな詩集。私の唯一のお守り。震える指でページをめくり、一番好きだった短い詩を、そっと読み始めた。声が、かすかに震える。
「……ちいさな いずみは かんがえる。おおきな かわに なれなくても、だれか ひとりの のどをうるおせたら、それで……」
少年は顔を上げない。けれど、彼の心から発せられていたトゲトゲしいノイズが、まるで春の陽光に溶ける綿毛のように、ふわりと柔らかく変わっていくのを、私は確かに感じ取っていた。
帰り道、夕日が私たちの影を長く伸ばしていた。隣を歩く陽菜さんが、私の背中を「やるじゃん、青井さん!」と快活に叩く。私はまだ、自分のしたことの意味を測りかねて、戸惑っていた。けれど、胸の奥で、今まで感じたことのない小さな衝撃が、確かな熱を帯びていた。
この呪いだと思っていた力が、初めて、誰かの痛みに寄り添えたのかもしれない。 弱さは、ただの弱さではないのかもしれない。
夕暮れの空を見上げると、世界は相変わらずノイズに満ちていた。けれど、その日の私には、その一つ一つが、少しだけ優しく聞こえるような気がした。
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