第1話 鎧と檻と不協和音
私の世界は、銀色のノイズ・キャンセリング・ヘッドフォンによって外界から遮断されている。これが私の鎧であり、私の檻だ。大学の講義室。むせ返るような人の気配だけで、私は呼吸が浅くなる。視線が、皮膚を焼く。好奇、無関心、侮蔑。それらが発する音なき声が、鼓膜を直接叩くのだ。
教授の講義への熱意はキーンという高周波の耳鳴りになり、必死にノートをとる学生たちの焦りは無数の乾いた紙が擦れるような感触に、そして大半の学生が発する退屈は、淀んだ水底から湧き上がる気泡のような鈍い破裂音となって、私の脳を直接揺さぶる。これが私の呪い、「サイレント・ボイス」がもたらす不協和音の世界だった。
(早く終われ、腹減った)(昨日のバイト、マジ最悪)(この後のサークル、行きたくないな)(単位、やばいかも)……。混線したラジオのように、意味をなさない思考の断片が濁流となって流れ込んでくる。私はただ、机の端を指でトントンと叩きながら、この精神的な嵐が過ぎ去るのを待つしかない。カバンの中には、ページの端が擦り切れた小さな詩集が入っている。小学時代に母がくれた、唯一の静寂。でも、ここでそれを取り出す勇気はなかった。
「――以上で本日の講義を終了する。なお、来週提出のレポートが出席点に大きく関わるので、未提出者は単位取得が絶望的になると心得るように」
教授の事務的な声だけが、ノイズの海を切り裂いて明瞭に届いた。その瞬間、教室内の空気が弛緩し、堰を切ったように雑音の洪水が押し寄せる。椅子を引く軋んだ音、解放感に満ちた話し声、そして何より、これから始まる自由な時間への期待という名の、けたたましいサイレント・ボイスのファンファーレ。
私はその轟音から逃れるように、誰よりも早く、しかし誰の視界にも入らないよう、壁際を幽霊のようにすり抜けて廊下へ出た。冷たい廊下の空気が、火照った頬に心地いい。無意識にヘッドフォンの滑らかな側面を指でなぞる。高校時代から使い続けている、相棒。そして、私を世界から隔絶する、銀色の壁。
このままではいけない。わかっている。レポートを出さなければ、また単位を落とす。そうすれば、実家にいる父の冷ややかな声が電話越しに聞こえてくるだろう。『お前はいつまでそうしているつもりだ。社会とはな、人とはな…』。その言葉の裏にある、苛立ちと失望のサイレント・ボイスが、今から聞こえるようで奥歯を噛みしめた。父の言う「弱さ」は、私にとって克服すべきものではなく、生まれついてしまった身体の欠陥、呪いそのものだった。
夕暮れに染まり始めたキャンパスを、俯いて歩く。楽しげに笑い合う学生たちの輪が、私には異世界の光景に見えた。彼らの世界と私の世界の間には、決して越えられない透明な壁がある。このヘッドフォンを外せば、彼らの心のささやきが聞こえるのだろうか。いや、違う。聞こえるのは、私を苛むノイズだけだ。
「弱さは悪ではない。個性だ」 いつか読んだ本の言葉が、不意に脳裏をよぎる。 馬鹿なことを。私のこれは、個性なんかじゃない。ただの欠陥だ。人を遠ざけ、私を孤独にするだけの、忌まわしい烙印だ。
それでも、心のどこかで渇望している。偽りや馴れ合いではない、本当の繋がりを。このノイズの嵐の中で、たった一つでいい、美しい旋律を聞くことを。この息苦しい檻から抜け出して、静寂の中で深く息をすることを。
私は立ち止まり、空を見上げた。茜色と藍色が混じり合う、美しいグラデーション。世界はこんなにも静かで、広大なはずなのに。 どこかに、ないのだろうか。 この耳鳴りが止む場所が。私が、ただの私として存在できる、安らぎの場所が。 その問いは、答えのないまま、都会の喧騒と私の内なるノイズの中に、かき消されていった。
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